ミッション

「どっどど、どうしたの!?早いじゃん起きるの!?」


 脱衣所の扉越しに俺は母親に声を掛けた。

 動揺を隠そうとしたら、余計に上擦ってしまった。

 すると、寝起きの母は廊下で立ち止まったのかそのまま返事をしてきた。


「あんたこそ、どおしたのよ?もしかして今からお風呂入る気?ちょっとやめてよお。風呂場乾かないとカビが生えるでしょう」

「ごめん、母さん、……その、体調悪くて寝てたんだけど……あの、寝汗が酷くってさ」

「ええ、なによ。具合悪いのあんた?もう、夜更かししてばっかだから体調崩すのよ」

「気を付けるよ。ほんと。だから、今はここ使わせて」

「分かったわよ。じゃあ早く入っちゃいなさい。学校行けないようだったら自分で連絡しなさいよ。というか、お母さん早く洗面台使いたいんだけど」

「まってまって、今ここ空けるから。えーと、えと…………!そう、洗濯機回ってないみたいだよ。ついでにこれも回すからもうちょっと待って!」

「あれ、かかってなかった?予約したと思ったんだけど。じゃお願い。トイレ行ってくるわ」


 すると母の足音が廊下の先のトイレへと消えていき、俺は寸手のところで難を逃れることに成功した。


「急げ急げ!!!!」


 安心するのも束の間、俺は洗濯桶に少女から奪い取ったボロ布を入れ、洗剤を大量に放り込むと、桶を持って浴室へと身を潜めた。

 しかし、ここからが本当の戦いである。

 理性をフル稼働させ、嗅覚を限界まで押し殺しながらこの少女を洗浄しなければならないのである。


「やば、くっさ……」


 嗅覚疲労になっているはずなのに時折臭いが蘇ってくるからタチが悪い。


「大人しくしててくれよ!」


 涙目になる少女を、俺は同じく涙と一緒に鼻水も垂らしながら視線を交えるのであった。

 ……。

 …………。

 ………………。

 ……………………。

 結果から言えば、彼女の洗浄は実にスムーズに終わった。

 初め、少女はシャワーや液体石鹸にめちゃめちゃ怯えていたのだが、それが自分に害のない物であると分かると、彼女は差し出したシャワーを自分で使い、自ら身体を洗っていってくれたのである。

 手伝ったことと言えばシャンプーくらいのもので、赤黒く汚れてしまっていた長い髪を二人でせっせと梳かしながら洗っていった。汚れを取って泡を水で流した後に、銀の長髪が現れた時には感嘆の声が漏れ出たのを覚えている。

 しかし、俺自身意外なことに、美しくも流麗なエルフの少女の裸体を目にしたというのに、邪な気持ちは一切湧いてこなかったのである。頭が一杯でそれどころではなかったから、という事もあるだろうが、気持ち的には妹を世話しているような気分になっていた。反対に、彼女に危害を加えようとする輩は絶対に許さないという感情まで生まれていたほどである。

 なんとも不思議な存在のエルフッ子だ。

 そうして彼女の体は臭いも汚れもなくなり、すっかり本来の綺麗さを取り戻したのだった。

 彼女のボロ布も洗い終え、後はしれっと洗濯機に放り込むだけである。

 残念ながら自分がシャワーを浴びる余裕は残っていなかった。これ以上、時間を浪費すれば、父が起き、姉が起きる。

 そこにあるのは、脱失不可能な風呂場と不審がられる俺の様子だけである。人が増えれば自室に行くことが更に難しくなり、ここに留まり続けると俺を気にして誰かが必ずくる。もちろん、篭城は出来ない。


「ほら、タオルで拭いて。拭き終わったら付いて来てよーーーえ?」


 そう言って少女にタオルを差し出すと、いきなり俺は腕を掴まれ引っ張られた。

 咄嗟のことに足元滑らせて尻餅を着いた俺に少女は無言で手を伸ばして来た。

(いってえ、今のなに?一体何なんだよ)

 そう思いつつも差し出された手に自分の手を伸ばすと、彼女の手は俺の腕を通り過ぎ、そのまま俺の上着を掴んだのだった。

 バサッ!

 水を吸って重くなった上着を俺から無理矢理引っぺがした少女は、奪い取ったそれを空の浴槽に捨て置き、次にはズボンにまで手を掛けてきた。


「ばばば、ばかばか、何してんの!?まって待って!俺はいいの!そんな時間ないから、って、おいいいい意外と力強いなああああやめて見ないでええええええ」


 小声で抗議と叫び声を上げる俺だったが、抵抗の甲斐無く少女は俺から身包みを剥いでいった。


「ぐすんっ」


 泣くな俺!

 明らかに年下であろう少女に力負けして全裸に剥かれようとも泣いてる場合じゃない。すべき事を果たせ!それが漢たる俺の今やらなければならない事だ!!


「冷たっ!?」


 今度はなんだ!?

 冷たい感触から逃げるように身体を捩りその方向を見ると、少女が真っ裸の俺目掛けて容赦なくシャワーの水を吹っかけてきていた。

 そう。

 水。

 冷水である。


「冷たっ!!やめやめて!死ぬ!冷たい、夏だけど!それは冷えって!」


 せっかく俺が屈辱的な敗北から自分を鼓舞してカッコ良く立ち上がろうとしていたというのになんたる仕打ちか!!お風呂嫌いだったのかな?謝るよ?全力で謝るよ?


「ごべぶべばべ!!!」


 水力最大で顔面に放射とか、謝る余地すら与えないのかよ!とんだ精鋭だなこいつっ!

(クソッ、呼吸ができねえ。視界も最悪。こうなったら当て感で元を断ちに行くしかない)

 シャワーの水で視界を塞がれる中、俺は冷水とお湯を切り替えるためにカランに手を伸ばした。長く伸びる吐水口さえ掴めれば、そこから手探りで蛇口を閉められる。

(……確かこの辺だったはず!)

 すると、伸ばした指先が柔らかくも温かい何かを翳め、その感触が腕へと滑るように通り過ぎていった。冷水の雨の中でもしっかりと伝わる温かい物に俺はハテナ?と放水から背けていた顔を無理矢理上げた。だが、それよりも早くシャワーの水が俺から逸れて行き、前を向いた頃には視界良好になっていた。

 その感触の正体が視覚情報と一致した。

(これは本当に事故なんだよ?)

 少女の股の間に俺の腕が挟まれている光景に、俺は心の中でそう言って彼女の顔を伺った。

 しかし、少女の顔を見る前に俺の後頭部に硬いものが当たってきた。視界が揺れた俺は体から力が抜け、前へと倒れていった。


「いってえ……。なんか頭打った。ああ、それよりシャワー止めな……きゃ?」


 俺は後頭部に感じる鈍痛を堪えながら、起き上がろうとしたところで妙な感触に気が付いた。胸から腹部まで伝わる何か柔らかく温かい感触。そして、ほのかに香る甘い匂い。

 これは、シャンプー?ボディーソープ?なるほど、倒れた拍子に床に倒してぶちまけてしまったのかふむふむ。でもなんで温かい?

 俺は不審に思い、それを確かめるために顔を上げた。


「な……」


 そこには全裸で俺の下敷きになる同じく全裸のエルフッ子がいた。

 おいおいおいおいおいおいおい!どうしてこうなった!!もしかしてさっきの顔の感触は少女の程よい大きさの双子山かっ!!!!

 顔が熱い。先程まで冷水を掛けられていたとは思えないほどに暑くなっていた。だが、動揺する俺の視界に倒れたままの少女の顔が映り込んだ。


「ぅぅ………」


 初めて聞く少女の声。

 その第一声は酷く辛そうだった。

 何してんだ、俺は。自分の事ばかり気にしてる場合かよ。


「おい、大丈夫か?なあ?」


 呻く少女に俺は急いで駆け寄った。

 ラッキースケベ万歳とか考えていた自分を殴ってやりたくなる衝動に駆られながら、俺は少女に声を掛け続けた。無論、動揺しまくりだ。

 やだどうしよう、頭打ったのかしら?打ち所悪かった?!大丈夫?起きて!死ぬな!目を覚ませ!

 しかし、呼びかけること以外何も出来ない俺を他所に、少女はすぐに目を覚ました。


「ーーーーーー」

「っ!おい、俺のこと分かるか?大丈夫か?起きられるか?」


 心配する俺を尻目に少女はすっくと立ち上がった。

 その様子は俺の言葉が伝わっているか実に曖昧で、更に不安を覚えた。しかし、少女は表情一つ変えず再びシャワーノズルを拾い上げ、俺へとぶっかけてきた。


「なんで!?」


 心配し甲斐の無いその様子に俺は混乱しながらも、少しの安堵を覚えた。まあ、ふらついた様子もないし大丈夫なのだろう。大怪我してないことがわかっただけ良しとしますかね。

 キュッ、と蛇口を閉めて少女の攻撃を辞めさせると視界良好になった俺は少女と目が合った。物言いたげな目をする少女はしかし、やはり何も言ってこなかった。そんな彼女に俺は肩を竦める留めた。言いたいことも聞きたいことも沢山ある。だが、今は見つめ合ってイチャコラしてる場合ではないからだ。

 そう。イチャコラしてる場合では。

 すると、途端に先ほど少女の上に覆いかぶさっていた記憶が蘇ってきた。

 白い肌に滑らかで温かい感触。そして、柔らかい少女の胸の感触が頬にーーー。


「って馬鹿か俺は!!変態変態変態ヘンタイヘンタイへんたいへんったいっかああああ俺はあああああああ、あ、あ?あ!?」


 頭を抱えて声を押し殺した絶叫を天井に向かって放っていると、顔を真っ赤に染めた少女とまたも目があってしまった。

 少女の視線が俺の宝剣から俺の顔へ移っていった最中だったらしく、彼女の持ったシャワーヘッドが真っ直ぐに俺へと飛んできた。もうお約束としか言えない。

 この痛み。……そっか、後頭部の痛みの原因はこれだったのか。

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