第12話 地獄の稽古へおかえり
黎明の明星の稽古場へと担ぎ込まれたエイルは、顔に冷水を浴びせられて意識を取り戻した。
「い、いつの間に……」
「起きたな。まったく、人がせっかく運んでやったのに途中で寝るとはな」
「あれ、そうでしたっけ……なんか、記憶が曖昧なんですよね」
「そんなことはどうでもいい。稽古を始めるぞ」
「その前に顔を拭きたいんですが……」
レイノガルトが指を振ると、途端にエイルの顔を強風が襲った。あまりの強さにエイルは後ろに倒れ込む。
「何するんですか!」
「ん? 拭いてやったんだが」
顔を触ると、確かにもう濡れていない。風で水を吹き飛ばしたのだ。
「ずっと思ってたんですけど、何でレイノガルトさんは魔法を使えるんですか?」
「小僧、お前馬鹿なのか?」
少しだけ頭にきたが、耐えた。下手に言い返して機嫌を損ねると稽古で悲惨な目に遭う。
「いいか。魔法は魔法使いだけに許されたものではない。魔法使いは魔法を極める道を選んだというだけだ。剣士も同様に剣の道を極める道を選んだだけだ。たとえ才能がなくとも一つの道を突き詰めればそれなりの形にはなる。だからまずは一つを選ぶ。小娘は魔法の道、小僧は剣の道というようにな。だが、それで小僧が魔法を使えなくなるわけでもなければ、小娘が剣を使えなくなるわけでもない。先に進めばその一つでは厳しい局面が増える。だから、儂のように剣に加えて魔法を習得する者もいる」
小僧には千年早いがなと言い捨てて、レイノガルトは両手に持つ木剣の片方をエイルへと投げ渡す。
それは綺麗に弧を描き、ちょうど柄の部分がエイルに向くように計算されていた。
エイルは小さな悲鳴を上げ、身を捩ってそれを避けた。レイノガルトが額を押さえて嘆く。
「それくらい取れ……」
「すみません……」
地面に転がった木剣を拾い上げて正面に構える。そこまで来てようやく、エイルは自分が素直に稽古を受けようとしていることに気づいた。
「あ、あの! 僕もう辞めたいんですが……」
「別に構わんが、辞めると小娘が一〇万リガル払うことになるぞ」
一〇万リガル。その金額がどれほどの価値を持つのか、エイルにはいまいち理解できない。
「それって、どれくらい多いんですか?」
「そうだな。お前たちが一日モンスターを狩ったとして……多くて三〇〇〇から四〇〇〇リガル。一ヶ月で約一〇万リガルになる。家賃が五万、食費が三万くらいか。あとは武具の整備などに消えていく。ほとんど残らないな。まあ、実際は毎日安定して稼げるわけではない。そうなると返済に充てる金などほとんど残らん」
エイルの顔色が途端に悪くなる。そこへ畳み掛けるようにレイノガルトは続けた。
「まあ、儂も鬼ではない。当然、稼ぎのいい仕事を紹介する。小娘の身体は貧相だが、若いからな。いくらでも需要はあるだろう。強気な少女を無理やりというのが好きなゲスもいる。一週間も働かせれば返せるだろう。その間、小娘の精神が保つかは知らんがな」
「それって……」
「なんだ? 文句があるのか? 仕方ないだろう? 払えないのなら、どんな方法でも稼いでもらわんとな」
目の前で卑しい笑みを浮かべる女に、エイルは軽蔑の眼差しを向ける。
最低だ。反吐が出る。スティラにそんなことをさせるわけにはいかない。
エイルは剣を強く握り直して構えた。双眸を鋭く尖らせる。
「どうした? やる気になったのか? 小娘に養ってもらってる身でも、さすがに身体を売らせるのは心苦しいか?」
「当たり前じゃないですか」
「そんな目で睨むな。儂のせいじゃないだろう?」
「そうですね。僕のせいです。だから、辞めません」
「そうか。ならば一ヶ月、耐え抜いてみせろ」
獰猛な笑みに、エイルも笑って見せる。
「望むところです」
瞬間、レイノガルトの姿が掻き消えた。遅れてその場に風が巻き起こる。
エイルは剣を構え、周囲に目を配らせた。あちこちで風を切る音が鳴る。だが、その姿を捉えることができない。
「後ろだ、小僧」
「っ!」
振り向きざまに剣で薙ぎ払う。手応えはなく空を切った。代わりに、背中に強い衝撃を受け、前のめりに倒れ込んだ。四つん這いになっているところ、腹部を蹴り上げられて身体が宙に浮く。熱が喉を駆け上がり、鮮血を吐き出した。
レイノガルトは流れるような動きで足を天に振り上げると、その踵をエイルの背中へ叩き込んだ。
地面に叩きつけられ、身体が軋む。空気を失った肺がその分を取り戻そうと呼吸を荒くさせる。死んでしまいたいほどの耐え難い痛み。
「もう終わりか?」
終わりたい。それでも終わることは許されない。
痛む身体に鞭を打ってエイルは立ち上がった。忙しなく上下する肩がその苦痛を物語る。
「もう、ちょっと……手加減して、貰えませんか?」
「モンスターが手加減するか?」
しない。するわけがない。モンスターはこちらを殺そうと全力で向かって来る。そのことは身をもって知っている。
レイノガルトはあと一歩詰めれば木剣の間合いに入るところまでエイルに近づいた。
「闇雲に稽古しても意味がない。目的を意識してこそ意味がある。昨日も言ったが、この稽古の目的は三点。最も重視しているのは動体視力を鍛えることだ。敵の動きが見えなければ話にならん。次に反射神経。見えても対応できなければ話にならん。最後に痛みへの耐性。対応できても痛みで動きが鈍れば話にならん」
その三点に絞るからこそ実戦形式の稽古。レイノガルトの超高速戦闘を目で追えるようになり、防げるようになり、何度打ち込まれても倒れずに戦闘を継続できるようになること。それが最終目標だ。
エイルもその理屈は理解できた。確かにすべて不可欠のことだと納得できる。だが、それにしてもやり方というものがあるだろうと思わずにはいられない。こんな風に一方的に痛めつけるだけでは、意図を信じられずに辞めてしまうのは当然だ。
事実、エイル自身もう何度も辞めたいと思っているし、その気持ちは今も変わらない。スティラを人質に取られてさえいなければとっくに逃げ出している。
「あの、違う方法とかないんですか? もっと辛くないやつ」
「知らん。そもそも、辛い思いをせずに強くなれるのなら誰も苦労せん」
「それにしても敷居が高すぎると思うんですよ。いきなり実戦って……もっと構え方とか技の型とか、そういうところから入った方がいいんじゃないですかね?」
「ピーピーうるさい。口だけは達者だな。その場の気分で喋るのは悪い癖だぞ」
エイルは押し黙る。それについては何も言い返せない。思い当たる節はいくらでもあった。
「構えとか適当でいい。技も要らん。武術は基本的に人間用だ。最近は対モンスターの技や型もあるようだが、そんなものを習得するくらいなら実際に様々なモンスターと戦う方が有用だ。技や型は動きをパターン化したもの。相手がパターンに沿った動きをしなければ、役に立たないどころか致命的な隙を生む。そういうのは大抵すぐに死ぬ」
顔の横を突風が吹き抜けた。それを認識したときには、すでにレイノガルトの木剣がそこに突き出されていた。
「当面の目標はこの突きをいなすことだな。攻撃が見えるようになれば自然と身体も反応できるようになる。そのうち無意識に攻撃の軌道を逸らせるようになるだろう。だが、そこまでが最低限だ。理想的なのは攻撃を視界に捉えた瞬間に最良の一手を選び出せるようになること。つまり、見えてから手を考え、それを実行に移す。それを無意識下で行うことができれば儂と同じレベルまで辿り着く」
レイノガルトはその状態から踏み出した足を引き、剣を一閃する。
エイルは咄嗟に身を引いてそれをかわした。剣は辛うじて目で追える速度だった。
「人間は反射的に自分の身を守れるようになっている。だから、この稽古の最初の難関は儂の剣筋が見えるかどうかだ。見えなければそれは何の意味もなさん」
レイノガルトの剣が掻き消える。彼女から見て左側にあったはずの剣先が、右上段に振り上げられていた。
「今のは目で追うくらいできてもいいんだが……。小僧はセンスが致命的に無いな」
不敵な笑みを浮かべ、レイノガルトは白い歯を覗かせる。
「これは痛めつけがい――もとい、鍛えがいがありそうだ」
不穏なフレーズを耳にしたと思ったときには、鳩尾に木剣の柄頭が打ち込まれていた。身体の中心から痛みが広がり、思わず膝を折る。呼吸すらままならない。
「男が簡単に膝をつくものではないぞ」
その声が背後から聞こえ、反応する前に身体が後方へ引っ張られた。浮遊感に襲われ、景色が勢い良く過ぎ去っていく。天と地を交互に映し、土煙を上げながらようやく止まった。
投げ飛ばされたのだと理解して顔をあげたときには、既にレイノガルトの右足がエイルの左頬を捉えていた。
脳を揺らされ、意識が飛んだ。エイルの身体は地面を削って数メートル先に転がった。
立ち上がらないことを確認したレイノガルトは長息を漏らす。
「先は長い、か……」
弟子にエイルを運ぶように指示し、レイノガルトは別の獲物へと視線を移した。
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