第31話 偽りに満ちた原則
切られた瞬間には痛みがあったが、もう何も感じなかった。地面に衝突した際も呼吸が苦しくなっただけで、その苦しみもすぐに消えた。
腹部がやけに風通しがいい。体温があっという間に下がっていく。大切なものがどんどん漏れ出ている。
途中で下半身が千切れるかと心配したエイルだったが、幸いにもまだ繋がっていた。それを果たして幸運と呼べるのかということに関して、エイルはもはや思考を巡らせるほどの余裕を持ち合わせていない。
「あんた、それ……」
震える声が聞こえて、エイルは顔だけを動かした。腕の力だけでスティラが這い寄って来る。
「ごめん……スティラ……時間、稼げな……かった」
「もう、いいわよ」
スティラは悲惨な傷から目を背けた。もう治癒魔法を使えるだけのリソースは残されていない。
「ごめん……」
「だから、いいって言ってるじゃない」
エイルの下まで辿り着いたスティラは覆いかぶさるようにして身体を乗せた。胸に顔を埋めて震える息を吐き出す。
「私、人を殺しちゃった」
「え……」
エイルは緩慢な動作で首を動かす。血溜まりの中に横たわるグレイブの死体が目に入った。
「違う、よ」
力の入らない腕を酷使して、緩慢な動作でスティラの背中に乗せる。それが限界だった。背中を撫でようとした手は一切動かなくなった。
「仕方ない、よ。見て、なかったから、わかんない……けど。だけど、スティラは……理由もなくそんなこと、しないはず、だから」
「随分と買いかぶられたものね」
「スティラは、……優しい、から。いつも、助けてくれて……ありがとう」
「よくそんな恥ずかしいこと、こんなときに言えるわね」
エイルの胸を握り拳が叩く。それに対して何も反応がなかった。スティラは慌ててエイルの顔を覗き込む。
「ちょっと、嘘でしょ? 死んだの? 私まだ何も言えて――」
「ま、だ……だよ」
薄すら目が開かれる。だが、焦点が合っておらず、スティラの姿を映していなかった。
「ねえ、聞こえてる?」
顔がピクリと動く。それが今のエイルにできる最大の表現なのだと、スティラは胸が押し潰されそうになった。最期のときは近い。
「あのね、私、本当は――」
「ねえ、スティラ……聞こえてるか、わかんないけど、さ」
「聞こえてるわよ! 何?」
「助け、られなくて……本当に、ごめん。恩、を、返せなくて……ごめん。もっと、一緒に、冒険……したかっ、た……な」
スティラは開きかけた口を――噤んだ。ギュッと瞳を閉じて、目尻から透き通った涙を零す。
冷たくなり始めたエイルの手を取って両の手で包み込む。額に押し当て、呟いた。
――許して。
決意の色を瞳の奥に宿し、スティラはエイルの胸を叩いた。
また傷つけることになってしまう。下手をすればまだ大怪我をする。今度こそ本当に死んでしまうかもしれない。それはきっと彼にとって地獄だろう。このまま死んでしまった方が楽に違いない。
それでも――。
「行くわよ、一緒に。だから、お願い。もう一度、頑張って。もう一回だけ、あいつと戦って。私を、置いて行かないで。あのときみたいに、また私の手を引いて――」
スティラは祈るようにその手を胸元に抱き寄せた。
「お願いだから、発動して」
自らの願いを乗せて紡ぐ。
それは原則を捻じ曲げる嘘。ただの戯れ言にすぎない。
だが、露呈しなければ虚言も事実と変わりない。
「――
唱えると同時、スティラの身体を光の膜が覆う。
「我が名の下に命ず――」
スティラの足元に魔法陣が展開された。まばゆい光。リソースが枯渇し、ほの暗くなり始めた部屋を照らし出す。
「起源の種をここに。生命の息吹を彼の者へ。降り注ぐ光は満ち満ちて煌々たり。その糧をもってこの地に繋ぎ止めよ――
頭上から光が降り注ぐ。エイルの身体が包み込まれ、引き裂かれた腹部が修復を始める。見る見るうちに傷が塞がっていき、ほどなくして完全に消えた。生死の境目を彷徨っていたことが嘘のように、破れた服とへばりついた血を除けば元通りの身体となった。
エイルは身体を起こすと、驚きに満ちた表情をスティラに向けた。
「生きてる……なんで?」
「スキルよ」
スキル。それはフェーズ・シフト時に必ず一つ獲得することができる力。魔法とは異なって詠唱はなく、スキル名を唱えるだけで発動する。
「私のスキル――偽りに満ちた原則はリソースを無視して魔法を行使できるの。一日一回っていう制限つきだし、発動するかは運任せなんだけどね」
スキルによってリソースが無くなったこの場所でも、治癒魔法でエイルを治すことができたのだ。
「話は後よ」
「うん、そうだね」
エイルは立ち上がり、前方にそびえる巨躯へと双眸を向けた。
何故かそれまで動きを見せなかったアステリオスは、まるでエイルが回復するのを待っていたかのように天に向かって大きく吠えた。バトルアックスを振り払い、エイルに向けて唸り声を上げる。
エイルは目の前に突き刺さるブロードソードを引き抜いた。同時、地面を蹴る。アステリオスに疾走し、迫る斧を打ち弾く。
身体が軽かった。治癒魔法のおかげだろう。
エイルは柄を強く握りしめる。
これより先、倒れるわけにはいかない。スティラはもう魔法を使えない。傷ついたとしても治癒してもらうことはできない。故に、一撃たりとも受けてはならない。
そうは言っても、打ち合いを重ねるごとに自然と傷が増えていく。頬が切れ、腕が切れ、横腹が切れ、太ももが切れる。どれもかすり傷にすぎないが、一つでも深くもらえば死ぬ。
弾いた斧が瓦礫に突き刺さった。またとない絶好のチャンス。
エイルは大胆に攻撃へ踏み切った。懐に踏み込むとともに、振りかぶった剣を振り下ろす。
まるで硬い革を切っているような感触だった。肉ヘは届かず、外皮へ一筋の線を残すに留まった。
エイルはすぐに後ろへ跳んでアステリオスの反撃をかわす。目の前を豪風が掠れていき、慌ててもう一歩下がる。
アステリオスは攻撃力だけでなく防御力も一線を画していた。そのどちらにもエイルは遠く及ばない。真っ向勝負で負けるのは必至。かと言って、既に相対している敵に搦め手は採れない。このまま打ち合えばすぐに限界を迎える。
エイルは歯噛みした。どうやったところで勝つイメージができない。圧倒的な力を前に対抗するすべがない。
それでも、剣を置くことはできなかった。
スティラの治癒魔法を受ける直前。真っ暗闇の中で声を聞いた。
『一緒に行こう』
正確には覚えていなかったが、そんな感じのニュアンスだった。それが誰の声だったのかは分からない。けれど、差し出された手を握ったときに温もりを感じた。
その瞬間、何故か八年前のヘインストでの事件が頭を過ぎった。だから、それはきっとアリアの声なのだとエイルは思う。
そんなことを本人から言われた記憶はないので、きっと妄想だ。死に際に聞いた幻にすぎない。
だとしたらそれは紛れもなく。
自らの願望に違いなかった。
だからこそ、エイルは諦めるわけにはいかなかった。縋るだけの価値がある、目指すべき場所なのだ。
「うおおおおおおおおおお」
雄叫びを上げ、エイルは恐怖心を払い除けた。斧を弾き、その豪腕へと剣を閃かせる。浅い。鋼のような筋肉が刃の進行を拒んだ。ならばと手首を捻り、先の剣筋をなぞるように返す。
それは八年前にアリアが斬撃の通らないモンスターに対して見せた技。
だが、エイルの技量では再現することができなかった。先ほどの切り傷の数センチ横に新しい傷をつけただけで、期待した効果を発揮するには至らない。
むしろアステリオスの反撃を避ける時間を削っただけだった。
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