第19話

「君が正人くんに今日中に会いに行くのは、概ね分かっていたよ。長い期間を掛けてクラスメイトに掛けた暗示は、そうそう解けるものではない。正人くんの暗示を解いたつもりであっても夜になれば再び症状が出ないか心配だったのだろう。心理学者の私でも同じことをする。それにね。正人くんにだけ暗示を解いた理由もわかったよ。」


冴木友恵は、俯いたまま何も話すことはなかった。


「夜景をいっしょに見に行きたいと君は正人くんに言ったそうだね。つまりは、そういうことだったのだろう。」


「私にそんな権利など。」


擦れた声で友恵はそう言った。


「でも、君は行きたかったのだろう。本当は、普通の少女として彼を好きになり、一緒に夜景や遊園地、美味しいものを食べ、何でもない時を過ごしたかったのと違うかい?」


勇樹にも大沢が友恵に暗示を掛け始めているのが分かった。一番、我々が知りたかった事実を聞き出すつもりだ。


「君にドルトジンを使わせ、暗示の技術を教え、こんな酷いことをさせたのはいったい誰だい?」


友恵は、首を横に振る。


「仕方がなかったのよ。資本主義はもう限界を迎えているのよ。理想とする共産主義、ユートピア国家の足掛かりにするために。その実験として・・・。」


すでに友恵の視線は定まっていなかった。まるで、書いてある文章を読んでいるかのように感情もなくそう言った。


「ユートピア国家か。善田教授も旧ソ連時代にそのような思想を持っていたと聞いている。実は、ロシアの友人に彼に詳しい人物がいてね。調べてもらったんだ。ソ連の崩壊後、善田教授は日本に戻り、その後、2人の養子を育てている。その1人の今の名前が冴木信義。彼もまた養子をひとり育てていると聞いた。冴木友恵。君は、善田教授の義理のお孫さんということになるね。」


友恵が口を開け何やら言葉に出そうとした瞬間。彼女の瞳孔が開き、そのまま後ろに倒れこんだ。


慌てて、勇樹が友恵に声を掛ける。息はしているが、とても浅い。顔色もみるみる青くなっていく。


「まずい!彼女も暗示を掛けられていたようだ。私としたことが気が付かなかった。」


大沢が、慌てふためく姿を見るのは初めて出会った。


「バルタン!バルタン!」


大声で大沢はバルタン先輩を呼びつける。暗示の効果が薄れてきたのか、這いつくばりながら必死にこちらに向かってきた。


「暗示を解くのを手伝ってくれ。おそらく、父親か教授の名前に反応したはずだ。いや、ユートピア国家か?それとの複合か?己らの思惑を知られぬために彼女に暗示を掛けたに違いない。暗示を解かねば死んでしまう!」


「・・・落ち着いてください。・・・まずは、暗示を解くのと並行して救命処置をしないと。」


よろけながら何とか立ち上がったバルタン先輩の指示にしたがい、勇樹は救急車を呼んだ。そして、彼らの指示に従い、救命処置を行う。一方でバルタン先輩と大沢が必死に暗示を解くことを試みた。


勇樹は、彼女の胸骨が折れんばかりに必死に押し、人工呼吸を行う。眠るように静かに目を瞑る少女。こうして見れば、まだ子供であった。弟と仲の良い友達。初めての彼女になるはずの少女・・・。


その時、友恵が突如、口を開いた。


「また、牛乳残したの?パンの耳も残すの?まったく・・・。」


目を瞑ったままであったが、口元はにこやかに笑っていた。


勇樹の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。牛乳嫌いでパンの耳も必ず残す。正人のことだ。彼女は、今、正人と共にいる。


滴る涙を拭くこともせず、必死に心臓マッサージを繰り返した。彼女は、何者かに言われるがままに酷いことをしてしまった。3人もの命を奪う行為まで働いた。しかし、その中でも弟の正人だけは守ろうとしたのだ。


怒りなのか?悲しみなのか?分らぬ感情が込み上げ、止まることなく涙が溢れた。


やがて、その勇樹の腕をバルタン先輩が止める。


「もう、亡くなっている」


勇樹は、「そんなのわからないじゃないですか!」とバルタン先輩に噛みつき、救命処置を続けた。


大沢は、呆然とただ立ち尽くしていた。

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