3)本棚企画について~読む自由②~
読む自由論の続きです。ここまで書こうかどうか迷ったのですが、まあ、私の独り言なのでいいかなと。
私は読み合いが苦手です。でも、読書は好きです。そして、私のような人が実はそれなりにいるのではないかと思うのです。
なぜなら、書くことが好きな人で読むことが嫌いな人って想像ができない。みんな、書く以上に読んでいるのではないかと。
よく読み合い企画で「高め合い」「勉強のため」という言葉を目にします。
ちなみに、私のここでの活動のモットーは「マイペース」と「楽しく」です。スキルアップは目指しません。さらなる高みも目指しません。書いている小説に生活がかかっているわけでもないので、マーケティングもいたしません。戦略? もちろん立てません。
そんな向上心も熱意もなさそうな私ですが、いろいろと読みます。ただし、自ら選んで読むとするならば、ごめんなさい、まずは書籍です。お金を払って、その対価分の楽しみ・情報をきっちりいただきます。なぜなら、それが一番効率的で、確実だからです。
じゃあ、カクヨムの作品を読まないかと言えば、そうではありません。プロ顔負けの作者さん、確かにいます。読んでいて面白い作品、勉強になる作品、確かにあります。ただ、それを選ぶ自由は常に自分の手の内に置いておきたいのです。そもそも勉強になったかどうかは、読書の結果であって目的ではない。少なくとも私は、書く勉強のために小説を読むことはありません。
この小説投稿サイト(と言えばいいのでしょうか)の恐ろしいところは、書き手として登録したら最後、評価システムという土俵に否応なしに立たされてしまうところです。そこにあるのは勝ち組と負け組、ゆえの承認されたいという欲求。実際のところ、勝者になれなどと誰も言ってはいませんが、土俵に立たされた以上、嫌でも「評価」というものを意識せざるを得なくなる。そういう空気を感じます。
人として、認められたいという感情は自然なことだし、悪だとも思いません。いい方向に働けば、日々の活力になるでしょう。しかし、悪い方向に働けば自分を追い詰める刃ともなります。そうなると辛い。
必死で高みを目指さないといけなくなるし、
ここに集まる書き手が何も読まないわけがない。ただ、読みたいものがここにあるかどうかは別問題です。
読書という自由なはずのフィールドでこの閉塞感。私たちは、いったい何処へ向かおうとしているのか。
私の大好きな坂口安吾が、『堕落論「不良少年とキリスト」』の中で言っています。人間は決して勝てないと、勝つわけがないと。ただ負けないだけだと。勝とうなんて思ってはいけない、いったい誰に、何者に勝つつもりなのかと。
みなさんが闘っているのは、何者ですか。
坂口安吾『堕落論』、かなりの奇論ですが人間の本質を突いてきます。おススメですよ。誰か読んでる人いないかなあ。
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