2020/0905

 9月5日。土曜日ということで今日はバイトが長めには取られている。

 だがせっかくの土曜日。なにかしなければ少しもったいない気分だ。……セールをやっているスーパーも多いだろう。このご時世ではあるが、面白いこともあるかもしれない。

 ああ、なにより。せっかくの楽しめるチャンスなのに、それをないがしろにできるほど私は優しくないのだ。


 朝から自転車に乗り、町を駆ける。自分の意思で浴びる風はなんとも気持ちいい。朝のまだ冷えた風が顔に、腕に当たる。もうすこし自転車に慣れていたなら、警察の取り締まりにひっかかるとしても両手を離して大きく広げたいと思わずにいられない。この町がもっと田舎だったら、自転車に乗ったまま声を出していたことだろう。そう思いながら、とても緩やかな下り坂を滑るように走っていった。

 商店街はやはり、このご時世というのもあってとても静かだった。お店はやっているし、そこへ入っていく人も見かけるのだが……。やはり、人が少ない。以前であればおばちゃんたちが集まって談笑していそうな大きな店の一階の広場は、例のソーシャルディスタンスを保つために座れない席が確保されていた。集まれないからか、おばちゃんたちの姿もあまり見られない。この町はかなり田舎だから、元々いつも賑わっていたわけではないだろう。それでも、やはりフードコートとかにはある程度人がいるはずのものだ。……フードコートは静かであったが、食品売り場は人がかなりいる。集まるのを避けただけで、食べ物も消耗品も普通に買いに来るのだろう。家にいる人が多くなったから食品を買う量が増えたという話もきく。だとすると、こういう店にくる人の数は変わってないのかもしれない。

 そんなことを考えながら買い物を済ませ、今日もバイトへ行く。途中で雨が降りだし、橋の下でカッパを着たようとして、慣れてなくて手間取る。やっと着て、橋の下を出たころには雨が緩くなり、雲がまばらになって日の光が見えていた。こういうこともあるのだ、と思ってぼんやりと空を見渡すと、太陽と逆の方向に虹がかかっていた。

 ああ、これが虹か。綺麗に弧を描いているわけではない、断片的なものであったが、虹を初めて見る私は、雨に濡れながらその色を食い入るように見ていた。

 バイトには遅れないように到着し、今日もそつなく仕事をこなす。また客がいない時間があって、またバイトの後輩が話しかけてきた。

「先輩、今日も調子がいいんすね」

「そうかなあ。いつも通りのつもりだけど」

 彼はいったいどれだけとんでもない態度だったのだろう。……私は、彼の姿を見たことがない。私は、その姿をみることはない。鏡越しであれば見れるだろうが、私の目でその姿を、顔を見ることはきっとない。彼が実際に後輩のいう態度をしていた時も、私はそうなっていることを知ることはなかった。

「人当たりもマシになったような……?」

 彼、コミュ障がすぎないか? もしかして後輩からの質問は全てスルーしていたのだろうか。それとも、そもそも話しかけられることがなかったのか。ちょっとそれは社会人になっていく上でよくないのではないだろうか。いわゆるヤバイというやつである。

「そう、かなぁ……」

 そういえば確かに、彼はバイト中ほぼ黙っていた。だからこそ私もよくしゃべっていたのだが。数日のバイトの間に話しかけられることはなかったけど、かつてはコミュニケーションをとろうとしてもらったんだろうか。

「ほんと、人が変わったって感じっすよ」

 後輩の言葉が、私のどこかに引っかかった。


 よく考えると、私は彼の思考はずっと読んでいるが、彼を見たことはない。彼の内面を――正直、思考以外のことも――知っているから、十分に彼っぽい行動を再現できるかと思っていた。だが、こうやって指摘された以上、私が知っているのは一部分だったのだ。内面はその人の全てではない。いや、内面に理由があったとしても、本人が無自覚のうちに外面に反映されて、いつのまにかそれがいつもの姿になっていく。そして、周りから「それがあなただ」と思われるのだろう。……あぁ、知らなかった。私も、彼のことを知らなかった。私は彼の中の塊を見ていただけで、それが会話をとおしてどうなるのかすら知らなかったのだ。

 彼の家に戻り、そっと洗面所の鑑の前に立つ。深呼吸をして、目を閉じて、ずっとずっと意識を思考の奥へと持っていく。くらいくらい闇を潜って――


 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――


 ハッと、目が覚めた。 

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