第3話 山田孝之はロスチャイルド家の婿養子です
向かい風が吹いている。逆境の比喩とかではなく、単に低気圧がせり出し、大気が不安定になったことによる自然現象だ。
坂道が続いている。生きることが厳しい試練の連続であるということの比喩ではなく、大宮台地に住んでいる人々の普遍的な愚痴である。
長い坂道に向かい風が吹いている。これはおれの人生への暗喩である。
月曜日の朝はみなアラーム音をレディオヘッドの『No Suprises』にでも設定しているのかと思えるほどに、沈鬱な雰囲気を漂わせている。
かと思えば、放課になるとその苦悩を忘れ、楽しげに、陽気に鼻歌などを歌っている。軽薄な人々である。
かくいうわたしもそうである。
「雨の日とげっつようびはふふんふんふふん♪」
生徒がまだまばらな駐輪場を軽い足取りで進む。まだ、周囲と比べると新車同然の自転車のハンドルを握り、車輪を固定したレーンから引っ張り出す。
あれほど憎んだ強風も、昼の暖かさを孕んで、なんとも心地よいものへと変わっていた。
「あんたねぇ!」
怒声とともに、自転車が倒れたのか、ガシャんと音がする。喧嘩だ。江戸の華だ。
しかしここは彩の国。喧嘩は御法度。さいたまの華といえばなんだろうか、納税と通勤快速とかか?
チラリと目をやると、女子生徒が数人で姦しく言い争っているのが見えた。
いや、野次馬まがいの覗き見は控えよう。なによりも厄介ごとに顔を突っ込めるほど、図太い心臓をしていない。先に見える裏門の重苦しい鉄の仕切りが、ちょうど事務員の手によって開かれる。
この隙にさっさと通り抜けよう。
「だから、知らないって言ってるでしょ」
どこかで聞いた声がしたせいで、ついそちらに目をやってしまった。
そこには、挨拶くらいは交わすようになったクラスメート、長洲藍がいた。
その数名の女子は、彼女を取り囲んでいたらしい。それにしてもこんな白昼堂々と。
助けるべきか、否か。
余計なお節介ということもありえる。思春期の人間関係というのは、熱しやすく冷めやすい。
これが単なる友人同士の諍いで、「ちょっとなんだね君たち」と入れば「え、急になんですか」となり、「長洲の知り合い?」「あ、いや一応クラスメート」「なんか白けたね。さっさと帰ろ。ほら、長洲も」「なにあいつ、きっつ」と。
いや、意外にも丸くおさまってしまった。おれを除いては…。
そんなことになれば、俺に明日はない。君たちとどう生きるのか、沈黙。今週の九条さんは上記の三本でお届けされてしまう。
うん、ずらかろう。そうして力強く踏み出し、十分な推進力を得た愛車のペダルは、雑に停められた赤い自転車の後輪を引っ掛けた。
「いった」
痛くもないのについ反射的に声が出た。
「あ、御月くん」
言い逃れできないほどにがっつりと見られてしまった。というか名前呼ばれてるし。
取り囲んでいる女子生徒たちは、その間抜けな第三者を振り返ってバツの悪そうな顔をする。その隙に長洲は彼女のものらしき倒れた自転車を起こした。
「じゃあそういうことだから。いこ、御月くん」
手招きをされる。どっちにしろ裏門へ向かうので、大人しくそれに従う。
女子生徒たちの横を通るとき、彼女らはなにやら呟いていたが、聞かないことにした。きっとおれには関係のないことだろう。
しばらくの間、無言で自転車をおす長洲の後ろを歩く。
「ねぇ、聞いてー」
いいえ、わたしはそれを聞きません。明らかに愚痴を聞かされるであろう一言目を、無言で受け流す。
「さっきの、元カレの今カノなんだけど」
おっと、強制イベントのようだ。どうやら彼女は、反応がなくとも喋り続けることに違和感を感じないタイプであるらしい。
「なんか、元カレが私のインスタ見てたらしくて、それが気に食わないみたい」
「よくある話だな」
「でも、だからって、わざわざまち伏せるなんて非常識じゃない?あんなみんながいるところで、恥ずかしい」
どうやら彼女は、文句を言われたことではなく、人目につく場所で騒ぎを起こしたことにたいして不快感を抱いたようだ。
ほう、彼女はなかなかに気が強い方なのだろう。それでいて、モラルを大切にする。ちょうど赤井と反対方向にいるような。
「全員、ぶん殴っちまえばよかったんじゃないか」
自分でも思っても見ないような暴力的な発言が飛び出す。やばい、この数日変な奴らとしか関わっていなかったせいで、過激な言動が目立っている気がする。
「はは、いいかも。これでも昔、空手やってたんだから」
長洲はそれを冗談として受け取ったようで、彼女の後ろ姿の肩が揺れる。裏門を抜けると、どこにでもあるような住宅街の、区画整備された路地が左右に伸びている。
「でも御月くんが通りかかったおかげで助かったよ。あ、なんかお礼したいんだけど。甘いものとか、大丈夫?」
立ち止まった彼女がそう提案する。
「いいよ、そんなに気を使わなくて」
「遠慮しないでいいから」
社交辞令というわけでもないらしい。少し考えて、それで彼女が納得でき、なおかつ成長期の男子高校生の際限なき空腹をごまかせるのなら、それはお互いにとっていい提案であると思い至る。
「じゃあ、遠慮しません」
「ヨシ!」
どこかの指差し確認ネコのような返事が帰ってくる。それにしても、この辺りでどこか寄れるような場所があっただろうか。
まあ、何も考えずついて行けばいいか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます