第28話 アステリオス

 エイルは不意に景色が色彩を欠いたように感じた。時間の流れが遅くなり、相手の動きがはっきりと見える。顎の奥、そこで待っているグロテスクな口がエイルを食らおうと蠢いている。


 逃げなければならない。けれど、自身の身体も同様に動きが緩慢になっている。意識の速度に肉体が追いついていなかった。


 助けてくれる者はどこにもいない。スティラは青年たちに捕まり、レイノガルトはここに来てすらいない。ジョウズアントが洞窟内に溢れ返っている今、奥へと進もうとする者はいないだろう。


 死ぬのだと、エイルは迫り来る恐怖に歯を食いしばる。


 そのとき、その場にいた誰もが気づいていなかった。ジョウズアントが地を踏み鳴らす音に紛れて聞こえない音があった。


 悲鳴を上げ続け、ついに限界を向かえた床が縦横無尽に亀裂を走らせた。大きな音を立てて床が沈み――崩れ落ちる。


 エイルの体感時間が元に戻る。ジョウズアントの顎に砕かれるはずの身体は急落下を始めていた。そのおかげで助かったと思うも束の間、すぐに着地の不安と恐怖が襲い来る。


 スティラたちの方を気にする余裕もなく、エイルは瓦礫に混じり地面へと身体を叩きつけた。


 朦朧とする意識を何とか繋ぎ止め、エイルは目を開いた。遥か頭上に水晶の山がある。体中の痛みに耐えながら身体を起こし、全身を眺めた。これだけの距離を落ちて来たにも関わらず、目立った外傷はなかった。


 幸運だったのはもちろんだが、落ちた先の地面が腐植土で覆われていたことが大きい。腐植土は動植物の遺骸が分解・変質したもので、非常に柔らかい土質。それがクッションの役割を果たしたのだ。


 それでも、生きていたのは幸運だ。瓦礫の上に落ちたり、瓦礫が上から落ちたりしていればひとたまりもなかった。


 エイルは近くに埋もれかかっていた剣を拾い上げ、周囲を見回す。


 それは惨劇と言っていい状況だった。


 大量のジョウズアントの死骸と瓦礫。押し潰されたものや、突き刺さったものなど、様々な有様で体液を垂れ流している。中には息のある個体もいるが、重傷を負ったのか動かない。


「ぅ……」


 近くで小さな呻きが聞こえた。その声には聞き覚えがある。


 すぐに声の方に駆け寄り、瓦礫をどかす。うつ伏せているスティラの姿を見つけて深く息を吐いた。額から血が流れているが、それほど大怪我には見えない。瓦礫の隙間にうまく嵌まったおかげで助かったようだ。


「スティラ、大丈夫?」


「もちろんよ、と言いたいところだけど……右足の感覚がほとんどないのよね。怖いから、あんた見てくれない?」


 エイルは喉を鳴らして、スティラの下半身へと視線を流していく。右足は太ももの辺りから瓦礫の下に埋もれていた。それを思い切ってどかす。


 そこには赤黒く染まった細足があった。ちゃんと繋がっていて、つま先まである。


 エイルは緊張を吐き出した。心の底から安堵の思いが湧き上がる。


「大丈夫。繋がってる、けど、すごい血だよ」


「……よかった。なら、魔法でなんとかなるわ」


「繋がってなかったら?」


「運ね。欠損が多ければ治らないわ。少なくとも、今の私にはね」


「なら、本当によかった」


 エイルは立ち上がろうとするスティラに肩を貸した。初めは気恥ずかしさと高揚を感じたが、スティラが痛みに表情を歪めるのを見てそんな気持ちは吹き飛んだ。


「魔法使わないの?」


「使いたいわよ。上よりはマシだけど、ここもリソースが少ない。使えても回復と攻撃の魔法を一回ずつってところね。私の足を治すより、あんたの傷を治す方が助かる確率は高くなるでしょ」


「けど、痛くない?」


「痛いわよ! 痛いに決まってるじゃない。とりあえず、今は魔法を使わない。あんたは大きな怪我なさそうだし、死ぬ気で私を守りなさい。怪我したら治してあげるから」


 エイルは途端に肩が重くなったような気がした。この肩にスティラの命が乗っている。そう考えると怖くて逃げ出したくなった。同時に、守らなければならないとも思った。アリアなら絶対に見捨てないはずだ。


 出口を探しに歩き始めた二人のすぐ近くで瓦礫が大きな音を立てて崩れた。


 身構えつつ視線を向けると、現れたのはグレイブだった。左腕を負傷したようだが、大した傷ではない。鎧は酷く歪んでおり、それのおかげで助かったのだろう。


 そのすぐ横に槍使いのニードと思われる青年の身体があった。それは隙間のない瓦礫の間に首を突っ込んでいて、頭部はどこにも見当たらない。


 スティラは口元を押さえ、悲痛な声を漏らした。


 もう一人――斧使いのラッセルの姿はなかった。


 身構えるエイルに、グレイブは苛立ちを隠そうともせずに怒鳴った。


「なんだてめえらも生きてたのか。まあいい。今はてめえらに付き合ってる場合じゃねえ」


 グレイブは行く手にあったニードの死体を蹴飛ばし、その上を跨いだ。そこに仲間の死を悼む姿も、悲しむ素振りもない。まるでモノのように、邪魔だからという気軽さで扱っていた。


 スティラの表情が険しくなるのに気づいたエイルだが、何も言わなかった。脇に回した手でスティラの身体を押さえ、今にも噛みつきそうな彼女の激情を繋ぎ止める。


 何もしないというエイルの選択に腹を立て、こちらを睨んでいるのは分かったが、エイルは決して離さなかった。


 グレイブの行為が最低だということは言うまでもない。スティラと同じように物申したい気持ちもあった。だが、それよりも今は生き残ることが先決だった。


 仲間の死すら気にも止めない人間だ。その逆鱗に触れてしまったら何をしでかすか分かったものではない。


 スティラのことを守ると決めたのだ。進んで自分たちを危険に晒すのは賢明ではない。


 グレイブと同じ方向に歩き出そうとした瞬間、暗闇の中で何かが蠢いた。


 それはジョウズアントではない。もっと大きなもの。


 部屋の中が徐々に明るくなっていく。あちこちに転がる水晶が光を発し始めたのだ。


 部屋の隅。エイルたちとは反対側。そこには大きな穴があった。おそらくはそこがこの部屋の出入り口。


 そしてそこに、門番のように立ちはだかる巨体があった。


 黒ずんだ茶色の皮に包まれた頭部。額の辺りから二本の捻れた角を生やし、目は血のような赤に染まっている。黒い塊を噛み潰し、口から白濁液を滴らせる。その液は筋骨隆々な身体を流れ落ち、地面に水たまりを作っていた。


 牛の頭部。その首から下は人間のそれだ。三メートルを超える巨体ではあるものの、頭を除けば人間という規格に十分収まっている。鍛え上げられた肉体は易々とジョウズアントの身体を引き千切り、次々に口へ運んでいく。


 アステリオス。牛の頭に、人間の身体をしたモンスター。その姿は異様な威圧感を放っていた。


「何、あれ……」


「どうしたの?」


「アステリオスがジョウズアントを食べるなんて聞いたこと――」


 目を見開いたスティラの視線の方向。エイルはその光景が目に入り、息を呑んだ。


 アステリオスの周囲にはジョウズアントだったと思われる残骸が転がっていた。

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