1-4

 辻風でグラウンドの砂埃が舞うなか、俺はシャツの袖を捲る。二歩、三歩と後退りして、膝に手をつく。

「それじゃあ、プレイ」

 森垣内の声を合図に、勢いよく前へと走り出し、そこから砲丸投げに近いフォームでボールを振り出し、低い位置へとリリースした。

「甘めぇよ」

 スーツの春山は地面にバウンドし、勢いを失って浮き上がったボールを引っ張り気味に打ち上げた。

「おっしゃ!6点」

 そのボールはラインを少し超えたあたりに落下する。だめだ、力を抜きすぎた。勢いを殺さずに投げるには、いい意味で脱力しなくてはならないが、加減しすぎると今のような打ちごろのクソボールになってしまう。

「どんまい、どんまい」

 嬉野先輩がエールを送ってくれる。

「何やってんだ、懲罰交代させんぞ!」

 赤井が野次を飛ばしてくる。

 ここは甲子園ちゃうねんぞ。交代してくれるのなら是非にでもそうしたいが、こいつらを黙らせるには勝つしかない。

「ほらよ」

 春山からバットを受け取る。1打席目は6対7。初っ端の反則で1点を献上してしまったのが悔やまれる。とにかく打つしかねぇ。6点以外は取れねぇな。

「おい!赤井!逸れた球は打たなくていいんだよな」

「そうだぞ、後ろの棒さえ倒されなきゃノーカンだ」

 よし、打てる球に集中。

 打席、はないが、バッティングできるポジションにつき、二、三回素振りをする。悪くない。シニアでは公式戦を含めても3割近くは打ってたんだ。ブランクはあるが、当てさえすればあんなライン、余裕で越えるだけのパワーあんだよ。

 たっぷりと時間をとって春山は、助走をつけ球を放った。その球は右にスライスし。俺の予測するヒッティングポイントの随分前でバウンドした。大丈夫、見送れる。

 いや、これは野球じゃねぇ、クリケットだ。

「おら!」

 一度地面についたボールは跳ね上がってから、それが落ちていくまでの間、一定の軌道を辿る。それは物理学を理解していなくとも、経験則から知っている。

 大きく内側に足を踏み込んで、構えた体とは垂直方向に、観戦している奴らのいる方へと流し打ちした。

「みんな!伏せろ!」

 黒川先輩がみなに注意を促す。

 低い弾道ながらラインを超えて、観客の群れに飛び込んでいく。

 あ、やべぇ。

 そのライナー性の打球は、的の大きい坂東先輩の張り出した臀部をかすめ、グラウンドの向こうへと飛んでいった。

「おい、見たか!?前から飛んできたボールがケツに掠ったぞ。どんだけデカケツなんだよ」

 よく見えないが、赤井が爆笑しているのだけは分かる。よく見えないというか、そっちの方向を見れない。視界の隅に怒気が漂っている。

「6点です」

 しかし、これで12点。打撃はここまでノーミス。あとは。

 ボールを手に取り、3度目の投球。

 助走にはまだ慣れないが、腕を強く振って強引に速球を投げる。ボールは春山のバットに当たり、鈍い音をたてる。春山は速球に反応して肩に力が入ってしまったのだろう。スイングがわずかにつんのめって、バットに当てただけの勢いのない打球になる。着地で大きくバウンドし、その後はゴロで白線を跨いだ。

「3点、だよな?」

「うぉー!!坂東先輩!!すんませぇーん」

 肩に力が入っていたのは、どうやら別の理由だったようだが、これで逆転した。

「やるな九条。ぜってぇ、ここは抑える」

「関係ねぇ。勝つのは俺だ」

 お互いに心なしか、競技を通じて敵同士ながら友情が芽生え始めていた。スポーツというのはこうやって他者との関係を深めていくのに役立つんだ。と今更そんな当たり前のことを思ってしまった。

 少なくとも昔は、そんなことを考える余裕がなかった。重要なのは勝つこと。そして経験を積み上達することだった。ほかのプレイヤーは俺という玉の実力を図るための試金石でしかない。本気でそう思っていた。案外楽しいもんだな。まぁ、だからどうしたって話だけど。


 春山の投球が始まる。

 投げる側を経験したことで彼の投球フォームが非常に洗練されたものだと理解できる。こんなことしてないでアメフトの練習しろよとは思うけれど。

「いい球、投げんじゃん」

 俺が一球目に投じたのとほぼ同じ。打者の手前ギリギリに落ち込むコース。振らなければ確実にアウトだったな。

 ボールは転がりながら、かろうじて白線を超えた。

 これで15対10。割と見応えのある勝負なんじゃないの。

「かー、なにやっとるか!九条は白米禁止!」

 うるせぇ。あいつは邪魔しかしねぇな。しかし、春山は会心の投球で調子づいて、表情にも先ほどまでにはなかった余裕が生まれている。5点という点差も影響しているかもしれない。

 その点差は皆に大逆転劇の想像を掻き立てさせる。

「タイムアウト!森垣内、タイムアウトだ!」

「そんなルールはありません」

「うっせーから、ちょっと黙ってろ」

 これほど集中するのは久しぶりだ。右手でボールを手に取ると、大きく胸を開いて深呼吸をする。右手から左手、右足、左足。体の感覚を研ぎ澄ましていく。連動して動くイメージ。悪くない。

 プロのスポーツ選手全般に言われる『自分の身体を自在に操る才能』。俺はその才能があると自負している。昔からどのスポーツにおいても、基本的な動きならば数回繰り返せば、なんとなくのコツを掴むことができた。

 クリケットであってもそれは例外ではない、はずだ。

 うっと鳥肌が立つ。

 自分としたことがとんだ大言壮語を吐いてしまった。だが、それを証明しさえすればなんの問題もない。恐らくこの投球法のキモは、助走の勢いを殺さない手の振りと踏み込み。

 一連の動きができるように助走は大きくとる。

 春山がバットを構えているのが見える。立ち位置がちょっと手前か?その一挙手一投足がはっきりと見える。珍しく頭もスッキリしていて、いやそんなことを考える必要もないくらいに集中できている。

 体は頭で考えるよりも先に動き、助走を始める。周囲が鮮明に見える。まるでスローモーションのカメラワークのように、三馬鹿の間抜け面や、アメフト部の奴らの馬鹿騒ぎ、坂東先輩がくしゃみをしようと鼻を大きく開いているところ、森垣内が笛に手をかけているところ。校舎の大時計が4時半を指しているところ。

 大きく胸を張り、そこから。振りかぶる。

 なんだっけ。4時30分。どこかで聞いたような。大事な時間だったような。あれ、そういえばなんで俺らはクリケットなんてやってんだっけ。あ、放送枠だ。そうだった、そうだった。

 ってまずくね?

「うぇっ」

 一気に流れ込んでくる情報によって、脳が致命的なエラーをきたす。リリースは遅れ、俺と打者とのちょうど真ん中あたりにボールがバウンドする。その勢いの死んだボールはそのまま2度、3度目のバウンドをし、打者の前に飛んでいく。春山は驚いたようにそのクソボールを遥か彼方へと弾き飛ばした。

「なにをやっとるんじゃ!ぼけぇ!」

 後世まで語り継がれる世紀の珍プレーが生まれた瞬間である。


◇◇◇


 結局、俺たちが駆けつけた時には時すでに遅し。放送ブースでは次順である文楽部が三味線を弾いていた。坂東先輩と黒川先輩はゴネていたが、女生徒の怒号と共に機材室から追い出されていた。

「俺はなんのために」

「負けたくせに」

 やっぱりこいつ、嫌いだ。

 そして正式に部員を一名増やしたラジオ部は予行演習と称し、近くのココスで打ち上げを行なうこととなり。

「じゃあ、お題は『最近あった腹立つ出来事』で」

「今度は九条の番か。っても急には難しいか?」

「後輩の教育とは一朝一夕になるものではない」

「坂東先輩!ビーフカレー来ました!」

「最初はちょっとしたことでいいよ。そこから赤井さんと話を膨らませて」

「坂東先輩!アヒージョ来ましたよ!熱々のうちに召し上がってください!」

 最悪だ。しかも、なんでアメフト部の奴らも。

 だいたい俺はファミレスで騒いでる学生がこの世で一番嫌いなんだ。最近あったムカついたこと?いまがそうだっての。

「なんだ、世間話のひとつも出来ないのか?」

「うっせぇ。今考えてるからちょっと待ってろ」

 そうだ。そういえば。

「おっ、なんだ?」

「人生を山登りに例える教師はいい加減、滅びるべきだと思わないか?」

「山登り?」

「なんか九条が喋ってるぞ」

「今日のホームルームで担任が言ってたんだよ。人生は山登りだってな」

「多分、あいつマルちゃんのクラスだな」

「マルちゃん?かどうかは知らないけど、とにかくそれが腹たってさ。そいつの言うことには、受験や部活動の目標を定めて一歩一歩進んでいくのが人生と似てるってことらしいんだが。

 俺の知り合いに登山やってる奴がいるんだが、そいつに言わせれば登山で少しでも不安になったらすぐに下山しろ。絶対に無理をするなっていうのが鉄則らしいんだ。そりゃそうだよな。そもそも登山って山に登るだけじゃない。登った後、無事に降りてくるまでが登山なんだ。

 着実に一歩一歩?最後まで諦めずに?山を舐めるなよ。山は人生じゃねぇ。山は山。登山は登山。人生は人生」 

 俺はファミレスの安っぽいグラスの山葡萄のジュースを飲み干す。

「そんで人生だってそうだ。受験程度は人生の山場なんかじゃねぇ。社会に出ればそんなの屁みたいなもんで、きっともっとしんどいことは山のように、そう山のようにあんだよ。人生を舐めんな!」

 気がつくと周りにいた奴らは、若干、というかだいぶ痛い人を見るような目つきで俺を囲んでいた。

「九条って結構細かいこと気にすんだな」

「うぬは随分と、いや、みなまで言うまい」

「ふははははっ。こいつやばいな!」

「でもいいんじゃない?なんだかんだ筋は通ってたし。聞き応えはあったよ」

 黒川先輩が恥ずかしがる俺の肩に手をおく。

「その調子で一丁やってくれよな」

 俺は天を仰ぐ。仰ぎすぎて背もたれと同化しそうだ。「いらっしゃいませー」と店員の元気良い、いや空元気気味の大きな声が響く。大窓の外はすっかりと夜の帳が下り、空は星ひとつない曇天だった。

 


 

 

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