決意
少女が目を覚ましたのは夜の8時だった。
幸いその時間も家には誰も帰ってきていなかった。
父は飲み会、母は残業。姉貴は合コンだそうだ。
俺は家族用のチャットグループに分かった旨を書き込んだ。そして、リビングで一人でご飯を食べて戻ってきたその頃、ベッドで眠っていた少女は体を起こしたのである。
「よく眠れた?」
少女に話しかける俺はもう緊張も気まずさも何も感じてはいなかった。
あるのは心からの心配と、無力感から来る申し訳なさだった。
しかし、悩んでいても仕方がないのは事実で、今彼女と一緒にいてあげられるのはおそらくこの世界で俺一人だけなのである。
その根拠は、スマホにあった。
『マジュラ』ーーー。
そう名称がされたアプリがスマホにインストールされていたのである。
しかもそれは、スマホのホーム画面を解除すると勝手に起動してきた。
画面には見たこともない文字の羅列が大量に表示され、やがてセットアップ完了なるメッセージが一瞬浮かび上がると、一つのウィンドウを表示してきたのであった。
ーーー『契約者の名を刻め』
藪から棒にそんなテキストが書かれていた。
しかしそれは、あの闇サイトで見たような文字と同じようなフォントで書かれていた。
試しにアプリの強制終了を試み、闇サイトを確認しようとしたが、アプリを落とすことが出来なかった。仕方なく机にあるノートパソコンを使って、ネットでマジュラなるものに関する検索を行ったが何もヒットしなかった。その後も『エルフ』『牢獄』『リアル』『イラスト』『広告』といった、様々な単語を使って調べていったのだが、どれも欲しい情報には行き着かず、結局何も分からなかった。
俺はそのままでは何も使えないスマホに持ち替え、仕方なく契約者であろう自分の名前を入力していった。
すると、すぐさま次のウィンドウが表示された。
ーーー『これの名を決めろ』
そこにはテキストと一緒に一枚の写真が映し出されていた。
その写真はエルフの少女が写っていた。人をこれ扱いかよ、と思った矢先、その画像の違和感に気付いて俺は目を疑った。
「は、これって。……どうやって!?」
画像には、今自室のベッドで眠っている少女の姿が映し出されていたのである。
俺はそのことに驚きを隠せず、後ろを振り返り寝息を立てる少女と画像を撮影したであろうアングルの天井へと視線を巡らせた。
しかし、いくら凝視しても何も見つからず、治らない鳥肌をそのままにスマホへと向き直った。
これの名を決めろ。
それは即ち、少女の名前を俺が決めろということである。
やはり、この少女はあのサイトに映されていた場所からここへ来たのだ。そして、正しく、少女を呼んだのは俺ということがようやく揺るぎのない事実へと変わった。
少女の名前を決める。
そこには、名付けるだけではない、それ以外の何か見えない責任も含まれていることに俺は気付き、手が止まってしまっていた。
助ける、というあの選択肢の重みを俺はまた考える羽目になった。
無力な自分が、人を助け、面倒を見て、養う。そんなことできるだろうか?
彼女は、この世界の人間じゃない。そんなことは側からみれば誰だって分かる。この世の者には決して持ち得ない美しさと特徴的である先端の尖った耳。日本人特有の美麗なエルフの印象をそのまま表現したような少女である。彼女にとってここは異世界で、仲間も友達も家族さえもいない『孤独な世界』だ。
そんな異世界生まれ他種族異文化育ちの少女を一般学生の俺が助けられるわけがない。
面倒見切れるわけがない。
人一人抱えられるほど、俺はまだ立派じゃないのだ。
たかが名前。
憧れた異種属の実在に。
非現実的な、目の前の現実。
それは、『たかが』などと吐き捨てられるものではなかった。
なるようになる、と俺は大抵諦めた時にその言葉を吐いてきた。しかし、『なるようになる』の『なる』は結果どうなるのだ?
待ち構える未来の答えが遠く想像に及ばない。
「…………………………」
気付けば俺は大量の汗を掻いていた。
シャツは汗で濡れ、その色を変えてしまっていた。
「一度、風呂に入るか……。……ふぅ……………。こいつもまだ寝てるし、家にまだ誰も帰ってこないってことは、みんな帰りが遅いってことだよな。一人で寝かしておいても問題ないだろ」
俺は部屋から出ると今日一番記憶に残っている風呂場へと向かった。
すると自然、あの時の事を思い出していった。
顔を赤らめたり、涙目で怒った顔を向けてきたり、気持ちよさそうにシャワーを浴びたり。
あの瞬間、どこか彼女は幸せそうな雰囲気を出していたように思う。
そして。
(あの時の少女はまだ、行動に自由があったように思える)
行動の自由、なんて考えをする様になったのはこのアプリを見てからだ。
初めに少女を見た牢獄のような場所。
少女の来ていた貧相な服。
酷く汚れた体と不思議と傷のない肌。
自室への召喚。
サイトに表示された数々のテキスト。
そして、マジュラという不可解なアプリ。
これらが示すところは、おそらく彼女に関する制約か何かではないか、と俺は考え始めていた。
例えば。
彼女は人身売買の商品してあの牢獄に囚われ、売れ残ったエルフが死んで炭になっていった。俺はそれを購入すると言う選択を知らぬ間にさせられ、彼女を助ける名目で買わされた。そして、気づけば少女は購入した契約者の俺の部屋に転移させられることになった。すると、契約の証であるマジュラが関わってくる。声や意思、感情はもしかしたら縛られているのではないだろうか。スマホにインストールされたマジュラに正式に名を刻まないと彼女は時間の経過と共に、様々なことが縛られ出来なくなっていく。
「なんだそれ。どこのファンタジーだよ」
だが、可能性は可能性だ。この非日常的現象を目の当たりにしている今の俺に、その妄想を完全否定することは出来なかった。
しかして。
想像力を最大限に働かせて考えてみたものの、腑に落ちないことも多く残ってしまった。
そもそも、少女の不可解な行動は何を意味していたのだ?普通、見ず知らずの初めて会う人間に対して体を洗うという行為をするだろうか?それに、今朝見せた空間移動の魔法があるなら、契約が未成立な俺からなぜ離れないのか。彼女が奴隷に似た扱いをされるところから売られたのなら、俺よりもこの契約について詳しい筈である。マジュラに正式契約を済ませる前に、俺を殺して主従権を奪い取ったりできるだろうに。
俺だって馬鹿じゃない。魔法があれ一つだなんて思っていない。
「分からない。……どうしたらいいのか。どうすればいいのか……何が……何が正しいのか、わかんねえよ」
マジュラには既に俺の名前を入力した。
そこはもう戻れない。
しかし、次は少女の番である。
マジュラとは、本当はいったい何なのか。それが分からない限り、この先の想像は宇宙の先を想像で語るほどに実の無いものだ。
名前を入れた瞬間、少女が死ぬかもしれない。
そうでなくても、少女の精神が何らかに上書きされるかもしれない。彼女ではない何かが彼女を乗っ取る可能性も無いとは言えない。
得体が知れない。
結果に予想が付かない。
相手は異世界の代物だ。
俺の諦めの行動が招いたこの事態に、更なる取り返しの付かない結果が起こることに俺は心底怯えていた。
俺がいくら善意で動いたとしても、その結果が最悪だった場合ーーー。
「俺は、さ。物語の主人公でも何でもないんだよ、クソが」
これが、異世界の住人と学園ラブコメのハピネス世界観な題材だったらお気楽だ。
何せ、可愛い女の子に好きな名前を付けて、二人で秘密の同棲生活を送るだけなのだから。
なんだよそれ、羨ましすぎる。
そんな世界があるなら、俺をそっちに召喚して欲しい。いやむしろ、しろ!してください!
「だああああああああ。くそお…………。なるようになる、じゃねんだよ。なるようにしなきゃいけねえじゃん。……なるようにする。俺が、あの子を…………なるように、する!」
俺はその瞬間、何かを見つけた気がした。
怖がっていても、悲観していても、逃げていても仕方がない。
数多の小説が、多くの漫画が事あるごとに教えてくれてきたではないか。
それは、行動だ。
自分がどうしたいか。相手をどうしたいか。
それは利己主義だって、自己犠牲だって、自己満足だっていい。
どんな形であれ、最善であるゴールに辿り着くために、できる事をする。
それが、行動だ。
そうだ。
俺は決めた。
少女の名前を、少女と一緒に決めよう。
そして、異世界から来た彼女がこの世界で幸せを掴めるように俺が助ける。
その先にあるのはーーー。
ーーー俺との結婚だ!!!!
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