第3話 邂逅

「初めまして。佐藤慧さん?」


 ベッドの横に立ち、女性は軽く首を傾けた。合わせて肩から白い髪が零れ落ちる。

 着物によく似た灰色のワンピース。そこから覗く細い手足。

 恰好も紛れもなくあの日のままだ。


「お前、誰だ……?」


 慧の質問に女性は笑みをぐっと深めてみせた。


「貴方の味方です」


 そう言いながら彼女は自分の胸に手をあてた。心なしか自慢げにのけぞっているように思える。

 シーツを指で叩きながら、慧は言った。


「ごまかさないでくれ。そうじゃなくて。俺はお前が何者なのか……お前が何の目的で俺の前に現れたのか……なんで、事故の前に現れたのかについて聞きたいんだ」


 目の前の人物の得体のしれなさに、慧の言葉はたどたどしくなる。警戒に後ろ手でナースコールに指を伸ばした。相手は何故かこちらのことを知っている。加えて相手はあのとき、姿を一瞬で消したのだ。

 非現実的な出来事。


「……もしかして、俺がサトウケイなのか?」


 一度たどり着いた結論だ。こう考えるのに時間は掛からなかった。恐る恐る尋ねた慧に対して、あっけなく女性は答えを返した。


「私が見た限りでは、そうなのでしょう」


 ひゅ、と慧の息が止まった。全身の毛穴が開く。暑いのに、寒い。遅れて心臓が大きく脈打った。苦しいくらいだ。頭に血が上る。

 慧は動かない首をむりやり動かし、再び窓の外を見た。

 変わらず、森は浮いていた。

 耳に緊急事態、と壊滅的に変わった世界の様子が聞こえる。


「あーもう、落ち着いて下さい!」


 気が付いたら慧は女性に抱きしめられていた。布の擦れる音と共に、女性の腕が慧の背中に回る。


「はッ、あ、はあ」


 過呼吸を起こしていたようだ。上下する手と共に肺に溜まっていた息が少しずつ出ていく。そこでやっと、慧は自分が震えていることに気づいた。


「は、ぜんぶ、俺の、俺のせい……?」

「そうじゃありませんし、そうはさせませんよ」


 慧が握った手の平に爪を立てるのを、余ったもう片方の手でほぐしながら女性は言った。肩越しの視界には、白い髪とそこから覗く赤くなった耳が映る。

 彼女は慧に囁いた。


「その為に私は来たんです」


 慧の呼吸が穏やかになったのを感じると、女性はゆっくりと体を離した。そのまま、近距離から慧の顔を覗き込む。大きな目に長い睫毛が生えているのだとか、小さいのに鼻梁が高く整っているのだとかが良く分かった。


 窓の外から来る風を受けて、カーテンが揺れた。風は慧の熱くなった頬も冷やす。

 我に返った慧は自分の体を更に女性から遠ざけた。

 赤くなった慧の様子に気付かず、女性は申し訳なさそうに言う。


「ごめんなさい。本当は落ち着いてから言うべきなのですが。時間がないので」


 彼女はこう続けた。


「8月1日、サトウケイは誘拐されてしまいます」

「……占い師が殺された話か」


 言い方に少し引っかかりを覚えたものの、慧は然程驚かなかった。

 サトウケイが狙われているという話は散々ニュースで耳にしてきたからだ。この広い世界に欲深い人間や破滅主義者がいることは、慧はインターネットを通してよく知っていた。世界の命運を握っているたった一人の人間。狙われないわけがない。

 この女性はその事件を追っている人で、捜査の最中にサトウケイのことやそれを狙う計画を知ったのだろう。

 慧の予想を裏付けるように女性が頷く。


「ええ。あの事件もサトウケイを狙う一部が起こしたものですね」


 女性は右手の人差し指を立てた。すらりとして長い指だ。それから、余った手をひらひらと動かす。


「今は貴方が本当のサトウケイだとは気づかれていませんが、バレたら様々な人間が、どんな手段を使っても貴方を捕まえようとするでしょう」


 女性の左手が急上昇したかと思うと、勢いをつけて右手の指に飛び掛かった。手のひらに包まれて、右手の指はシーツの上に滑落する。

 慧の視線が指から自分の顔に戻ったのに気づくと、女性はぱっと手の形を元に戻した。彼女は言う。


「私も協力しますが、誰にも教えずに、目立たずに、いつもの貴方の通りに過ごして欲しいんです」

「へ、平穏に暮らすのは良いことだけど。その、こんな事態を招いた元凶が……」


 慧の考えを女性はばっさりと切り捨てた。


「心を鬼にしてください。貴方が傷ついたら、多くの人が傷つくんです。罪悪感なんかいりません。ポイしてください。ポイ」

「ポイか……ポイ」


 丁寧な口調に反して、子どもっぽい言い回しに慧は吹き出した。ラグナロク以来、初めて心から笑えた瞬間だった。慧の表情がゆるゆると解けていく。

 安心したように女性が眉尻を下げた。女性。


「一番、肝心のところを聞いてなかった。名前は? 俺は何て呼んだらいいんです?」


 慧は軽くなった口調で質問した。女性もひとつ頷いて、口を開く。


「ん。そうですね。私のことは件、と……」


 そこから、ごぼり、と血が零れ落ちた。続けてせき込みながら、女性、件は病院のリノリウムの床に崩れ落ちる。咄嗟に伸ばそうとした利き手はギプスで固定されて動かなかった。


「な、おい! 大丈夫か!」


 ベッドから落ちるように降りると、慧は慌てて件の傍に駆け寄った。座り込み、膝の上に彼女を抱きあげる。また、件は口から血を吹き出した。慧の頬にも飛ぶ。頭がぐるぐると回る。緊急時の救助方法。保健体育中学二年生のときの実習。気道を確保しようと、あごを掴んで軽く持ち上げた。それで、頭が容易く動いてしまうことに慧は恐れを覚えた。

 幸いここは病院だ。人を治すプロがいる。助けを呼ぼうと口をあけて、声が出なかった。彼女を支える手がこんなにも震えているのに声帯だけが震えない。ならば、とナースコールに手を伸ばす。

 その腕を、彼女が掴んだ。


「だめで、す。目立ってしまいます」

「いや、でも……ッ」

「落ち着いて。ね? 言った通り、いつもの通りに、過ごすんです」


 鉄の匂いのするなか、件は目を細めて慧のことをじっと見つめていた。


「私は、大丈夫、ですから」


 その目が虚ろになったかと思うと、慧の腕をつかんでいた件の手が重力にそって、落ちた。残された赤い手形は白い入院服に映えていた。件の呼吸が止まっていくのを感じて、慧はナースコールを押した。

 いずれ来るかもしれない自分の危機よりも、今の彼女の状態のほうが危険だ。


「誰か! 早く!」


 このまま助けを待っているだけでは駄目だ。慧は静かに件の体を横たえると、息を取り戻そうと何度も件に口づけた。胸に耳を当てて、脈も動いていないのを確認すると、左手の拳を叩きつけるようにして心臓マッサージも行った。

 三回目で、腕が空ぶる。

 バランスを崩した慧はそのまま床に顔を打ち付けた。慧の肩に激痛が走った。




足音が近づいてくる。


「佐藤さん! どうしました!?」


 部屋に飛び込んできた看護師を、床に座り込んだまま、慧はぼんやりと見返した。

 慧専用にあてがわれた病室には、ベッドと小さいデスク一式、テレビと洗面台が用意されていた。清潔で、真っ白な空間だ。消毒用のアルコールの匂いがする。普段と変わりない様子に焦っていた看護師も息を吐き、笑みをうかべてみせる。


「大丈夫ですか。立てますか……何処か、痛みましたか?」

「……人が」


 慧は呟いた。


「人が、さっき、死んだんだ……!」


 慧は何の汚れもない腕をさすった。

 続けて、両親と医者が病室に来た。慧の話を聞いて心配そうに医者は言った。


「頭を打った影響で、幻覚を見たのでしょう。このご時世、頭を打ってなくても見てしまうものです」

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