第13話

深夜1時。アパートに帰ると立花律子は、着ていた服を処分し、パソコンを開いた。


ドルトジンについて、さっそく調べ始めるがやはり僅かな物音にも敏感になる。時計の秒針を刻む音ですら、恐ろしく思える。ヘッドホンをつけ、できる限りテンポのいい音楽を流した。手元にはスマートフォンを置き、いつでも電話が出来る状態にしておいた。何かあれば、社長かバルタン先輩に電話を入れれば駆けつけることになっている。


ドルトジンの効果が実際には何日間程度続くのか?個人差はあると社長が言っていたが、10日以上は続かないだろうとの話だ。


『ドルトジン』と検索してもなかなか有力な情報にはたどり着くことが出来なかった。しかし、たびたび検索すると出てくる善田徳英教授という名前。そこから、ドルトジンについてある程度知ることが出来た。


ドルトジンとは、第一次世界大戦後にドイツで開発された薬とのことだ。大沢社長が云うように透明で無味無臭の液体。香りを嗅ぐことで暗示効果が強く出るとのことだが、当時はまだ研究段階であったようだ。第二次世界大戦後には旧ソ連にも持ち込まれるが、そこでも一部の心理学研究室で実験が行われる程度で実用的ではなかったらしい。しかし、1980年代になり日本から旧ソ連に渡った善田徳英教授によって大きな注目を浴びることになった。20名という被験者を使っての実験。彼らにはドルトジンを定期的に嗅がせ、朝4時から夜の23時までという長時間労働を強いた。食べ物は1日2回。スープと一切れのパンのみ。それが、一般的な労働時間であり、一般的な食事であるという暗示をかけ続けた。労働や食事に関して、善田教授らによって監視は行われるが、別で食事をとろうが、仕事を休もうが口を出すことはしない。しかし、結果として2名の体調不良者を除き、すべての被験者たちが見事に半年間もの間、文句をいうこともなく働き続けた。被験者としてのわずかな賃金だけでだ。


善田教授曰く、ドルトジンは素晴らしい薬であるが、これまでは暗示の技術が追い付いておらずに大きな成果を得ることは出来なかった。声のトーン、視線、テンポ、タイミング。それらを極めることが出来れば、ドルトジンにより、さらに大きな暗示効果を得ることも可能であるという。


この言葉に、旧ソ連政府は飛びつき、多額の資金を善田教授につぎ込み実験を続けさせた。当時の共産主義を目指す国、ソ連にとっては、それほど興味深い実験結果であったといえる。しかし、善田教授への資金提供も1980年代後半にはソ連の国力低下と共に減っていき、1991年には完全に停止。国が提供していた実験施設なども使用することが出来なくなり、善田教授は日本に戻ったとされている。


大沢社長の話では、ドルトジンが手に入るとしたらロシアくらいだということだが、どうやらロシアですら、すでに生産はされていないらしい。


2000年前後までロシアのアムール大学にドルトジンが保管されていたとの情報もあった。大沢社長はロシアで2年間、心理学の勉強をしたことがあると聞いたことがあったので、もしかしたら、その時に実物を嗅いだことがあったのかもしれない。


ヘッドホンを外し、顔を上げるとすでに夜が明け、空が白んでいた。

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