第14話 昔話

 八年前のことだ。


 エイルが生まれ育ったへインストという村は森の中にあった。カイアフロトに比較的近い距離にある村だったが、外部との交流を好んで行わない集落で、多くの者が村でその生涯を遂げていた。


 村を出る者もいたが少数派だった。また、村を出ることができる年齢は一人前と認められる一八歳以上。その頃には既に結婚相手が決まっている者も多く、そのことが余計に村からの人口流出を止めていた。


 エイルも一〇歳ながら、自分も同じようにこの村で生きていくのだと思っていた。それ以外の人生を知らなかったため、選びようもなかった。


 そんなある日のことだ。村の様子が今までにないほど慌ただしかった。


 余所者が来る。大人たちはそのことに対して露骨な迷惑顔をしていた。外部との交流に消極的な村人たちにとって、余所者の存在は疎ましいものだった。


 日暮れ間近だったこともあり、村長は余所者たちの滞在を許可した。カイアフロトまでは数日かかり、そうなると野宿しなければならない。食料が底をついている上に、一行の中に子供がいたことも村長が許可した理由だった。


 余所者は一〇名ほどの集団で、子供以外は全員が武具を装備していた。剣や槍、鎧など、初めて見るそれらは村の子供たちをざわつかせた。だが、大人たちは子供たちが彼らに近づくことを許さなかった。


 大人たちにとって彼らは物騒な集団でしかなかった。


 エイルも近づくなと言われていた。


 夜になると村は周囲に火を焚いた。へインスト周辺のモンスターは火を嫌う傾向にあった。火を置くことでモンスターの襲来を防ぐことができた。


 寝ようとしていたエイルは飼っている子犬がいないことに気づいた。以前、飼っていた犬が夜に家を抜け出して、村の外で死んでいたことがあった。それは見るも無残な姿で、獣に食い荒らされたのは明白だった。


 その記憶が蘇り、不安に駆られたエイルはこっそりと家を抜け出した。村の中を見回っても子犬の姿はなかった。森の中に予感めいたものがあった。


 少しならと村の外へ出て周囲を探し回った。


「ウェイン。どこにいるの。戻っておいで」


 小さな声で呼びかけるも、反応はない。不安は時の経過とともに大きく膨らみ、エイルは闇雲に探し回った。少しずつ村から離れていることにも気づかずに。


 呼びかけを続けていると近くで音がした。


「ウェイン!?」


 駆け寄り、草むらの先に広がる暗闇を覗き込む。小枝を踏み折る音がした。四足の生き物がこちらへ歩いて来る。エイルは大きな安息感に笑みを漏らした。


「もう、どこ行ってたんだよ。帰るよウェイン」


 近寄ろうとして、何かが違うことに気づいた。


 子犬のウェインよりもそれは一回り大きかった。低い唸り声が響く。月光に照らし出された身体は黒色で、血のように赫赫たる瞳は獰猛な牙と相まって恐怖を感じさせるには十分だった。


「あっ」


 ウェインじゃなかった。そう思ったときにはもう遅かった。狼が地を駆け、エイルの右足に食いついた。逃げる間もなかった。


「あああああああ」


 鋭利に並ぶ歯がふくらはぎに食い込み、激痛が走った。振りほどこうと動かすと、そのせいで傷が広がり痛みが増した。


 抵抗の意思を折るように狼が首を振る。エイルは地面に転がされ、狼は逃すまいと強い力で顎を閉じた。


 這って逃げようとするが、狼は決して離そうとしない。抵抗虚しく、ずるずると森の中へと引きずられていく。


 叫び声も悲鳴も恐怖のせいで喉が引きつり、大きな声が出せない。怖くて怖くて涙が止まらず、助けての言葉が意味不明な呻き声になった。


「あああ、あああああ、ああ」


 土に指を食い込ませても地面を削るだけで意味がなかった。指の腹が切れて血が滲む。だが、そんな痛みは足の痛みによって無いも同然だった。


 唸り声が増えた。


 仲間の下へ連れて行かれるのだと思い至って、エイルは犬の死骸を思い出した。同じように食い荒らされるのだと思うと怖くて堪らなかった。もう泣くことしかできなかった。


 いつの間にか身体が止まっていて、周囲を見回すといくつもの赤い光に囲まれていた。これから食われるのだ。そう思った途端に身体が勝手に動いた。逃げ出そうと立ち上がる。血が溢れ出る右足は言うことを聞かなかった。


 右足を引きずって一歩踏み出すと同時、狼たちが一斉に飛びかかって来た。体中に牙が食い込み、全身に痛みが広がる。あまりの激痛に神経が麻痺し、思考が引きずられて何がなんだか分からない。


 奇声をあげて。涙を流して。堪えきれない恐怖を叫ぶことしかできない。


 殺される。


 そのとき、一陣の風が吹き抜けた。鋭い風切り音。途端に身体のあちこちを引っ張っていた力が消えた。いくつもの倒れる音が折り重なって、唸り声一つ聞こえなくなった。


「くぅ~ん」


「ウェ……イ、ン?」


 痛覚が麻痺して一時的に痛みを感じなくなっていたエイルは、子犬の鳴き声を聞いて顔を上げた。


「大丈夫?」


 そこにいたのは綺麗な女性だった。月明かりに照らされた彼女の髪は綺麗な赤色。昼間であればもっと鮮やかに違いない。彼女はウェインを腕に抱いていた。


 女性はエイルに駆け寄り、その身体を抱き起こした。全身の傷を見て顔を顰めた彼女はエイルの身体を脇に抱えて走り出す。


「ごめんね。私は魔法が使えないから君の傷を治せない。けど、仲間に使える子がいるからもう少しだけ我慢してね」


 遠くで聞こえる凜々しい声に、エイルは安心して頷くと意識を手放した。

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