第5話 訪問

 慧は思わずその手をつかむ。細くて白い手首。幻覚じゃない。脈を確かめる。ちゃんと動いている。


「ああああ生きてた! 死んでなかったあ! 良かったほんとにまじで」

「あらー」


 件の戸惑いの声に慧は我に返った。慌てて手首を開放する。誤魔化すように言葉を重ねた。


「その、体の具合はどう? 平気なんです? いきなり、いなくなるから……」

「私は元気溌剌ですが。なんかこう、他に言うことはないんですかね?」


 件は廊下全体を腕を広げることによって示した。慧はああ、と頷いた。


「件、さん? その何故家の中に?」

「呼び捨てとため口で結構ですよ。まあ、そうですね。合鍵を持っていたからです」


 件はそう言うと、リビングに入っていった。慧も靴を脱いで付いていく。


「合鍵。なんだ、父さんと母さんの知り合いか。親戚?」

「ちょっと信頼が高すぎるのが気になりますが、いえ、勝手に作りました」


 件は慧をソファに誘導すると、そのまま座らせた。テーブルのかごの中からまんじゅうを取り出し、慧の前にお供えのように置いた。


「ん?」

「とりあえずお母様とお父様は二週間くらい、向こうに滞在して頂きます」

「滞在?」


 慧が首を傾げた瞬間、スマートフォンが鳴った。慧が出る前に件が奪い取る。件は慧に向かって人差し指をひとつ立てた。それを唇に当てる。静かに、ということらしい。


『もしもし。慧? そろそろ家についたか?』


 スマートフォンから聞こえてきたのは、父の声だった。スピーカーモードにしたようだ。なんだか焦っている。父がこうやって電話を掛けてくるのは珍しいことで、ここ数年では一回、ラグナロクのときだけだった。


「うん。帰ってるけど。どうした?」


 件は平然と返事をした。慧の声で。他の人間の口から自分の声が出てきて慧は驚いた。小さく声を上げようとしたのを、件は、今度は手のひらを押し付けることによって塞ぐ。ソファ越し、後ろから抱きかかえるようだった。

 父はだいぶ躊躇ったのちに言った。


『その……運転免許、落ちてないか?』

「はあ?」


 件は訝し気に返す。


「え? えー。ないけどそんなの。何? なくしたの?」


 探しているような声を出しつつ、一歩も動かないまま、件は言い切る。

 慧は腕を外そうと必死にもがくが、身動きひとつ取れない。同じくらいの背のはずなのに力がすごぶる強いのだ。


『ないか……ないかあ。ごめん、慧。父さんたちちょっと暫く帰れない。その、家の一階のコルクボードの裏に万が一用のお金用意してるから、それでご飯買って。ケガしてるのに、本当ごめん』


 最後、とても悲しそうに父は言った。


「分かった。いや、うん。平気。気を付けて」


 件はピッと電話を切る。慧の口元から手のひらが放された。そのままその手を件は自分の懐に突っ込む。

 出てきたのは一枚のカードだった。父の証明写真が貼ってある。紛れもなく、父が探していた運転免許証だ。


「とまあ、こんな感じです」


 スマートフォンを慧に返し、件は微笑んだ。声色は件のものに戻っていた。慧は今まで言わせなかった分を含めて叫ぶ。


「ぬ、盗んだのか!?」

「お父様は何故か運転免許を紛失したようです。多分途中で寄ったパーキングエリアあたりで」


 件はしれっとそう言うと、慧の目の前で運転免許証を真っ二つに折った。


「え」

「運転免許証を紛失した場合、運転免許センターなら即日に再発行できます。ですが、お父様たちがいる地域は、残念ながら徒歩圏内にセンターがございません」


 電車はラグナロクで運休。そもそもあそこは確か、田舎すぎてバスもなかった。

 件は説明を続けつつ、どんどん免許証を折っていく。もはやこれは砕くという作業に近い。


「何」

「警察署でも発行は出来ますが、二週間程かかってしまいます。貴方のお父様は真面目な方なので、気づいてしまったら黙って運転することは出来ないでしょう」


 そして、母は運転免許を持っていなかった。家も職場も駅近くで運転免許をとらなかったのだ。今回のラグナロクを受けて、空いている時間にとろうかなと話していたところだった。

 祖父母も年齢を理由に免許証を返納していたと思う。両親たちは今、運転免許を新たに手に入れるまで実家から身動きがとれないのだ。


 それで、二週間の滞在と言ったのか。


 件はゴミ箱に向かうと、その上で手のひらを広げた。原型などない免許証がバラバラと落ちて行った。

 件はゴミ箱に釘付けになっている慧を無視し、横を通り抜けた。リビングの扉を開ける。

 ワンピースのすそがはためく。


「さて。これで人質はいなくなりました」

「は?」


 件の言葉に慧は振り返った。

 ソファから立ち上がり、後を追う。

 件が向かう先は、特に変わったところのない玄関だった。観音開きの靴箱に靴を脱ぐのであんまり役に立たないドアマット。扉は金属製で鍵がふたつ付いている。来客用のスリッパはホコリを被っている。

 慧を迎えたときと同じように立って、件は呟いた。


「来ますね」


 目を細める。

 その、僅かな静寂の後だった。


——ぽーん。


玄関から、間抜けなチャイム音が鳴った。慧は息を呑んだ。件は扉を睨んでいる。再び、チャイムが鳴る。


——ぽーん。ぽーん。ぽーん。


 チャイムの音の間隔が段々と短くなる。


——ぽーんぽーんぽーんぽーん。


 慧は件の言っていたことを思い返す。


『8月1日、サトウケイは誘拐され、死んでしまいます』


 慧の命を狙っている奴らが今、扉の向こう側にいるのだ。

 慧はどうすべきかと件の方に視線をやり、目を見開く。

 件は銃を構えていた。茶色い筒の長い、猟銃だ。トリガーに指をひっかけている。


——ぽーん……。


 ふいにチャイムの音がやんだ。しん、と辺りが静かになる。だからこそ、慧は気づいた。金属の擦れる音がする。

 視界を下にずらすと、マイナスの角度に倒れていた鍵のつまみが縦の方向に回っていた。かちり、と音がした。今度は上側のつまみが回る。

 僅かに扉が動いたかと思うと、勢いよく開く。

 男の姿が覗く。


「ここが佐藤さんの家です、か」


 パン、と乾いた音が鳴った。慧が姿をよく確認できないまま、男が真後ろに倒れていく。倒れた男に駆け寄るように新たに男二人の姿が現れる。今度は二回、音が響く。その男たちも倒れていく。

 件が銃を構えたまま、玄関の扉に向かう。男たちを家の中に引っ張りこむと、首だけ外に出して辺りの状況を確かめた。これ以上人はいなかったのか、安心したように戻ってくる。そこで茫然と立ち尽くす慧と目が遭い、件は自分の持っている銃に目を落とした。それから、へらりと笑って見せた。


「あー安心してください、これは、催眠銃です。獣に使うやつ。こんなところで殺生は目立ちますから」


 そう言うと、件は初めに入ってきた男の首筋から注射針のようなものを抜いた。証拠だと言うように慧に手渡す。液体はまだ残っていて、傾けると小さく水音がした。他の男達に刺さっていた分も渡され、慧は困った。

 続けて、件はひとりの男の胸倉を掴んだかと思ったら、背負い投げをした。男が呻く。振動で玄関に飾られていた絵が落ちた。件はまた別の男に手を伸ばす。

「え、件」

「証拠隠滅です」


 勢いよく男を床に叩きつけて、件は今の角度だと気絶はしませんよね、と呟いた。今度は襟首を掴んだのを、慧は慌てて止めた。

件はひとつ息を吐くと、リビングに一旦行き、メモ帳を持って戻ってきた。メモ帳にはこう書いてある。


『佐藤という表札に興奮して、男たちが家に押し入ってきました。柔道を習っていたので、なんとか倒せました。引き取ってください』

「この、台詞の通りに、通報してください」

「この通りにか!?」


 慧は色々と突っ込もうとし、件が肩で息をしているのに気づいた。心なしか顔が青い。


「件?」

「がぼっ」


 件が血を吐いて、消えた。


 また、あのときと同じだ。事故にあった日を加えると三回目だ。

 慧は件のいた空間に一歩踏み出す。その足の裏にぐにゃりと変な感触がした。男のうちのひとりを踏んでしまったのだ。靴下だけ履いていたので、ダイレクトに温かみが伝わって気持ち悪かった。男のうめく声でやっと慧は我に帰り、後ろに飛びのいた。

 とりあえず、彼らを放置するわけにはいかない。

 メモの通りに通報すると、サイレンの音がしてすぐに警察がきた。男たちがパトカーに乗せられていく。事情聴取で慧が警察に怪しまれることは一切なかった。むしろ、警察は同情するように頷いた。


「最近、多いですからねー。佐藤刈り」

「はあ」

「表札、変えてみるのもいかがでしょうか? 古くからの人には知られていますが、新しい人には効果があるはずです。郵便局の人も流石に納得してくれると思いますよ」


 警官たちが去った後、慧は応急措置に表札を紙で隠してみた。家の門にガムテープで止められた、何も書いていない白い紙。余計に怪しくなった。

 家の中に入ると閑散としていた。テーブルの上に仲間外れのように置かれた、ひとつのまんじゅうが目に入る。慧はそれを手に取ると、透明なビニールをむき、かじりついた。


 甘い。

 味覚は正常だ。


 食べ終わり、次のまんじゅうに手を伸ばす。その手に勝手に新しくまんじゅうがのせられる。

 視線をあげると、件が普通にいた。


「私ちょくちょく死んじゃうんですよ」


 件は何でもないようにこう言うと、まんじゅうをひとつ手に取った。大きく口を開け、そこそこ大きなまんじゅうを二口で食べてしまった。ぺろりと舌なめずりをしている。


「現実?」


 慧が尋ねると、件が両手で慧の頬をつまんだ。軽くひねる。痛い。夢ではない。壊れたアキネーターのように慧は質問を重ねる。


「人間ではない?」

「あれ。言ってませんでした? 妖怪だって」


 件は慧の頬から手を離すと、その場で自分を見せつけるようにターンをしてみせる。

 確かに彼女は自分のことを「件」だと話していた。

 慧も名ばかりとはいえ妖怪研究部の一員だ。妖怪の「件」は知っている。

 幕末の越中国、現在の富山県の山奥で、山菜を刈りに行った人間が人面の牛に遭遇した。人面の牛は「くだべ」と名乗り、これから疫病が起こること、自分の姿絵を見ればかからずにすむことを山菜狩りに伝えた。


 この話を初めとし、件の目撃情報は全国各地で昭和まで続いた。文学では内田百閒の短編小説が有名だろう。「件」に共通する特徴は次の通りだ。牛の身体に人間の顔を持つこと。必ず当たる予言をすること。

 そして、予言をするとすぐに死んでしまうことだ。


「新しい未来を見ると死んじゃうのは私の変えられない性質ですね。まあすぐに戻ってきますけど」


 件は右手の人差し指を一本立てると、自分のこめかみに当てた。

 慧は件をまじまじと見つめた。


「牛じゃないみたいだが……」

「空も割れるんだから、件だって人間になりますよ。信じられませんか?」


 もう片方の手も頭に持ってきて、件は牛の角のポーズをとった。合わせて、モーと牛の鳴き真似。全然似ていなかった。けど、納得はいった。


「私は限りなく災厄なこと……貴方が殺されてしまうことを知り、それを回避しようと貴方の元を訪れたってわけです」


 幽霊の正体見たり枯れ尾花。妖怪なんて空想上の存在にすぎないと思っていたけれど、世界の命運が慧にかかっていることに比べたら、極めて現実的だ。実際に何度も消えたのだから。

 慧は尋ねる。


「えっと、じゃあ、今日のことも予言ってことか?」

「ええ。8月1日にチンピラどもが貴方の家に押し入り、誘拐することを私は予め知っていました。その後、貴方がチンピラと共に襲われ、殺害されることも」

「ん? あの男たちが俺を殺したんじゃないのか?」

「彼らは只の愉快犯ですよ。前々からこの家に佐藤が住んでいると知っていて、金目のものを取ろうと企んでいました。そこで貴方と家族のやりとりから貴方の名前がサトウケイと読むことを知り、面白半分に誘拐したんです。ご両親を人質に取って」


 表札に大興奮。あのメモの中身は意外にも間違っていなかったらしい。

 件は続ける。


「その先に災厄が現れた。未だそれは排除されていません」


 真っ黒な瞳孔に反射し、慧の姿が映る。ひとつ、瞬きでそれを遮ると件は予言した。






「8月12日、貴方は殺人鬼に襲われて、殺される」

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