第2章

第10話 修行は苦行

 意識が弾け飛びそうな痛みが頭部を駆け抜けていく。崩れかけた身体を脇に差し込まれた木剣に支えられる。頬を叩かれ、ようやくエイルは意識を取り戻した。


「気張れ小僧。まだ始まって一時間も経っていないぞ?」


「……は、い」


 体中の痛みに耐えながら、エイルは木剣を支えに立つ。今すぐにでも座り込みたいが、そのせいで今しがた意識を刈り取られたので我慢する。


 レイノガルトはそれを見て頷いた。


「よし、では続けるぞ」


 数歩下がったレイノガルトは半身になり、剣先を斜め上に向けて身体の前に構える。エイルも同じように構えてレイノガルトの剣に意識を集中する。


 相手の剣先がわずかに動き、エイルは身体を守るように剣を縦に構えた。瞬間、脇腹に木剣が食い込み、バキッという嫌な音を奏でた。衝撃によって叩き飛ばされ、地面を跳ねながら壁にぶつかって止まる。うずくまり、こみ上げるものを吐き出した。土が赤く染まる。


「すまん。ちょっと力を入れすぎた」


 ニヤリと笑みを浮かべるその表情は、誤りではなく意図してだということを言外に告げていた。


 エイルは滲む視界を拭いながら、ここに来たことを後悔した。


 黎明の明星。そこは地獄だった。


 数々の有名な勇者を排出している名門ではあるものの、評判は決して良くない。入門者の卒業率は一〇%を下回り、稽古という名の一方的な暴力が毎日行われる。それで一日一〇〇〇リガルだ。その値段は破格の安さだった。


 多くの者はその横暴から逃げ、残る者は狂人と揶揄される。そうしてふるいにかけられ、認められた者だけが卒業を許される。卒業生はその後、必ずフェーズⅢ以上にシフトしており、実績は確かだった。そのため、入門する者は後を絶たない。


 エイルは今日が初めての稽古だったが、始まってまだそれほど時間は経っていないのにボロボロだった。身体中に痣が浮かび、骨は何本か折れている。


 戦闘不能状態に陥る度にレイノガルトが治癒魔法を使った。最低限の傷が治ると再び稽古が開始される。それの繰り返しだった。


 最低限というのがミソで、エイルは常に限界間近の状態で防御に当たっていた。人は極限状態でこそ真価を発揮する。


「もう無理です! 動けない!」


 その場で仰向けに大の字で倒れ、エイルは青空に叫んだ。地面に打ちつけた左肩の痛みが激しく声を上げる。それのせいで左腕に力が入らない。


「情けない。小娘から聞いてはいたが、本当に情けないな。小娘の盾になって死にかけたときの気合いはどうした?」


「あれは身体が勝手に動いただけで気合いとかじゃないです。結局、助けられなかったし」


 レイノガルトは木剣を遊ばせ、小さく鼻で笑った。


「ふむ。よかったぞ、小僧。あの行動を誇っていたなら今すぐ破門だった」


 いっそ破門してくれとエイルは心の中で叫ぶ。


「いいか。身代わりなんてのは下の下だ。そんなものは勇者の行いではない。仲間を庇って死んだというのは耳心地はいいが、それは赤の他人から見た話だ。庇われた方は『自分のせいで人を死なせた』という呪いを刻み込まれ、一生背負うことになる。それは地獄だぞ? 小僧の場合は小娘の死を引き伸ばしただけだったが、それも同じだ。小娘はそのとき、どんな気持ちで死んでいくのだろうな」


 エイルが庇わなければスティラは死んでいたかもしれない。その点において、エイルの行動は非難されるものではないはずだ。


 それでも、レイノガルトはその行為を否定する。相応しくないと。


 もしレイノガルトが近くにいなかったなら。エイルが息絶えた後に、あるいはエイルが生死の境を彷徨っている間に、スティラも鎌の餌食となっていただろう。ただ、死ぬかどうかに関わらず、エイルが庇ったことで『自分のせいでエイルを死なせた』とスティラは思ってしまう。


 レイノガルトが指摘するのはその瞬間の感情だ。


 人の死はそれだけで大きな影響力を持つ。それが自分のせいだとなれば、その力はさらに大きなものとなる。心に影を落とす。誰かの未来を奪ったという楔が、自身の未来の邪魔をする。


 エイルはぞっとした。


 そんなことは本意ではなかった。ただ、スティラを助けたいと思っただけだった。


 弱いから。自分は弱いから、せめてスティラの命だけでも、と。


 ――違う。本当は違った。そんな綺麗事じゃなかった。


 嫌だっただけだ。


 目の前で誰かが死ぬのが。自分のせいで誰かが死ぬのが。


 だからその感情を、罪悪感を、他人に押しつけた。


 笑えない話だった。


 青空が滲んでいく。それが身体の痛みによるものでないことは明らかだった。


「小僧、悔しいか?」


 言葉が出なかった。


 分からない。辛くて泣いているのか、悔しくて泣いているのか。エイルは自分でも分からなかった。


 けれど、一つだけ分かっていることがあった。それは自分が弱いということだ。だから強くならなければならないということだ。


「及第点は、助ける素振りを見せて、死ぬ前に希望を見せてやることだ。これがあの場で出来た最良の手だ。だが、それも勇者として相応しくない」


 毅然とした声で、レイノガルトは自らの『正しさ』を謳う。


「勇者であるならば完璧に救え。何の取りこぼしもなく、圧倒的に、劇的に、奇跡的に。たとえば、大切な二人のどちらかしか救うことのできない選択肢しか用意されなかったとしても、両方を救って見せろ。そして自分も死ぬな。それが勇者だ。勇者としてあるべき姿だ」


 それは荒唐無稽な理想だった。完全なるハッピーエンド。物語にその筋書きが用意されていなかったとしても、自らその道を作り出せ。


 そんな都合の良い道なんてものは存在しない。馬鹿馬鹿しい。


 そうやって一蹴できてしまったなら、どれだけ楽だっただろう。


 だが、知っていた。一人、それができる人物を知っていた。勇者を知っていた。


 憧憬のあの人は完璧に救って見せた。


 その姿が眩しくて、鮮烈で、憧れて、目に焼きついて離れない。今でも鮮明に思い出すことができる。


 エイルの中で彼女は紛れもない勇者だった。だからこそ村を出たのだ。


 もう一度、あの人に会いたい。


 だが、今のまま会ったとしてもきっと意味がない。ならなければならない。相応しい自分に。同じ場所に立って、同じ景色を見たい。そうして初めて、二人の物語が始まる。


 なれるだろうか。この場所でこの地獄を耐えきったなら、なれるだろうか。


「ふっ。顔つきが変わったな。どうする? 続けるか?」


 エイルは拳を握りしめ、上体を起こす。先ほどよりも痛みは和らいだ。この痛みを何度も味わうのだと思うと逃げ出したくなる。


 それでも。エイルは木剣を地面に突き刺し、それを支えに立ち上がった。


「お願いします!」


「いい返事だ」


 そうしてまた、肉を叩く音が鳴り響く。

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