第30話 どうせ死ぬなら
グレイブは赤く染まった視界の中で死の恐怖に涙していた。
こんなのはおかしい。自分が死ぬなんて有り得ない。
その感情が身体の奥底から溢れ出て、堪らず外へと吐き出した。
「ああだ! じにだくない!」
動かない腕を必死に動かそうと藁にもすがる思いでもがく。恥などなく、体裁も気にしない。ただ生き残るために。グレイブは視界に入った、かつて自分たちが捨てた魔法使いへと懇願する。
「だの、む……だずげ、ぐほっ」
言葉とともに血反吐を吐き、苦しみに喘ぎながら――それでも救いの手を求める。
それを受けたスティラは唇を噛み締めた。
ただただ、嫌だった。
自分を苦しめた人間を助けるために。自分を殺そうとした人間を助けるために。自分を見捨てた人間を助けるために。
どうして最後の魔法を使わなければならないのか。
スティラはアステリオスの方へ視線を向けた。辛うじて攻撃を凌いでいるエイルの姿が映る。だが、それも長く保つはずがない。ノン・フェーズが太刀打ちできるような相手でないことは嫌と言うほど思い知らされた。
このままでは全員死ぬ。
少しでも生存の可能性を上げるために、グレイブを治してエイルの助力に向かわせるべきだ。それこそが最も合理的だと、スティラは苦渋の決断を下した。
「あんた、治したらあいつの助けに行きなさいよね」
「ああ……もぢろん、だ」
スティラは涙でぐちゃぐちゃになったグレイブの顔を睨めつけ、溜飲をぐっと堪えて詠唱した。
グレイブの身体が光に包まれ、傷が塞がっていく。リソースの関係上、完治とまではいかなかったものの戦うには十分だ。
「治ったわよ。早く助けに――」
「ばっかじゃねえの?」
「え――」
身体を思い切り地面に叩きつけられ、スティラは意識が飛びそうになった。朦朧としているところへグレイブの身体が覆いかぶさる。
「な、なに、すんの、よ」
「あんなんに勝てるわけねえ。どうせ死ぬんだぜ? なら、最後に一発やっておきてえんだよ」
舌なめずりをするグレイブ。スティラは身の毛がよだった。逃れようともがくが、身体に力が入らない。グレイブの色欲にまみれた醜い顔が近づき、その舌がスティラの首筋をなぞる。ざらついた滑り。そのおぞましい感触に全身の毛が逆立つようだった。
漏れた短い悲鳴に、グレイブは口元を歪めた。
「てめえみてえに強がってる女を無理やり犯すのが、最高に興奮すんだよ」
「いや……お願いだから、やめて」
消え入りそうな小さい声で弱々しく首を振るスティラ。その瞳からは涙が溢れ、嗚咽が漏れる。濡れた首筋は身震いするほどに不快で、顔にかかる湿った臭い息に吐き気が込み上げた。
布越しに触れる厭らしい温度。叫びたいのに恐怖で喉が引きつり、声が出ない。
どうしてこんな奴に治癒魔法を使ってしまったのだろうと、スティラは自らの愚行を悔いた。アステリオスを相手に奮闘するエイルの方に顔を傾け、心の中で謝る。それしかできなかった。せっかく頑張って時間を稼いでくれているのに自分はそれを活かすことができず、人間のクズのような男に犯されようとしている。悔しくて涙が次々と溢れてくる。
法衣の隙間に手が入り込んだ。腹部にざらついた温度が触れ、ねっとりとなぞられる。
スティラは瞼を強く閉じた。
手は徐々に上へと移動し、ついに下着へ辿り着いた。そこが最後の砦。厭らしい手つきで、指が下着の隙間へと侵入し始める。
「へっへっへ、こんな形で初めてを迎えるなんてついてねーな。まあ、そう泣くなよ。俺だってこれが最後になるんだからよ。どうせ死ぬんだから楽しもうぜ?」
スティラは逃れようと身を捩るが、上から力で押さえつけられた。
そのとき、手に硬い感触が当たった。それが何なのかはどうでもよかった。このケダモノを排除できるのなら何だってよかった。
スティラはそれを握りしめる。掌が切れることも厭わずに強く。そして、それをグレイブの腹部へとありったけの力で叩きつけた。
瞬間、グレイブの目が見開かれる。激しく揺れる瞳が自らの腹部へと移り、そこに深々と突き刺さった剣先に目を剥いた。
不快な温もりが次々とスティラに降り注ぐ。
グレイブの絶叫が剣戟の音よりも大きく響き渡った。
「あああああああああ、痛てえ痛てえ痛てえ痛てえええええ。クソ! てめえ!」
グレイブは血眼で叫びを上げ、スティラの首へ手を伸ばした。
首が折れそうなほどの力を受け、スティラは意識が遠のきそうになる。顔の温度が急上昇し、破裂しそうな圧迫感を覚えた。視界が不鮮明になり始める。グレイブが体重を乗せ始め、首を絞める力がさらに強まった。息ができない。
このままでは殺される。そう思ったスティラは、グレイブの腹部に突き立つロングソードの折れた剣先を躊躇なく引き抜いた。
水路をせき止めていた堰を取り除いたように、行き先を見つけた血液が勢いよく噴き出す。鉄の臭いが強まり、滑り気のある液体が肌を流れ落ちる。
グレイブは声を上げ、自らの腹に空いた穴を塞ごうとする。だが、指の隙間から大量の血液が漏れ出ていく。
スティラは剣を手放そうとして、グレイブと目があった。紫の唇に青白い顔色で、震えるその手がゆっくりとスティラの顔へ伸ばされる。
死の恐怖が再起され、スティラは咄嗟に剣を握り直す。無我夢中でそれをグレイブの首に突き立てた。それは反対側に抜け、グレイブの首を串刺しにした。
グレイブは苦しそうに首を引っ掻き、もがき始める。自らの皮膚、肉を爪で削り、血を垂れ流しながら飛び出そうなほどに目を剥いた。
呻き声はすぐに聞こえなくなった。どさりと、グレイブの身体はスティラの横に崩れ落ちた。そして、二度と起き上がることはなかった。
スティラは剣を放り捨てると、放心したように自らの手元に視線を落とした。
赤黒く染まった――人殺しの手。
身体の奥底から先ほどとは別の恐怖が溢れた。それは渦を巻くように広がって、スティラの心を飲み込んでいく。
「ああぁ……」
震える手の先から、赤い滴が零れた。
スティラの心に亀裂が走る。
発狂しそうになった次の瞬間、近くに何かが落下した。視界に映るそれによって、スティラは辛うじて正気を保つことができた。
「あんた、それ……」
それは腹部を深々と切り裂かれた、瀕死のエイルだった。
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