第2話 我想、

 研究室のドアは、必ず締めなければならない。

 色を、一時も漏らさないために。


 青、銀、紫、白、金、桃色。

 濡れた花の香り。

 飾りけのない白い壁と白い灯りの下に、馴染めない高価さで、その人は居る。いつも、居る。睡蓮の花みたいに、緑色のクッションにまろやかな腰をのせて、咲いている。

「わざわざすみません、先生」

 女は、女に会釈した。

 二人の女は白い机をはさんで、向かい合っている。白い陶器の茶碗と蓋が、そのうえに、二つ。白い湯気が、混じり合って、一つ。

「いいですよ、川島さん。ちょうど私も一息いれようと思ってたから」

 その女は、ふふふ、と笑った。少女のようだった。まるで女学生のまま、ずっと生きてきてしまっているような、哀しい無垢が、微笑みに散らばっていた。頬の薔薇色が、とてもすべらかだった。川島の人差し指と中指が、ひく、と痙攣した。匂いたつようなかわいらしくふくふくとしたものに、手繰り寄せられるように、女の目の下に触れたくなったせいだった。川島は、自らの指を咎めるように、親指の爪で、それらをはじいた。ごまかすように、口を開いた。

「漢字というのは、そういえば、漢の文字と書きますね」

 川島は、机の上のその文字を、指のはらでなぞる。明朝体。ああ、そういえば明朝というのも、かつての中国の王朝だった、と、川島は頭の端で思い出した。こういうことばかりが、いつも頭蓋の裏がわの弧にそって、びっしりと苔むしている。川島はうんざりした。ガラクタばかりが揃った自分の記憶を、焼き払えれば楽なのに。川島は想像した。コロッセウムのような、黄色味がかった頭の骨の内を、青い炎が舐めつくす様を。それはなんだか、いっそ健全な過程のように、川島には思えた。

「そうですね」

 女は、絶妙な間を空けて、川島の独り言を拾った。膨大な選択肢からたった一つを選び抜くために、女はこの間をつくるのだというのを、川島はまだ知らなかった。

「そう、私たちは、なんだかんだ、外から入ってきたものに囲まれてますから。特に、中国の影響はとても大きい」

 しゃっきりとした口調で、女が教えを説いた。そういう時のこの女の瞳は、ぐんと硬さを増して、違う種類の宝石になったように、きらめく。水の中のダイヤモンドが、油の中の瑪瑙になったというほどに、がらりと変わる。

「中学生の頃、そういうの、習いました」

 川島が薄く微笑んだままそう言うと、女は戸惑ったように、たどたどしく睫毛を震わせた。沈黙が、降りる、その前に、掬いあげられた。

「あっ。川島さん。お茶の蒸らし時間、過ぎちゃってた」

 女が、腰を浮かせて、白い茶碗を覗き込んだ。そして、柔らかくて甘そうな指で、蓋のつまみを持ち上げた。香りが、渦巻の翅脈をひろげ、鱗粉を撒いて、白い色彩を七色に輝かせた。

「華やかで、きれいな香りですね」

「ええ、とっても」

 女と女はどちらも、目に見えない色を見るのが、上手かった。


「いいにおい」

 川島のつぶやきは、けれど、女には聞こえていなかった。

 女は研究室の隅の小さなステンレスの流し台で、ぼと、ぼと、と濡れた茶葉を落としていた。川島は、女のまるい背を、じいっと眺めた。その向こうの光景を、子細に思い描くためだった。

 きっと、あの茶葉は、森を詰めた牡丹雪みたいなのだろう。それで、先生の手は肉のついた梢だ。銀の大地に、筒状の小さな滝が、蛇の口から落ちる。

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

 再び、女と女は、元の姿勢に戻った。よりいっそう、芳しい花の香りに満たされていること以外、何も、変わらずに。

「このお茶はね、この間、香港に旅行した時に買ったの」

 茶碗は、置かれたままだった。女と女の舌はどちらも、熱さに弱かった。

「そうなんですね。いいなあ、海外旅行。おひとりで?」

 川島は、冷えて麻痺した指先を茶碗のつるりとした側面につけては、離しを繰り返していた。

「うん、そう。小籠包とかおいしくてね、食べ歩きしちゃった」

 肩をすくめて、女はおもむろに、茶碗に口元を近付けた。

 ふう、ふう。

 女の唇が、無邪気にすぼまっている。それは、多肉植物の葉を赤いペンキで塗りこめたようで、すももの皮で芋虫を包んだようで、川島に、奇妙な陶酔と背徳感を与えた。いじらしい。そう、女は、川島にとって、とてもいじらしいという魅力に、あまりに長けていた。

「このお椀、よく見たら少しだけ、青い」

 川島は、思わずその赤から目を逸らした先、指先の、陶磁器の秘密に、はっとした。

「ああ、そうそう。青磁って言うんだよ」

「あっ、それもなんか、習ったような」

 ふふ。女は、今度はゆったりと笑った。

「じゃあ、問題です。宋の時代の、陶磁器の窯業都市は?」

「んー…あ、景徳鎮」

 ふふふ。

「正解です」

 女は、あどけなく笑っている。ふう、ふう、と、茶を冷ましながら。本当に、女学生と話しているみたいだ。正体のない懐かしさに、川島の胸が、甘い湿り気を帯びていく。むせぶように。

 けいとくちん。その音は、小さな硬い果物を口の中でころころと転がしているみたいな響きだと、川島は愉しんだ。けいとくちん。夢見心地な気分で、川島は、茶碗の底に手のひらをあてて、唇の隙間に金や銀の花の香りの赤い水を、流し込んだ。色彩は、あくまで透きとおっていた。

「熱っ」

 眉をぎゅっと顰めて、川島は、机の上にあわてて茶碗を置いた。涼しげな赤は、けれど、熱すぎたのだ。拍子に、ぽた、ぽたたと、川島の指と、白い机に、茶がこぼれた。

「すいません、先生…」

「いいよ、いいよ。大丈夫?火傷してない?」

「はい、大丈夫です。あ、テッシュ…」

 ひりつく指をひらひらと振りながら、川島は棚の上のティッシュケースに手を伸ばそうとした。女は、のんびりとした表情で、川島の腕や、肩や、それにつられて胸や腹が動くのを、見ていた。ただ、見ていた。


 ぱしっ。


 だから、女にとって、その手首を掴んだのは、たぶん、衝動だった。女は本当に、女学生のまま、生き長らえていたのだった。ここまで、ずうっと。たとえ、いくつの論文を書き記しても、たとえ、いくつの教鞭を取って中国語を教授しても。

 女は、まだ、あの上等の制服の青い生地の中で、待っていたのだ。何を?少女を全うする、きっかけを。

「えっと、えっとね。じゃあ、問題」

 夕暮れの陽射しが、ブラインドの細い隙間を縫って、あふれた。そうしてその光は、やっと、この白一色で、かつ七色の香りに満ちた部屋を、正しく、結んだ。


「我想舔、你的手指」


ウォーシャンティエン、ニドゥショーチエ。


「私は、中国語はわかりません…」

 川島は、僅かに首を傾げた。そのまま、全身が一輪のピンク色の薔薇になったように、耳の縁まで赤くしたその女の、冷たい汗に濡れた熱い手のひらに握られた手首から、不思議な安らかさと、無邪気なたわむれが流れ込んでくるのを感じた。それは、細胞の小さな穴に染み込んで、腕から肩から胸から腹から、そして、あの廃墟のような頭蓋まで、巡り終えた時、川島は、くすりと、笑った。

「でも先生、私、ウォーアイニーなら、知ってますよ」

 女が、潤んだ瞳で、川島を見上げた。

 オパールだ、この目は。水を含んで、太陽を眼差しすぎた瞼のうらのようにきらめく、純真無垢な。もう立ち消えてしまった、もう温度を失ってしまったあの七色の香りは、ああ、全て、この円に収斂していたのだ。川島は、ちょっと前、伸ばしかけてやめた指を、伸ばさないことをやめた。

 女の震える睫毛を、ふっくらと腫れた真新しい火傷の指で、なぞった。痛みは脊椎を、透明の小さな虫のように這っていった。

「正しい発音、先生なら、わかりますよね」

 うん、わかる。

「我爱你」

 吐息が、熱い。

 ほら、正しい。

 研鑽の上にのみ立てる正確な異国の響きが、こういうあどけない唇から零れる瞬間が、川島はどうしても、好きだった。

 だから。


 雨に濡れそぼった薔薇の黒い渦に、指を、拭わせた。








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