第32話 勇気を冠する者
アステリオスは大斧を振りかぶると見せかけて、それを握っているのとは逆の左拳をエイルの腹部へ叩き込んだ。肉の弾ける音が全身を駆け巡った。その中に骨の砕ける細やかな音が混じる。
強烈な痛みを感じた次の瞬間、エイルは地面に転がっていた。何が何だか分からず、猛烈な吐き気を催して吐き出した。横の地面が赤く染まる。苦痛によって思考が瞬断を繰り返し、現状認識すらままならない。
歩み向かってくるアステリオスの姿が視界に入り、ようやく自分は殴られて意識が飛んでいたのだと理解できた。
腹部は濃い赤色に染まっているものの、穿たれたわけではない。ぽっかり穴が空いていても不思議でないほどの痛みは引く様子を見せなかった。今、腹の中がどうなっているのか、想像するのがはばかられる。ぐちゃぐちゃになっているだろうことは、せり上がる吐き気から感じ取れた。
剣を支えにして立ち上がる。それだけでも意識が飛びそうなほどの激痛が走った。
逃げたい。もうやめたい。こんなに頑張らなくてもいいじゃないか。十分に頑張ったはずだ。どうしてここまで苦しむ必要がある。こんなはずじゃなかった。
そう。こんなはずじゃ、なかった。
ただアリアに会いたかっただけなのに。想いを告げたかっただけなのに。その道がこうまで苦しいとは思わなかった。こうまで辛いとは思わなかった。
今、スティラを見捨てればきっと逃げ切れる。その方がアリアに会える可能性は高い。負けると分かっている戦いに身を投じるよりも、そうした方が合理的だ。
エイルの口端が吊り上がる。
鼻で笑って、その考えを一蹴した。
論外だった。
誰かを見捨てて生き残って、どんな顔でアリアに会えばいい。アリアなら絶対に見捨てない。その身を砕いてでも助けるはずだ。そして、己も生還する。
だって――彼女は勇者だから。
だから、自らもそうでなければならない。そうでなければ彼女に会う資格など、隣に立つ資格など有りはしない。
振り返ると、スティラが顔を濡らして首を振っていた。その瞳が、もういいと言っていた。もう十分だと。
それはないだろう。エイルは苦笑する。
『もう一度、頑張って。もう一回だけ、あいつと戦って。私を、置いて行かないで。あのときみたいに』
暗闇の中で、確かにスティラの声も聞いていた。その言葉は光とともに降り注ぎ、世界を明るく照らし出した。優しく温かい光に包まれて、もう一度頑張ろうと思ったのだ。
背負っていた願いは一つではなかった。自分のだけではなかった。
だから、まだ立っていられる。
だから、まだ折れることはできない。
大丈夫だよと、言いたい。
頑張るからと、言いたい。
あいつらみたいにスティラを置いて行ったりしないよと、言いたい。
絶対に助けてみせるからと、言いたい。
言いたいことが溢れてくるのに言葉は出なかった。
代わりに、背を向ける。
それは決意だった。
怖かった。腕は震えるし、足は自分のものでないかのように言うことを聞かない。ガチガチと鳴りそうな顎を押さえつけるのが精一杯だ。
ゆっくりと息を吐き出して、体内で暴れ回る恐怖をなだめる。
アステリオスが一歩、また一歩と近づく度に足が竦む。後ずさりしそうになる足に必死で抗った。
勝てないと知っていた。
負けると知っていた。
分かっている。
無理だということを。
無茶だということを。
無駄だということを。
けれどそれは。
諦める理由にはならない。
立ち向かわない理由にはならない。
絶望的な状況。八年前のように救ってくれる勇者はここにいない。
だったら。
――だったら、自分がなるしかないじゃないか。
その瞬間、エイルは不思議と身体が軽くなるのを感じた。痛みが引き、思考が明瞭になる。全身が光に包まれて、奥底から力が漲ってくる。
不意に右手に熱を感じた。じりじりと焼けるような痛み。手の甲に刻まれた赤い点が広がり、一本の線を描いていく。
それは証。
勇者が一つ、階段を上ったことの証明。
何をすればいいか、考えるまでもなかった。まるで初めから知っていたかのように。言葉が頭の中に浮かんでくる。
「フェーズ・シフト――
フェーズⅠへと昇華したエイルは、その双眸でアステリオスを見据える。
それに呼応するように、アステリオスは雄叫びを上げてエイルに突進する。
地鳴りの如き走音はエイルの耳に届かなかった。視界から色が消え、景色が消え、アステリオスと、彼我の間を繋ぐ地面だけが残った。
打ち合いが始まった。アステリオスは大振りを止め、その巨躯に見合わない細やかな動きでエイルの攻撃を尽く打ち払う。だが、それはエイルも同じこと。アステリオスの一撃が軽くなった分、いなし易くなり、一歩も退くことなく打ち合いを続ける。
途端に軽くなったバトルアックスの一撃。それを弾いた瞬間、視界の隅から左腕が伸びた。武器を囮にした左拳の本命。だが、その攻撃パターンは一度見ている。何より、不要な情報を遮断し、戦うための情報のみが入力される状態のエイルにとって、その明らかなフェイクは容易く読むことができた。
腹部への一撃に対してエイルは退くのではなく、あえて一歩踏み込んだ。左腕でアステリオスの拳をいなそうとする。
だが、膂力の差はフェーズ・シフトしたとしても易々と埋まるものではない。
いなしきれず、脇腹を抉るような一撃を受けた。その威力に身体を持っていかれそうになりながらも、エイルはさらに力強く踏み込み、耐え凌いだ。
アステリオスの懐へ入ったエイルは剣を握る腕を脇から後ろへ流し、剣先を上へ向ける。身体を最大まで引き絞って、力を溜めた。
普通に斬撃を見舞ったところでアステリオスの強固な筋肉を切ることはできない。だが、先ほどまでとは違う。危険を冒してまで懐へ飛び込むだけの勝算があった。
そうして、唱える。
昇華したことによって得た新たなる力。
歩み始めた勇者に送られた、一つ目の証。
「――限界突破」
図らずもそれは、自らの想い人と同じスキル。
限界突破。万物を構成する強度を無視し、物理法則によって封じられていた本来の力を引き出す能力。あらゆるしがらみを超えて、ただその真価を発揮するための力。
この剣はただ、目の前の敵を断ち切るためにある。
この腕はただ、その剣を振るうためにある。
エイルは息を鋭く吐き、引き絞った力を解放する。
それは一瞬だった。エイル自身、自らの剣筋が見えなかった。後から遅れて風切り音が轟き、アステリオスの遥か後方の壁に一筋の斬撃が刻まれる。
振り抜いた剣身が砕けるのと、アステリオスの屈強な巨躯が逆袈裟に分かたれるのは同時だった。
痛みに吠えるアステリオスの牛頭が上体とともにずり落ちた。傷口から噴水のように血を撒き散らし、その最期を鮮烈に彩る。
柄がエイルの手から離れ、地面に音を立てた。血の雨を浴びながら、右腕の感覚がまったくないことに気づく。肌が濃い紫色に変色していた。触れても何も感じない。順に上がっていくと、肩に触れた瞬間に強烈な痛みが走った。刃物を奥まで差し込まれ、かき混ぜられているような鋭い痛み。思わずその場に膝をついた。
限界突破は限界を超えて力を発揮する能力。当然、強度の限界を迎えれば壊れてしまう。
だから剣は粉々に砕けた。同様に、エイルの腕は破裂するには至らなかったものの壊死していた。
エイルの得た力は、まさに諸刃の剣だった。
遠くから呼びかける声が聞こえる。スティラだ。その声に応えようと顔を向けた瞬間、視界が回転した。倒れたと気づく前に意識が遠のいていく。痛みが薄れ、瞼が重くなる。
エイルは満足気に笑みを浮かべ、暗闇へと意識を手放した。
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