第3話 大天使とは

「べ、別に、これはそういう意味じゃないから! 勘違いしないでよね!」


「あ、う、うん……」


「何満更でもない顔してんのよ! そういう意味じゃないって言ってるでしょ!」


 エイルは目を逸らして頬を掻いた。女性の手を握ったのは母を除外すると二人目だった。一人目はもちろん憧れのあの人。そして、二人目がスティラだ。


 そのため、女性の扱いは慣れていないというレベルではなく、手を繋ぐなど一大事だ。何を言われようが、こそばゆいものはこそばゆい。


 手の中に残る柔らかい肌の感触を記憶に刻みつけていると、冷静を取り戻したスティラが咳払いをした。


「ま、まあ、超絶美少女天才魔法使いこと大天使スティラ様の手を握って興奮しない男子なんていないわよね。恥ずかしがることないわ」


「……」


「何よその目は!」


「スティラって……イタい子なの?」


「なっ――」


 スティラは再び湯気が出そうなほど顔を赤くして、目尻に涙を浮かべる。わなわなと握った手を震わせた。


「イ、イタくないわよ!」


「だって、普通言わないでしょ……自分のことを天使とか」


「大天使よ!」


「どっちでもいい……」


 スティラは溜まった涙を零さないように唇を噛みしめる。


 周囲から冷たい視線が向けられていることに気づいたエイルは、逃げようか、機嫌を取ろうか、はたまた逃げようかと右往左往し始めた。部外者からすればエイルがスティラを泣かしたようにしか見えない。悪者はエイルだ。


「ごめん、スティラ。お願いだから泣き止んで」


「……イタく……ないんだから……」


「うん。スティラはイタくないから、ね?」


 目をゴシゴシと擦り、スティラは息を吹き返したようにふんぞり反った。再び咳払いを一つ。


「ところで、あんなところで何してたの? 見たところ勇者には見えないけど」


 少し声が上擦っているが、触れないことにする。触らぬ天使に祟りなし、だ。


「あ、うん。勇者になろうと思ってここまで来たんだけど、向いてないから辞めようかなって」


「ふうん。まあ、確かに弱そうだものね。貧弱そうな身体だし」


 スティラは顎に指を添え、空を見上げるようにして視線を彷徨わせる。その後すぐに、エイルの全身を下から上まで食い入るように眺め、頷いて勝ち気な笑みを浮かべた。


「あんたがどうしてもって言うなら、私のパーティーに入れてあげてもいいわ!」


「いや、遠慮しとく」


「待ちなさいよ! え、そこ即答で頷くところでしょ? こんな可愛い美少女がパーティーに誘ってるのに、どうしてあんたは断れるの? 男でしょ? 本当についてるの?」


 言ってから失言に気づいたのか、スティラは慌てて口元を押さえて頬を染めた。


「は、入るわよね?」


「うーん。やっぱ向いてないし、戦うの痛いし。遠慮しとく」


「は、初めは誰だってそういう気持ちになるものよ。そこを乗り越えて進んでいくのが勇者ってもんでしょ?」


「スティラもそういう時期あったの?」


「ふっ。天才の私があるわけないでしょ?」


 誇らしげに語るスティラにうんざりして、エイルはおもむろに歩き始める。彼女の横を抜けて、どこへ続くとも知らない道を進む。


 すぐに追い駆けて来たスティラがエイルの進行を妨げるように立ちはだかった。両腕を広げて、上目遣いでエイルを睨む。


「ちょっと待ちなさいよ! あんた本当に馬鹿なの? 新人がパーティーに誘われるなんて、滅多にないことなのよ?」


「そんなこと言われてもなあ……」


 そもそも勇者になる気がないのだから関係ない。


 横に避けて進もうとするが、スティラの軽快なフットワークで妨害された。


 それならばと本気で抜きにかかるが、まったく歯が立たない。


「ふっ。力の差に愕然としなさい。私はフェーズⅠよ」


 慎ましく膨らんだ胸を反らし、スティラは誇らしげにする。エイルは首を傾げて眉を顰めた。


「それって凄いの?」


「は? あんたそんなことも知らないくせに勇者になろうとしてたの?」


 呆れ顔を浮かべるスティラに、エイルは曖昧な笑みで頬を掻いた。


 勇者。それはこの世界――フィクタリアにおいて魔王を倒すことが宿命づけられた存在だ。


 勇者の誕生は数十年前に遡る。


 人類が最も繁栄していた時代。魔法が溢れ、人々の生活に馴染み、欠かせないものとなっていた。この先も発展を続け、より幸福な未来が訪れるはずだと誰もが信じていた。


 そんなとき大事件が起きた。


 突然、魔法が使えなくなった。時を同じくして、人間を好んで襲う生物――モンスターが現れた。規格外の力を持つ彼らを前に、人類は蹂躙されるまま衰退の一途を辿った。


 モンスターたちを操っていたのは魔王だった。彼は魔法を使用する際に必要不可欠なリソースを独占するために人類を滅ぼそうと画策した。


 人類は着々と数を減らし続けたが、時間とともに魔法が使用できるようになっていったのは不幸中の幸いだった。しかし、それでもモンスターに太刀打ちできなかった。


 当時の人類が保有していた魔法は生活を豊かにするものではあっても、戦うためのものではなかった。


 誰もが絶望し、諦めていた。


 そんな人類滅亡の危機に現れたのが、自らを勇者と名乗る七人の強者だった。彼らはモンスターに対抗できる力を持ち、人類を滅亡の運命から救い出した。モンスターと戦うすべを与え、勇者協会を設立した。


 彼らは人類にとって燦々と降り注いだ希望の光だった。


 勇者協会に加盟することで、人々は勇者というクラスを得ることができる。剣士や魔法使いはそのサブクラスという分類だ。勇者は自らの器を昇華させることで次の段階へと進むことができる。


 それがフェーズと呼ばれる勇者の階位だ。『条件』を満たすことによって次フェーズへと昇華することができ、フェーズによって勇者としての優劣が決まる。もちろん、実力にも関わってくる。


 フェーズ・シフトを繰り返し、最終的に魔王を倒すことがこの世界における勇者の有りようとなる。


 シフトの『条件』は未だに謎であり、各々で異なると言われている。一つ言えることは、『条件』は冒険の中でしか満たされないということだ。モンスターと戦い、幾多の困難を乗り越え、魔王を打ち倒す。そのプロセスの中でしかフェーズ・シフトは起こらない。


 だからこそ、勇者たちは絶えず戦いに身を投じる。魔王の手から世界を解放するその日まで。


「まあ、そんな感じで勇者じゃないあんたより、フェーズⅠの勇者である私の方が位が高いの。分かったかしら?」


「んー、うん。スティラって凄いんだね」


「っ……ま、まあね」


 スティラは頬を染めて口ごもり、そっぽを向いた。褒められたことが嬉しかったのだろう。


「わ、分かったなら、大人しく私のパーティーに入りなさい!」


「いや、だから僕は勇者にならないからさ」


「ああああ、もう! 煮え切らない奴ね! 勇者目指してこの街に来たんなら、やってみればいいじゃない! 何でやる前に諦めちゃうわけ? 男でしょ? ヘタレてんじゃないわよ!」


 ずかずかと近づいて罵るスティラ。白銀灰色の瞳が激昂の炎を燃やして睨みつける。


 エイルは身体を反らせて、眼前に迫った人形のように精巧な美しい顔から自らを遠ざけた。その隙間を埋めるように、スティラはさらにエイルへと身体を寄せる。


 そんな鬼気迫る状況の中で、ぎゅるるるという気の抜ける音が鳴り響いた。


「うっ……」


 エイルは頬を赤く染める。消え入りたいくらい恥ずかしかった。


 怒り心頭に発していたスティラは面食らって唖然とすると、呆れ顔で息を漏らした。高ぶっていた感情が急激に萎びていく。


「あんたって本当に情けない男よね」


「ごめん……」


 今朝食糧が尽き、それからは何も口にしていなかった。街に着いたらたらふく食べようと思っていたのだが、宿泊料の衝撃ですっかり忘れていた。


「とりあえず、夕食を摂りながら話しましょうか」


「そうだね。……あ、でも」


 小首を傾げるスティラから視線を外して頬を掻く。躊躇いを見せつつ、言葉を続けた。


「お金が……無いんだよね」


 スティラの盛大なため息に、エイルは情けない気持ちでいっぱいになった。

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