淫蕩女学生カワシマと、先生nの記録

山群 例

第1話 mein gott.


 赤いダニの葬列のような。

 73を指すその細い赤の針を、女は惚けたままでねめつけていた。湿度計。水色のプラスチックの枠を男は爪ではじいて、唇を歪ませる。この水色は。

「ボッティチェリ」

と、いう名がつけられていまして。あっええ、そうはい、だから、うん。

 この男は、全身の管という管に罰として電流を注がれているような危うい話し方をする。男は、樅材の柱に肩を凭せ掛けている。指先で、汚れたクレパスを弄びながら。その色はテラコッタと銘打たれた特殊な茶色で、この部屋で、一番短い棒だった。棒。たとえば女の、親指よりもうんと。女はというと、湿った畳の上で、結露のきらめく窓の横で、一等優れたガラクタとして寝そべっている。アルファベット模様の紙の鳥や、蛙や、蝶や、花。この部屋には偽物の命しかない。そして清潔な布地しか。ぬいぐるみ。羊や、キリンや、熊や、魚、ユニコーン。これ等はすべてこの男の所有物であった。


 男が、女のそばに、その片頬に影を落とす平べったいオルガンの前まで歩み寄る。そして、座り込む。オルガン。これも、偽物だ。キイを押すと、パイプオルガンの録音が再生される、偽物。ラ。男の指が、黄ばんだ白の板の上でわずかに沈んだ。ミ。もう一度。女の視線は移ろった。もはや針など、見ていなかった。いい。どうせ、70の境でうろたえるばかりだ、あれは。女は、ただ、あまりに普遍的なかたちをした人差し指の、たしかに教養が培われた育ちのいい指を、愉しんで眺めることに夢中になっていた。鼻先まで転げてきたテラコッタなど、眼中になく。

「ズィ、アント、ヴォルテテン、ウント、シュプラーヘン」

 男がメロディを発している。音楽というよりは、旋律を部品にして組み立てているような、無機質なたどたどしさで。

「先生は、そのパートばかり弾きますね」

 女が、少ない鍵盤の一番左端、最も低い音を小指で押さえて、言った。

「人々は答えて言った。死刑にすべきだ」

 ねえ、どうして?

「好きなんです、ええ、この、このところ、あ、この部分が」

「それは、また、どうして?」

「感情にもろに訴えかける、キリスト教という宗教のすごさ、こわさがいい」

 男は、その一節のみを弾く。その一節のみを繰り返す。執拗に。止めない。至る所に水を含んだ侘しい神殿を、ぬいぐるみや折り紙やクレパスが散乱した幼稚な立方体を、ちゃちで侘しいマタイ受難曲の断片がその隅まで狂気的に埋めてゆく。

「こわいものが、お好きで?」

 女が、男を見上げた。青い髭が震えている。女の冷たい長い黒い髪の狭間で、涙の膜に包まれた瞳が、その瞳孔が、ぶわりぶわりと膨らんでゆく。

「イエスの足を髪で洗ったのは、たしか、娼婦でしたね」

 喉仏は動かない。白いシャツごと、微かな上下を繰り返す胸。

「あれは、男尊女卑的できらいだよね、僕は、うん」

 ビロウドの刺繍を縫い込んだ深緑のネクタイは、静かな滝。

「じゃあ、どこが好きですか。聖書」

 滝壺。ぬるりと光沢を放つ銀のバックル。女の目がそばめられる。

「あれは、どうだろう。香油。高価な香油を、イエスの足に塗る、あの、行動はとても、なんというか、その、あの」

「興奮します?」

 女の唇が弧を描いた。伏せた睫毛で、男の革のベルトの亀裂に向けて、獰猛なほど見開いた目を隠したまま。

 「……そうだ、興奮」

 男の指が、静止した。音が、なくなった。と、思ったら、すっくと立ちあがった。男は俊敏な動きで、キッチンの暗がりに吸い込まれていった。


 静止画のような光景が突如としてぶれたことで、女は少し混乱した。今やあるのは、薄い陽を白く受け止める畳のみ。背中が、寒い。窓に張りついた冬の冷気のせいだ。すりガラスの窓。たった一枚の。女はごろりと体を反転させた。白昼であることを思い出させる窓。腕を伸ばすと、中指だけが辛うじてそのガラスに触れた。冷たい。結露は女の指先を中心に、次第に玉になって、その爪の両端から垂直に転げていった。途中で二股にわかれ、ステンレスの桟に溜まる。次々と、次々と。


だくだくと。


 女はその時、何が起きたのか、それなりの時間をかけても、わからなかった。ただ、何か液体が、自らのつむじから、こめかみに、うなじに、眼窩に、頬に顎に、生温く伝っている感覚だけが、鮮明だった。


「え…」

 見上げて、絶句。


 液体は、男の手から注がれていた。平たい小ぶりの瓶だった。

「それは、香油ですか?」

「おさけだね。おさけ、です」

 男は、手に持っていた瓶が空になると、続けざまに足元に並べた別の瓶をまた握って、その栓を抜き、ごくごくと飲み下した後、女の頭上にまた注ぎ始めた。アルコールの噎せ返る気配に、肌まで圧迫されているのを、女は覚えた。そしてまた、ああこの男は、酒に依存していたのだということを、今さらながらに女は思い出した。キッチンの戸棚に鬱蒼と林立していた酒瓶を、思い出した。



「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…」

 男はごめんなさい、と呪詛のように繰り返した。愛おしい。何の魔力も持てないでいるその呪文しか呟けないこの男が、たまらない。

「せんせい」

 しとどに濡れた女は、溺れる舌と喉と歯をそれでも上手に使って、言葉を紡ぐ。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…」

 眼球を痛ませながら洗い流すそれらの液体は、女の髪の末端まで潤して、今や女 は、酒に漬けられている生贄であった。布と紙の呑気そうな動物たちを供物に、不在の神に捧げられる矛盾した儀式の。

「いい、ですよ。もっとかけて。ねえそれ、バカルディ?ラム?ウィスキー?ジン?あ、なくなりましたね。次は、あら、赤ワイン?ねえそれ、香油に似ていたの?先生、私にどうなってほしいの?わからないの?かわいいです」

 男は、重たい黒いガラス瓶を腰元で持ち、女の顔にかけた。まるで放尿しているかのような姿勢だった。女はそれをほんとうに心地よさそうに浴びた。

「ああ、僕は、僕はなんてことを、最低だ、最低だ…」

 アルコールはもはや女の脳の襞まで躍らせていた。女はひどく饒舌であった。

「ねえ先生って本当にかわいくって、かわいそうで、神聖で、幼稚で、騒がしくって、孤独で」

 女は、尚も頭上から施される恵の雨を享受し続けて充分に潤った黒い髪を、その束を、ふやけた掌で握りしめた。

「私が、歓迎してあげます、ラビ」


 擡げていた首を畳にあずけて、女は男の足首に、濡れそぼった髪を、巻き付けた。それは決して、拭う仕草ではなかった。ぐるぐる、ぐるぐると巻き付けて、まるできつく縛り付けるように巻き付けて、そして、ぐっと、手繰り寄せた。


どしんっ。ぎい、ぎい。


男が、背中から後ろに倒れた。

女は、黒い髪を全て背中に流して、そうして、男に覆い被さった。まっすぐに伸びた両腕が、仰向けの男の両耳と転がったガラス瓶の隙間で柱になって、影をつくる。

「先生、ねえ、どんな気持ちですか」

 唇から、男の耳朶に落ちていくように、撃たれた鳥の動きに似たやり方で、女は顔を近づけて、囁いた。

「……mein gott」

 ですよ、川島さん。

 酩酊の、昏い陽気さを孕んだ調子で、男はそう言った。

 瞼を、閉じた。もう一度、泡沫を吐いて。

「mein gott.」


 覚えておきたい。

 女は思った。

 それで、男の首筋に頬を押し当てた。

 そして、復唱した。授業のように、生真面目にその発音を真似て。


「マイン、ゴット」







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