第3話 C'est vert. ――Je t'aime.

 その女にとっての濡れたマドレーヌは、樹々が風にさざめく音であった。 紅茶に浸さずとも、軽やかな音がただ鼓膜を撫でるだけでいい。彼女は失われた時を求めることができる。

  けれど、あの日はもっと、近かった。

 女は様々なことを忘れることで生き長らえていく類の女だったが、その初夏のある時期のことだけは、今でも忘れていなかった。

「c’est…」

 女の掠れた咳のような声が、落ちて、消える。その続きは、自分の喉では紡げないことを悟って、女は目を閉じた。

  女のまぶたの皮膚のうらには、今も尚、一つの鮮やかな緑が広がっている。


 五年前。

 午後二時。

 そこには、女ただ一人しかいなかった。がらんとした、すり鉢状の講堂。こちらの大きな窓から、あちらの大きな窓へ、五月の爽やかな風が流れていた。

 女はある本を読んでいて、それは特別面白いものでもなかったが、まったくつまらないわけでもなかった。実に都合のいい本であった。都合のいい本。それは、女のつむじに柔らかなテノールが滴り落ちるのを待っているのに、都合のいい本。

「あ、今日も早いですね、川島さん」

 ああ、来た。

 この男の声は、差し込む陽射しによく溶ける。

 女はゆっくりと顔を上げ、本を閉じた。

「本を、読んでいたんです」

「そうですか。読書は大事ですからね」

  男は真面目そうに頷き、女の目の前の机に手のひらを置いて、陽の射しこむ窓の外を見遣った。

「ああ、陽に温められていて、あたたかい」

 私の、この黒の髪のほうが、よほど陽光を吸ってあたたかいのに。

 それで、先生の手が触れれば、きっともっと熱くなるのに。

「五月ですから」

 女はそれのみを、ぼそりと呟いて、男と同じ景色を見つめた。まだ硬い実のような言葉を、鎖骨のあたりでどうにか押しとどめることに、女は慣れていた。

「もう、桜の木も緑ですねぇ」

「本当ですねぇ」

  女はのんびりと話しかけ、男もまた同じようにのんびりと相槌を打った。ここでは、風も、温度も、陽も、壁も、黒板も、扉も、床も、そして女も、男も、等しくまどろんでいるかのようであった。

  男はふいに、あ。と声を上げた。まるでししおどしのようだと、女は思った。

「そういえば、川島さんのレポートに一点、訂正する箇所が。この授業の後、お時間は?」

「ええ、もちろん」

 女は自分の狡猾さに感謝した。女は男の授業以外で、そのようなミスをすることは決してなかった。そして、恋というものの圧倒的な支配力に、少しだけおののいた。自分にそのような画策をさせるのは、ただ一つの、その感情だけであった。

 そのうち、講堂にぞろぞろと学生が集まり、男は教壇に立った。女はその椅子に座ったまま、じっと男を見つめた。男のシルクのような声がフランス語を美しく発音する度、女の眼差しは弓矢になり、その矢先には、咽喉に蓄えた言葉の実が取り付けてあるのだった。


「せっかくなら、少し遠回りをして、緑を見て回りましょうか」

 ぞろぞろと集まった学生が、またぞろぞろと出て行った後、再び見晴らしのよくなった窓の外を眺めて、男は女に微笑みかけた。男は、歩くことが好きな類の男だった。女はそうではなかったが、この時ばかりは、それは、なんと素敵な提案なのだろうと、胸をときめかせた。

「ええ、もちろん」

 

 女と、男は、樹々の緑の津波の中を、歩いた。

 艶やかな緋色の躑躅が咲き乱れたり、淡い色合いの紫陽花が宝石のように散らばっていたりと、花々はいかにも主役然としていたが、やはりあくまで女も、男も、樹々が陽光を濾していることにばかり気を遣っていた。

 女は、このなんとも野卑で美しく気怠げな色彩を、「緑」という平凡な名で呼ぶことが許せないように思われた。非常口のあの色と、葉のこの色が、同じ音で呼ばれることを、絶対に認めてはならないのではないか。その時、きらめく葉で覆われた空を見上げ、男は呟いた。

「C'est vert.」

「え、なんです?」

「あ、いえ、ただ、緑だと、言っただけです。とても、緑が綺麗だなと。はい。あ、川島さん、フランス語で、緑は、vertです」 

 女はくすり、と笑って、vertと小さく口の中で転がした。同時に、「緑」という響きも悪くない、と思い直した。男の、あまりにたとたどしい話し方がそうさせたのだ。


 洗練されているのに、素直だ。

 それでいて、どの音よりも美しい。

 

「先生はいつもそうやって、色々とフランス語で言ってみるんですか?」

 女が聞くと、男は顎に手を当てて、少し考えた。それから、慈しむように目を細め、女を見た。

「ああ、そうかもしれません。つい癖で。好きだと思ったものや、美しいと感じたものなんかは、思わず口に出してしまいたくなる」


 もう、だめだった。


 女の喉は、限界だった。

 青い硬い実が、急速に熟れていき、ぬるりと舌までせり上がってくる。

 女はこらえきれなかった。それどころか、こらえるのが馬鹿馬鹿しくなってしまったのだ。

 だって、好きだと思ったものや、美しいと感じたものなんかは、思わず口に出してしまいたくなる。

 

「Monsieur,」



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淫蕩女学生カワシマと、先生nの記録 山群 例 @evenifif_20

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