第4話 御礼参りと墓参り
スジャータが引き起こした一件があって以来、二月近くもの月日が流れる。
温暖な春は過ぎ去り、季節は夏へと移っている。海に面しているマツヤの町は土地柄か、湿気が非常に多い。真夏ともなれば日中は肌を突き刺すような強い日差しに身を焼かれ、日が暮れようとも暑さも湿気の多さも和らぐことがないのでなかなか不快だ。
この時期がやって来るとフェレシュテフは思い出す。
『乾上がるような暑さには慣れているけれど、こんなにも蒸し暑いのには未だに全然慣れないわねぇ。困ったわ』
砂混じりの乾いた熱風が吹きつける砂漠の国で生まれ育ったフェレシュテフの母親は、マツヤに夏が訪れる度にこんなことを言っていた。働き者だった母親を失ったのは三年前のとても暑い、じめじめとした夏の日だった。
――ああ、そうか。もう直ぐ母親の命日がやって来るのか。殺風景な部屋の壁に貼り付けた暦表に指を滑らせていたフェレシュテフは、そのことに気が付いた。
「……お母さんの命日にお墓参りに行けるかしら?」
フェレシュテフは月に一度は必ず町の郊外にある共同墓地へと足を運び、簡素な作りの母親の墓前に近況報告をするのが習慣になっている。けれど今は店主ジャグディシュによって外出禁止令が出されている為に軟禁状態にあるフェレシュテフは、母親の墓前に行くことが出来ないでいた。いつまで続くのかが不透明な軟禁生活にフェレシュテフが墓参りを諦めかけた頃、怒りを燻らせていたジャグディシュの機嫌がどういう訳か上向きになり、外出禁止令は解除されることとなった。
晴れて自由の身――といっても、自由に町の外へと出ることは許されていない。娼婦たちの逃亡を防ぐ為にそう定められている――となったフェレシュテフは、次の休日に早速外出をすることに決めたのだった。
**********
休日の朝。うきうきとした様子のフェレシュテフは、いそいそと支度を整えていく。サリーの巻き終わりの部分を頭にかけ、櫃の中に大事にしまっておいた布の包みを小脇に抱えると、店主に出かける旨を伝えてから静寂に包まれた娼館を後にする。
じりじりと身を焦がすような日差しから少しでも逃れようと日陰を探しながら、フェレシュテフは色町と人間の居住区を抜けていく。広大な町の中を只管に歩いていくとやがて潮の香りを孕んだ風が体を掠めていくようになり、マツヤが誇る大きな港へとやって来ていた。
「えーと、”ヴィクラム商会”は……と」
出がけに店主ジャグディシュから手渡された一枚の紙切れを見ながら、フェレシュテフは港を進んでいく。
白い虎(仮)に借りたものを返しに行くことと母親の墓参りに行くことをジャグディシュに伝えると、彼は帳簿をつける手を止めないまま、「白い
紙切れに記されていたのは――白い虎(仮)の名前と、居場所だった。白い虎(仮)にはフェレシュテフを助けた恩を売られるだろうと予想したジャグディシュは、彼について調べ上げたらしい。結局のところは、それは要らぬ心配に終わったようだが。然しその御蔭で白い虎(仮)を探す手間がかなり省けたので、フェレシュテフは店主に感謝をしているのだった。
沢山の人々で溢れている港に停泊している、遠方からやって来ているのだという黒煙を上げて進む蒸気船や、大きく張った三角帆に風を受けて進む帆船を横目に見つつ、立ち並ぶ煉瓦造りの建物も眺めていると、一際大きな建物が視界に飛び込んできた。
(此処が……あの白い
鰐と思しき絵が描かれ、”ヴィクラム商会”と大きな文字が添えられている看板が外壁に取り付けられている建物がフェレシュテフが探していた場所であるようだ。”ヴィクラム商会”の店先には、
「いらっしゃいませ。何か御用ですか?」
途方に暮れかけたフェレシュテフの鼓膜を叩いたのは、穏やかな女性の低い声。やおら振り返ると、とても背の高い亜人の女性がにこやかにフェレシュテフを見下ろしていた。カドゥルーと名乗った、顎の縁から下が殆ど薄茶色の鱗に覆われている女性は人間に近い上半身と大蛇の下半身を持っている
「こんにちは。私はフェレシュテフという者です。チャンドラさんと仰る
「チャンドラでしたら、船の積荷を下ろす作業に出ておりまして留守にしております」
今日着いた船の積荷は多いので、もう暫くは此方に戻ってこないとカドゥルーに聞いたフェレシュテフは、仕事の邪魔にならないようにするのでチャンドラが戻ってくるまで待たせてもらえないだろうかと彼女に尋ねてみた。チャンドラに借りた胴着を彼に渡しておいて欲しいとカドゥルーに頼んでも良いかと思ったのだが、やはり自分の手でチャンドラに返したいと思い直したので、そうした。カドゥルーはフェレシュテフの申し出を快く了承してくれ、長い蛇の下肢を器用に且つ優雅に動かして、フェレシュテフを待合室へと案内してくれた。
「商談にいらっしゃったお客様にお出ししているものなのですけれど、なかなか評判が良いのが自慢で。お口に合うと嬉しいわ」
風通しの良い窓際の席へと通してくれたカドゥルーは、マサラチャイをご馳走してくれた。あつあつのマサラチャイはとても美味しく、カドゥルーが自慢してしまうのも理解出来る気がしたフェレシュテフは口元を緩める。
ほんのりと太陽の熱を帯びた生温い潮風を身に受けながら、窓の外の港の風景をのんびりと眺めているうちに随分と時間は経過していたらしい。
「フェレシュテフさん」
耳障りの良いカドゥルーの声に意識と顔を向けると、彼女に連れられてきたらしい白い
「俺を待ってるっていう人間は、あんたか?フェレなんとかっていう……」
首が痛くなりそうなほど見上げなくてはいけない巨躯のチャンドラは、訝るような目をして、ぶっきらぼうに尋ねてきた。
(フェレなんとか……って、私のことよね?)
父親が付けてくれたというフェレシュテフという名前は砂漠の国で使われているもので、この辺りでは馴染みのない響きの為か一度で覚えてもらえることは少ない。だが、そんなことには慣れているのでフェレシュテフが気を悪くすることはなく、彼女は出来うる限りの極上の笑みを浮かべた。
「はい。私がそのフェレシュテフです。チャンドラさんに御用がありまして、此方に伺わせて頂きました」
「……どうして俺の名を知ってる?人間の女の知り合いはこっちにはいねえのに……」
青い目にじろりと凄まれてしまったフェレシュテフは反射的に身を竦ませるが、何とか気を取り直す。いつぞやはチャンドラに命を救われたこと、その時に借りた胴着を返しに来たこと、チャンドラの名前と仕事場は娼館の店主に教えて貰ったことを説明すると、チャンドラは納得してくれたのか、徐に虚空を仰いだ。
「あー、この前の……。どーりで嗅いだことあるような匂いだと思った」
亜人の多くは鼻が利くといい、彼らは顔よりも匂いで他者を覚える癖があるのだと仲の良い
「チャンドラさん、胴着を貸してくださって有難う御座いました」
フェレシュテフの手持ちの布の中で一等質が良い物で包んだ胴着を差し出すと、チャンドラは白い毛並みに覆われた大きな手で受け取ってくれた。いらない、と突っ返されなかったことにフェレシュテフはこっそりと安堵する。
「わざわざどーも。てっきり捨てたもんだとばかり思ってた。亜人の物を嫌がる人間は少なくないからな」
チャンドラとしては何の気なしに言ったつもりのようだが、フェレシュテフには何か含むところがあるように聞こえてしまい、彼女は蛾眉を八の字にして、しょんぼりとしてしまう。
「遅くなってしまって、御免なさい。もっと早くお返ししたかったのですけれど、なかなかそれが出来なくて……」
「あ?いや、別に、文句を言った訳じゃねえし……っ。何で落ち込んでんだよ、変な人間の女だな……」
「ご、御免なさい」
「いや、だから、何で謝るんだよっ!?」
勘違いをしてしまったことを恥じて落ち込んだら、チャンドラに怒られてしまった。謝ったら、何故謝るのかと言われてしまった。何をするのが正解なのか分からないフェレシュテフは、益々落ち込む。一方チャンドラはというと、先程までの仏頂面はどこへやら。鋭い目を白黒させて、両手を宙に彷徨わせていた。
然し俯いてしまっているフェレシュテフは、チャンドラのその様子には全く気付いていない。
「……お忙しいところにお邪魔してしまって、すみませんでした。……それでは、失礼致します」
深々と頭を垂れたフェレシュテフが、顔を上げないままにチャンドラの隣を通り過ぎようとした時、頭上から小さな声が降ってきた。
「――
何とか耳朶に触れてきた言葉に反応して足を止めると、フェレシュテフは体を捻りながら勢い良く顔を上げる。見上げた先にある仏頂面のチャンドラの横顔が心なしか照れ臭そうにしているように見え、彼女は唖然としてしまう。そんなフェレシュテフの緑の目とぶつかると、チャンドラは急いで青い目を明後日の方向へと向ける。照れが隠れていた仏頂面は既にただの仏頂面へと変わっていた。フェレシュテフに心情を悟らせまいとして、チャンドラはついつい子供染みた行動をとってしまっているのだろうか。
ぶっきらぼうな物言いと仏頂面のせいでてっきりチャンドラは近寄り難い人物かと思ってしまっていたのだが、実はそうでもないのかもしれない。そう思ったフェレシュテフが無意識に破顔すると、それを見たチャンドラは思い切り嫌そうな顔をした。そんな顔をされても、フェレシュテフはもう落ち込んだりはしなかった。
「それでは」
チャンドラに会釈をしてから待合室を出て、店先で書類の整理をしていたカドゥルーにマサラチャイの御礼と挨拶をして、フェレシュテフは”ヴィクラム商会”を後にする。
**********
「さて、と。お母さんのお墓に行く前に、お花屋さんに寄っていかなくちゃ」
フェレシュテフの母親が眠る共同墓地は、人間の居住区を抜けた先にある。その道の途中にある花屋に寄って、お手頃な価格の花を出来るだけ多く買って、墓前を沢山の花で飾るのがフェレシュテフなりの墓参りだ。
様々な場所から人間や亜人が集まるマツヤの町の共同墓地には、様々な形の墓で溢れていて、少しごちゃごちゃとしているように感じられると、フェレシュテフは此処へ来る度にそう思う。
両手いっぱいの花を携えたフェレシュテフが向かう先は、あまり裕福ではない人々が使用する区画だ。そちらにある墓は、遺体を埋めた場所の上に目印として大きめの石と死者の名が書かれた木の板が置かれている簡素なものが多かった。その区画の隅の隅にひっそりと、フェレシュテフの母親が眠る墓がある――のだが。
(あら……?)
母親の墓前に、見覚えのない二つの影がある。
一人は変わった形の帽子を手にした、明るい髪色の色白の中肉中背の人間の男性だ。後姿なので年齢はよく分からないが、その容姿からマツヤの住人ではないことは直ぐに分かる。その隣にいるのは黒々とした硬そうな鱗に全身を包んだ、蜥蜴によく似た長い尾を持ったとんでもなく背の高い亜人だ。鰐の顔を持つ
フェレシュテフの記憶が間違っていないのであれば、マツヤの町に住む母親の知人の中に彼らは含まれなかったはずだ。それでは彼らは一体誰なのだろうかと、ぼんやりと二人の男性の後姿を眺めていると――黒い鱗を持った亜人の男性がフェレシュテフの気配に気が付いたのか、ゆらりと身を翻す。それにつられて、隣の人間の男性も振り返った。四十代くらいと思しき人間の男性はフェレシュテフの姿を認めるなり目を大きく見開いて、唇を戦慄かせる。そして僅かの後に、震える声でこう呟いた。
「――ナージャ……?」
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