第18話 初めての経験

 エイルは次の攻撃に備えて剣を構える。すれ違い様、剣身の半ば辺りをラインボアの右前足目掛けて振り抜いた。


 硬いものが砕ける音が剣越しに伝わり、モンスターの悲痛な叫びが響く。


 倒れ込んだラインボアは自身の速度を殺しきれずに地面を転がった。すぐに起き上がるが、足を負傷したせいで動きが鈍く、突進してくることもなかった。折れている足で先ほどまでと同じように地面を駆けることはできない。


 それでも、ラインボアは逃げようとはしなかった。好戦的な性格も相まって、最後まで戦い抜く所存なのだろう。


 それはエイルにとって都合がよかった。逃げられたら追いかける気は微塵もなかったので、向こうに引く気がないのはありがたかった。


 今度はエイルの方から攻める。剣の届く距離まで近づき、残っている前足に向けて全力で剣を薙ぐ。今度も確かな感触があった。


 ラインボアは両の前足を失い地面に倒れ込んだ。立ち上がろうと何度も試みるが、折れた足では自重を支えることができず、地べたに這いつくばる。


 エイルの中に生まれて初めてモンスターを倒したという喜びが湧き上がる。同時に、その光景を痛ましくも思った。


 せめて、早くトドメを刺してやろう。エイルが剣を振り上げると、ラインボアは悲鳴のような威嚇のようなけたたましい鳴き声を上げた。後ろ足だけで身体を引きずって逃げようとする。


 柄を握りしめた手は頭上に固定されてしまったかのように振り下ろすことができない。


 エイルは知らなかった。モンスターがこんな風に痛みを訴え、死に恐怖し、逃げようとするということを。見たことのあるモンスターはどれも獰猛で、凶悪で、人を殺す悪魔のような存在だった。これでは犬や馬を殺すのと何ら変わらない。


 躊躇いは瞬く間にエイルの中で膨らみ、震える腕は言うことを聞かない。


「小僧! 早くトドメを刺せ!」


 レイノガルトの声にハッとしたエイルは意を決して剣を振り下ろそうとする。


 だが、それはラインボアのあがきによって阻まれた。後ろ足の跳躍による捨て身の頭突きがエイルの腹部へ炸裂する。強烈な衝撃はエイルの身体を数メートル吹き飛ばして地面を転がらせた。


 ラインボアの逃げる素振りはフェイク。エイルを油断させ、殺すための作戦にすぎなかった。


 エイルは腹部を押さえ、もがき苦しんだ。まったく予想外の攻撃に何の対応もできず、身体を貫かれたような痛みが走った。胃から何かが逆流しているような違和感に襲われる。しかし、それは嘔吐するまでには至らない。そのことが余計に気分を悪くする。


 幸いにも追撃の心配はなかった。これが移動可能な敵を相手にしていたならば、地面に這いつくばっている今の状況は致命的だ。だがラインボアは前足を失っているため、エイルを追うことができない。


 回復の時間は腐るほどある。エイルにとってそんなことはどうでもよかった。死にたいほどに苦しい。このまま寝転がっていたい。何もしたくない。


 痛みが引き始めても、エイルは立ち上がろうとしなかった。剣は頭突きされた拍子に落としたのか手元に無い。別に無くてもよかった。


 仰向けに転がって、視界いっぱいに青空を収める。どこまでも青く澄み渡っていて、これが話に聞く海なのだろうかと思いを馳せる。その中で煌々と光を放つ眩い球体を掌で隠すと透けた指が赤く光った。耳を澄ませば鳥のさえずり。風が緑の微かな匂いを運ぶ。


 穏やかな一コマがここにあった。


 それを脅かす影がエイルの身体を覆う。掌をどけると、衣服を押し上げる馬鹿でかい山が二つ視界に入った。その上には眉間に皺を寄せて嘆息する呆れ顔。


 レイノガルトは腰に手を当て、エイルの腹部を軽く踏みつける。


「ふぐっ!」


「何やってる。早く殺せ」


「……けど、あいつも生きてるじゃないですか」


「そうだな」


「だったら、別に殺す必要ないじゃないですか」


「何故だ?」


「何故って……」


 害のない相手なのだから積極的に殺す必要はない。


 エイルの意見をレイノガルトは鼻で笑い飛ばす。哀れみと侮蔑をその眼差しに乗せて、踏み締めた足に少しずつ体重を加えていく。


「お、重い……」


「能天気だな。小僧があのモンスターを見逃せば、誰かがあれの被害を受けることになる。モンスターの中で最も優先される欲望は、殺人欲求だ。犬を追っていても途中で人間を見つければ人間を追い始める。確かに今は前足が折れて動けない。だが、回復したら?」


 殺人欲求がモンスターの性だとするならば、回復したら間違いなく人間を襲う。それも、エイルに前足を折られた分の憎悪を増して。


「いいか。モンスターは生きているだけで儂らの害になる。殺すしかないんだ。儂らは殺し合うようにできているのだから。それが嫌なら、お前が死ね」


 腹が押し潰されそうになり、エイルは足をどけようと両手で持ち上げる。だが、びくともしない。それどころか掛かる力はどんどん増していく。


「小僧、選ばせてやろう。儂に今ここで踏み殺されるか、モンスターに殺されるか」


「なんで、その二択しか、ないんですか」


「なんで? そんなの決まっているだろう。今、儂がお前の生き死にを握っているからだ」


 力が増した。肋骨が軋み、息が苦しくなる。


「この世界で弱者は死を甘んじて受け入れるしかない。それが嫌なら強くなるしかない。だが、半端者が強くなれるほどこの世界は甘くない。モンスターが敵だと割り切れないなら、勇者なんて辞めろ」


 そろそろ限界だった。腹が潰れ、背中とくっつく。死を感じた瞬間、レイノガルトの足が軽くなった。


「アリアという女、こんな甘ちゃんに最前線で待ってるだと? 笑わせてくれる。話の中では強者かと思っていたが……存外、大したことなさそうだな」


「……して……さい」


「もう死んでいるかもな。だとしたら、死人に会いに行こうとしている小僧は道化師か何かか?」


「撤回してください!」


 涙を溜めた双眸がレイノガルトへ向けられる。切実で痛ましい瞳に、レイノガルトは逸らすことなく視線を結んだ。


「何をだ?」


「アリアさんは強いです! 凄い人です!」


「ふん。想い人を貶されて頭に血が上ったか? それで?」


「撤回、してください」


「嫌だと言ったら?」


「レイノガルトさんのことを嫌いになります」


「これはこれは……」


 レイノガルトは口元を押さえ、小刻みに震え始める。それもすぐに耐え切れなくなり、腹を抱えて笑い声を上げた。


「可愛いものだな。嫌いになる、か。もう嫌われていると思っていたが……そうかそうか。嫌われるのは困るな。稽古に支障が出る」


「じゃあ――」


「じゃあ、あれにトドメを刺せ」


 レイノガルトが指差した先には、少し前よりもエイルに近づいているラインボアがいた。後ろ足だけで少しずつ移動しているのだ。


「足を失い満足に歩けなくなっても、まだ小僧を殺そうとしているんだ。救いようがないだろう。もし憐れむ気持ちがあるのなら、一刻も早く殺してやれ」


 そんな気持ちを持っていたらいつか死ぬがな。レイノガルトはそう言って、足をどけた。


 自由になったエイルはしかし、すぐには起き上がれなかった。顔のすぐ横にブロードソードが突き刺される。心臓が縮み上がった。あと数センチずれていたら顔が切れている。


 エイルはゆっくりと身体を起こした。視線の先には未だ諦めることなく跳び続けるラインボアがいる。


 必死だった。限界まで見開かれた目は血走り、息は荒い。一跳一跳に鬼気迫るものが感じられた。前足の毛は真っ赤に染まっている。折れた足を気遣うことなく、着地時に地面へ打ちつけているせいで傷が悪化していた。それでも、瞳に宿る殺意は激しく燃え続けている。


 それはもはや、執念や憎しみという言葉だけでは表せないものだった。


 殺人欲求。


 レイノガルトの言うようにモンスターにはそれが植え付けられているのかもしれない。生まれながらにして人間を殺すことを宿命づけられた存在。それは抗うことの敵わない、絶対的命令。身を守るためとか食糧調達のためとか、そういった生きるための目的とはかけ離れたところにある、魂の方向性。


 そうであるならば、モンスターは人類の敵でしかない。分かり合うことなど夢のまた夢。情けをかける道理も価値もなく、ただ殺し合うことのみを許された関係性。


 殺らなければ殺られる。


 ならば殺るしかない。


 エイルは剣の柄に手を掛けた。支えにして立ち上がり、引き抜く。


 ラインボアの着地を狙って剣を振りかぶる。


 着地の瞬間、エイルの狙いに気づいたのかラインボアは息つく間もなく再び跳躍し、エイルに向かって突撃した。


 その行動の兆候を目で捉えていたエイルは横に避け、すれ違い様にラインボアの後ろ足を叩き折る。翻り、地面に悶えるラインボアの残りの足もへし折った。


 移動のすべを失ったラインボアだったが、それでも身を捩り、エイルへ攻撃しようとあがく。


 正面に回ったエイルはラインボアの頭を踏み押さえた。最後の悪あがきを試みる頭部へ向けて剣を振りかぶる。逆手に持った剣先は眉間を捉えた。そのまま、ひと思いに振り下ろす。


 硬いものを貫いた感触が、剣越しに伝わった。痛みにのたうち回るラインボアは絶命する気配がなく、エイルはさらに奥へと刺し進める。そこからは抵抗なく入った。


 再び硬い部分に突き当たった。ラインボアの動きが止まり、全身が弛緩していく。


 足をどけ、柄を離す。一歩、二歩と後ずさる。


 ラインボアは目を見開いたまま息絶えていた。瞳は違うことなくエイルを射抜き、そこには未だ殺意が燃えたぎっているような気さえした。


 両手が震えていた。止まらなくて、強く握りしめる。それでもまだ止まらない。


「やるじゃない! あんたにもモンスターを倒す度胸はあったのね」


 駆け寄ったスティラがエイルの背中をバシッと叩く。それに対して無反応なエイルを訝しみ、顔を覗き込んだ。


「あんた、どうしたの? 顔真っ青よ?」


 エイルはゆっくりとスティラへ視線を動かす。その姿を認めた途端に涙を浮かべ、スティラに縋りついた。


「ちょっ、何すんのよ! 離れなさいよ! おい! コラ! いい加減に――」


 無理やり引き剥がそうとしていたスティラは急に押し黙ると、その手をエイルの背中へ回した。咽び泣く小さな背中を優しく擦り、小さく息を漏らす。


「殺すの、初めてだったのね。……ヘタレにしては頑張ったわ。仕方ないから、泣き止むまで胸を貸してあげる。感謝しなさい」


 涙が枯れるまで、エイルは泣き続けた。

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