第9話 今のままでは

 ようやくまともに肺へ空気が入り、エイルは咳き込みながら息を整える。


「あー、死ぬかと思った……ってもう死んでるんだった」


「生きてるわよ!」


「え? けど、エッジマンティスに殺されて……」


「あれを見なさい」


 スティラの指差した方向を見てエイルは目を丸くした。すぐにスティラに尊敬の眼差しを送る。


「すごいよスティラ!」


「私じゃないわよ。そこの人が助けてくれたの」


「儂はレイノガルトという。生きてて何よりだ。死んでは何もできんからな」


 エイルはその自己紹介のほとんどを聞き流していた。その瞳はある一点へと釘づけとなり、まるで石にでもなったかのようにじっと見つめていた。


 その様子に首を傾げたレイノガルトだったが、視線の先を察して合点がいったように手を叩いた。


「小僧、儂の爆乳が気になるのか?」


「ふえっ? ち、ち、ち、違いますから! 見てないです!」


「この老いぼれの乳でいいのなら、いくらでも揉ませてやるぞ」


「なっ!」


 魅惑的な提案に天秤が欲望の方へ傾きかけていたそのとき、頭蓋を砕くような一撃が炸裂した。


「いってええええ」


「鼻の下伸ばしてニヤニヤしてんじゃないわよ! あんなのただの脂肪よ? 肉の塊よ? 醜いだけじゃない!」


 声を荒らげるスティラの胸元にエイルは視線を向ける。


 スティラは顔を赤くし、胸を両腕で抱き隠して背を向けた。


「見んなバカ!」


「見えるものなんて無いじゃん」


「――し、死ねええええええええええええ」


 スティラの足元に円が展開される。先ほどエッジマンティスに阻止された炎の攻撃魔法だ。


 身の危険を感じたエイルは立ち上がって逃げようとする。だが、足がもつれて前のめりに倒れ込んだ。その先は地面ではなく、男たちの桃源郷。死んでも行きたい理想郷。


 二つの山へと頭部が着弾した。それは山へ深々とめり込み、顔面いっぱいにおっぱいを感じながら、常軌を逸する反発力によって弾き飛ばされる。


 尻もちをついて鼻血を噴き出し、呆然と霊験あらたかならぬ、性験あらたかな御山を見上げるエイル。ようやく我に返ると顔を真っ赤に染め上げて、その場で額を地面に擦りつけた。


「す、すみませんでした!」


「だから、こんな老いぼれので満足できるなら別にかまわんと言っているだろう」


 だったらもう一度、と誘惑に負けそうになったエイルの背中をスティラが踏みつけた。ぐりぐりと捻らせる踵には並々ならぬ怨念が宿っているように思えてならない。


「あの、さっきから老いぼれ老いぼれって、いったい何歳なんですか?」


「儂は五〇歳だが」


 その場の空気が固まった。少女に踏まれ、みっともない姿を晒し続けているエイルでさえその衝撃的事実に唖然とする。


 二人の目の前にいるレイノガルトという女性はどこからどう見ても五〇歳には見えなかった。目立った皺はなく、褐色の肌は瑞々しくさえある。二〇代と言われても通用しそうだ。


「悲観するな小娘。好きな男に揉まれ続ければいつかは大きくなる。試しに小僧、揉んでやれ」


「は、は? ばっかじゃないの? も、揉まれて大きくなんて、こんなやつに……」


 涙を浮かべて睨むスティラに、エイルは曖昧な表情で目を逸らすしかなかった。


「ところで、お前たちはたった二人でパーティーを組んでいるのか? 仲間を置いてきたのか?」


「二人ですけど、何か文句でも?」


 苛立ちを隠そうともせず、スティラは答えた。


「はっはっは、威勢のいい小娘だな。先ほどまで泣いていたくせに」


「う、うるさいわね! 助けてくれたことには感謝してますけど、侮辱しないでくれますか。不愉快です」


 レイノガルトは苦笑して謝罪した後、すぐに首を捻った。


「確かに初心者はパーティーを組むのが難しい。だからと言って剣士と魔法使い――それも剣を握ったばかりの新米と魔法使いなど無謀だ。互いの利点を活かせない」


 カイアフロトはノン・フェーズとフェーズⅠの勇者が拠点とする場所だ。彼らはまだ見ぬ未開の地へ辿り着き、魔王を倒すために早くこの街を出たいと望んでいる。その場合、実力の劣る者や初心者は足手まといとなる。勇者はモンスターと常に命の駆け引きをしており、そんな中で足を引っ張る弱者がいたのではつまらない理由で命を落としかねない。


 だからこそ、初心者は敬遠される傾向にあった。そのせいで、この街では新人の育ちが悪く、死亡率が高い。


 スティラは何も言い返さず、レイノガルトを睨みつけるだけだった。今にも噛みつきそうな剣呑な目つき。それと目が合ったレイノガルトは呆れ顔で笑っていた。


 エイルはレイノガルトの言うことがよく分かっていなかったが、無謀だという点に関しては完全に同意していた。武器を握っても一体すら仕留めることができなかった。それどころか死にかけた。向いていないという自覚があった。


「まあ、無理とは言わんがな。事実、儂の弟子の中に剣士と魔法使いのパーティーを組んでいる奴らがいた。ここら一帯のモンスターは群れて行動することが少ないから、それでも十分に対応はできる」


 レイノガルトはエイルを一瞥すると、鼻で笑った。その瞳は明らかにエイルを嘲っていた。


「剣士の方が正常に機能していれば、の話だがな」


 困り顔で笑みを浮かべるエイルに、スティラが詰め寄る。眉間に皺を寄せ、今にも怒鳴り散らしそうな表情をしている。


「黙ってないで何か言い返しなさいよ。あんた、馬鹿にされてるのよ?」


「ああ、うん。けど、事実だし……」


「確かにあんたは使えないグズだけど、赤の他人に好き勝手言われてるのにヘラヘラ笑って……プライドってもんはないの?」


「そんなこと言われても……」


 二人が揉めていると、高笑いが届いた。その声の主であるレイノガルトは腰に手を当てて、大きく頷いた。


「小娘、そういじめてやるな。プライドがないというのは存外に悪いことでもない。やりようによっては化けるかもしれんからな。よし、いいだろう。小僧、儂が鍛えてやる」


「いや、頼んでないんですけど……」


「何を言う。勇者たるもの、強さを求める生き物だろう」


「いや、僕は別に勇者になりたいわけじゃ――」


「あんたね、さっきから偉そうに色々言ってますけど、そんなに強いわけ? フェーズいくつなんですか?」


 やんわりと断ろうとしていたエイルだったが、スティラが会話に割って入ったせいで発言の機会を逃してしまった。


「小娘は本当に威勢がいいな。まあ、だからこそ釣り合うのかもしれんが」


「うるさいわね。いい? 助けて貰ったのは事実だけど、だからって信用したわけじゃないわ。見ず知らずの初心者捕まえてタダで鍛えてやるなんて、騙そうとしてるって疑うのが普通でしょ?」


 感情的になるあまり、スティラの発言から完全に敬語が消えた。寛容なのかレイノガルトにはそれを気にする様子はない。


「なるほど、確かに小娘の言う通りかもしれん。だが、儂はタダとは言っていないぞ」


「は? お金取るの? 自分から鍛えてやるって言っといて?」


「当たり前だ。これでも剣士育成所を開いている身でな。タダで教えては弟子たちに申し訳が立たん」


「育成所? へえー。何ていうところかしら?」


黎明の明星ルクシフェルムというんだが――」


「は? 黎明の明星って言えば数々の優秀な剣士を排出してる有名処じゃない!?」


「ほう。小娘、よく知っているな。儂はそこの長を務めている。これが今の儂のフェーズだ」


 レイノガルトは二人に背を向けると、服を解いて背中を晒した。褐色のなめらかな肌に刻印された赤い模様の線は五つ。それはフェーズⅤだということを示していた。


 格の違いに言葉を失ったスティラは、レイノガルトの言うことが嘘ではないことを認めた。腕組みし、長考の末に不敵な笑みを浮かべる。レイノガルトを指差して言い放った。


「いいわよ。その申し出、受けてあげる」


「交渉成立だな」


 当人を置いてきぼりにして話が進んでいく。


 エイルは逃げ出したい気持ちに駆られ、自らの行末を案じた。

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