第5話 私が悲鳴を上げたら終わりよ
「痛い……」
「それくらい安いもんでしょ。この変態っ!」
流れ的に拇印を押さなければならなくなってしまい、エイルは仕方なく親指を切った。スティラでは不安だったので居合わせた勇者に切ってもらった。
加盟洋紙に泣きながら親指を押しつけ、何とか提出を終えた。約束通りスティラに指を治してもらおうとしたのだが、にべもなく断られた。話が違うと訴えると、もの凄い形相で睨まれる始末。
それからずっと機嫌が悪い。話しかけると返事はするものの、常にそっぽを向いている。微妙な距離を空けて慎ましい胸を隠すように腕組みをしているのを見る限り、まだ怒りは収まっていないようだ。
自分のせいではないのに。エイルは理不尽に思うものの、強く責めることはできなかった。膝と腕に未だ残る感触を意識する度に後ろめたい気持ちを抱きながらも、幸せな気分になる。
その後は会話のないまま距離を保って歩き続けた。
エイルは右手の甲に現れた赤い点を眺める。
それは勇者としての証だった。
勇者協会に加盟すると勇者のクラスを得る。そして、その証として身体のどこかに刻印が現れるのだ。初めは誰もが一つの点から始まる。フェーズ・シフトするとその点が線となり、シフトが進むごとに線が増え、模様のようになっていく。その形状は人それぞれで、一つとして同じものは存在しない。
点ならノン・フェーズで、線はその数でフェーズを判断できる仕組みだ。
二人を取り押さえた勇者はその場で腕を捲ってフェーズを見せてくれた。彼の腕には二本の線が混じり合うように描かれていて、それはフェーズⅡであることを示していた。
フェーズはシフトするごとに数字が加算されていく。つまり、フェーズⅡの彼はフェーズⅠのスティラよりも格上となる。
であるならば、カイアフロトまでの道中で出遭ったシェリーのフェーズはいくつなのだろうか。彼女よりも強いはずのあの人はどうだろうか。エイルは憧れの人に思いを馳せる。
これで、あの人と同じフィールドに立つことができた。そのことはエイルにとって非常に喜ばしいことで、思わず笑みが漏れる。
それを盗み見ていたスティラは、エイルを睨めつけながら小声でぼそりと呟いた。
「キモ……」
「あ、今のはスティラの感触を思い出してたんじゃないから!」
「私の感触って――卑猥な表現してんじゃないわよ!」
スティラの手の平が力いっぱいにエイルの頬へ叩き込まれた。
軽快な音とともにエイルの視界が明滅する。身体が何かに引っ張られるようにして地面へ倒れそうになるのを何とか持ち堪えた。じわりと広がる痛みに視界が滲む。
「ちょ、ちょっと、泣くんじゃないわよ。男でしょ?」
「別に、泣いて、ないよ。涙腺、が、緩いだけ」
エイルの涙声に、スティラの焦りが募る。慌てふためき、周囲の反応を気にしてか柔らかい声色で言った。
「わ、分かったわよ。触ったことは許してあげるから、泣き止みなさい」
「……触ってきたのスティラじゃん」
「何か言ったかしら?」
笑顔が歪む。無理矢理に口角を上げて笑っているように見せてはいるが、眉間にはしわが寄り、瞳には無言の圧力があった。
「……なんでも、ない」
「よろしい。もうすぐ着くから。とっとと行くわよ」
歩き始めたスティラの後を、エイルは頬を優しくさすりながら不満げについて行く。口を尖らせてスティラの背中を恨めしそうに睨むが、また叩かれるのは御免なのでそれ以上は何もしない。
しばらくして似たような建物が並ぶ区画に入った。四角い石造りで、三階建てほどの建物がずらりとわずかな隙間を空けて等間隔に敷き詰められている。
そこはカイアフロトの約五割を占める住宅区画だった。
勇者は基本的に自らの強さに応じた場所を活動域とする。
カイアフロトの周辺はノン・フェーズとⅠが適正値となる。それを超えた者は次の場所への移動が推奨される。より強いモンスターの出る場所へ。そうやって拠点を移しながら勇者は己を高め、魔王へと一歩一歩近づいて行くのだ。
フェーズ・シフトは個人差はあれどそう簡単に成し遂げられるものではなく、それなりの時間が必要だ。そのため、街には勇者のための賃貸住居が数多く存在する。契約期間の単位はその住居の管理主によるが、比較的に月単位が多い。
スティラは古びた建物の脇にある外階段を登り始めた。所々が汚れていて、あまり良い物件でないことは窺い知れた。
スティラの部屋は三階の一番奥。法衣の中から鍵を取り出して扉を開けると、何も言わずに中へと入って行った。
閉まる扉のドアノブを掴み、エイルはごくりと喉を鳴らす。
タダで泊まれる場所ができた喜びで考えていなかったが、よくよく考えると初めて会ったばかりの女子の部屋に泊まるというのは悪いことのような気がしてきた。
それに、異性の部屋に入るのは初めてだ。それだけでも緊張するというのに、勇者協会での至高な出来事がフラッシュバックして余計に心臓が高鳴った。
別にそういうことを期待しているわけではない。ただ泊まるだけだ。床に寝させてもらうだけだ。やましい気持ちなど――一切ない。
そう自分に言い聞かせ、伸びていた鼻の下を縮める。エイルは意を決して一歩踏み出した。だが、扉を開けたすぐ目の前にスティラの顔が現れ、エイルは声にならない声を上げて飛び退いた。
「今、えっちなこと考えてたでしょ?」
「か、考えたない! ……あっ」
「いい? 変なことしたら殺すわよ? この区画は住人のほとんどが勇者だから、私が悲鳴を上げたらあんた……終わりよ?」
「し、しないから! 安心して」
「前科者の言うことなんて信用できるわけないでしょ!」
手を掴まれ、ぐっと引かれる。エイルは扉の中へ転がり込んだ。廊下に身体を打ちつけ、痛みをぼやきながら立ち上がろうとしたところを追い打ちで背中を踏みつけられる。
「もう一度言うけど、私が悲鳴を上げたら終わりよ。これがどういう意味か分かる?」
初めは頭の上に疑問符を浮かべていたエイルだったが、すぐにその意味を悟り、顔から血の気が引いていく。
「理解が早くて助かるわ。これからよろしくね、下僕」
逆らえば悲鳴を上げる。それは非常に効果的な脅しだった。
背中の重みが消え、足音が遠ざかっていく。これから始まる憂鬱な勇者生活に、エイルは逃げ出したい気持ちに駆られながらも立ち上がる。逃げることは叶わない。悲鳴を上げられたら人生が終わる。
可愛い少女と平凡な少年では、どちらの証言が信用されるかなど考えるまでもない。男女は決して平等ではないのだ。
来るんじゃなかった。
もう遅すぎる後悔を抱え、エイルは項垂れて奥へと歩みを進める。
タダより高いものはない。
翌朝。朝食を済ませた二人は街へ出ていた。
朝食は下僕ことエイルが作ったのだが、スティラは一口運んだ直後に青ざめ、もの凄い勢いでトイレに駆け込んで行った。戻って来た彼女はゲッソリしていて、大きなため息を吐いた。それを歯切に彼女の怒りが爆発した。エイルは無期限の料理禁止となり、下僕としての初任務は大失敗に終わった。
実は片手で数えるほどしか料理をしたことがなかった。
「あー、体調が優れないわ」
「ご、ごめん……」
勇者として仮パーティーを組んだ二人だったが、モンスターを倒しに出る前にエイルの武器を揃えなければならなかった。エイルは現状丸腰だ。村から持って来た家宝である折れた剣は使い物にならないので捨てた。正真正銘の身一つだ。モンスター相手にそれで挑むのは相当な修行を積んだ者でなければ自殺行為。武器は至急用意すべき代物だった。
そのため、まず二人は武器屋へ向かった。カイアフロトには武器屋がたくさんある。何件か回ったものの、エイルが良しとしてもスティラが良しとしなかった。
それには二通りの理由があり、高すぎると予算の都合で却下となり、安すぎると性能の都合で却下となった。いい塩梅のものを探し当てない限りこの買い物は終わらないようだった。
ようやく妥当なものを探し当てた頃には昼近くになっていた。
購入したのは一般的な片手剣のブロードソードだ。村から持たされたものよりも見た目はかなり劣るが、試し切りをした限りでは遥かに高い性能を誇っていた。
エイルがこの剣だと決めている間、スティラは何度もため息を漏らした。
武器はなかなかに高価なものだ。持ち主の生き死にを決めるものなのだから当然のこと。武器の中では安価なブロードソードと言えど、長く使えるものを買おうとすれば宿泊代や食事代の何倍もの金額が必要となる。
決して見ず知らずの他人へと気軽に買ってやれるほど安くはない。財布と睨めっこするスティラの顔色はどんどん悪くなっていった。最終的に決まった武器はスティラの懐ギリギリだった。
ブロードソードを腰に携えて顔を綻ばせるエイル。引き抜いて自分が思うカッコいい構えをして見せる。その姿にスティラは表情を緩めた。
「じゃあ、早速行くわよ」
「どこへ?」
とぼけたように言うエイルを鼻で笑って、人差し指を突きつける。どこか挑戦的な笑みに、エイルは嫌な予感を覚えた。
「モンスターと戦いに、よ」
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