櫻ノ肆『木霊』
学校を出て丘から離れるように歩いて行くと、やがて小川に架かった橋に辿り着く。その橋を渡った先に幸子の家はあった。
今時田舎でも珍しいであろう、藁葺きの木造建築。縁側には猫が一匹寝そべってこちらをじっと見ていた。
その正面にある庭は花壇になっていて、春らしい色取り取りの花達が競い合うように咲いている。滝桜のような豪奢な印象こそ無いが、これはこれで風情があって良いものだと私が見惚れていると。
「あら、こんな時間にお客様?」
花に水を遣りにか、一人の女性が如雨露(じょろ)を手に近付いて来た。その言葉は恐らく私の傍らに居る幸子に掛けたものだろうが、黒真珠のような深い瞳は私の方へと向けられている。
私と目が合うと、彼女は緩やかに微笑んでみせた。
年の頃は二十歳前後だろうか、幸子にどことなく似ているが、彼女よりは幾分落ち着いた雰囲気を醸し出している。
「姉さん、この人は画家の芹沢真人先生です。ほら、前に話したことあるでしょ?」
「あらあら。遠路遥々ようこそお越し下さいました、芹沢さん」
幸子の説明に、女性は深々と頭を下げて言って来た。この人が幸子の姉なのか。
楚々としたその物腰は清涼なる河原にひっそりと咲く可憐な野菊と言った感じで、道路脇に雑草に紛れて咲いた蒲公英(たんぽぽ)のような印象の幸子とはまるで違っていた。
「愛子と申します。宜しくお願いします、芹沢さん」
「あ、いえ、こちらこそ宜しくお願いします、愛子さん」
夕日に映える藍色の着物を完璧に着こなし、見る者を虜にする微笑を浮かべて、女性は名を告げた。
愛子、か。良い名前だと思う。人の名前はその人の体(てい)を表すと言うが、正しくその通りだ。たおやかで女性らしい彼女を好かない男はまず居ないだろう。かく言う私自身、少し緊張して礼をしながらも胸を高鳴らせていた。横で幸子が咳払いをしたのを聞いて我に返らなければ、どうなっていたか自分でも分からない位だ。
そんな私を横目で睨みながら、幸子はやおら切り出した。
「それでね、姉さん。芹沢先生、ウチに泊めてあげてもいいかな? ほら、この辺りって観光地の割に旅館とか少ないじゃない? ウチは空き部屋多いし、二、三日くらいなら差し支え無いと思うんだけど」
「泊める代わりに、絵を描いて貰う約束をしたとか?」
「うん、そーなんだ。お滝様と一緒に描いて貰うことになってて──って、ええっ!? 何で分かったの!?」
「貴女の考えていることなんて私には手に取るように分かるのよ、幸子。その服、泥が完全に乾き切って剥がれ始めているわ。大方、仕事をサボって遊んでいたんでしょう?」
あくまでも笑顔のままで、愛子は応えた。だがその目は笑っていない。なまじ顔が笑っているだけにその迫力たるや相当なもので、幸子は怯えて私の後ろに隠れてしまった。関係無いはずの私ですら、思わず一歩後退してしまった程だ。
「まぁ、幸子には後で然るべき罰を与えるとして。芹沢さんには何の罪もございませんものね。何分二人暮しなもので大したおもてなしはできませんが、こんな何も無い家で宜しければ、どうぞごゆっくりしていってやって下さいませ」
しかし私に対しては、愛子は優しい顔でそう言ってくれた。
「ありがとうございます。それじゃあ遠慮無くお世話になります」
「その代わり、私にも一枚絵を描いて下さいね」
「……はい」
前言撤回。やはりこの二人は姉妹だ。有無を言わさぬ口調で言われては駄目とも言えず、私は泣く泣く引き受けた。本当は幸子の絵に専念したかったのだが、宿を提供して貰う手前、無下には断れまい。
ちらっと隣を見ると、何か言いたげに幸子がこちらを見上げていた。言いたいことは良く分かる、だが仕方が無いのだ。私も目でそう応えてやる。
「それでは、お部屋にご案内致します。こちらへどうぞ」
如雨露を縁側に起き、愛子は屋敷に上がった。それまで気持ち良さそうに寝ていた猫が迷惑そうに脇に退くのを横目で見ながら、私も靴を脱いで上がる。続いて幸子も上がろうとしたが、愛子の冷たい視線がそれを制した。恨めしそうにこちらを見つめ、幸子は渋々といった様子で家の裏へと走って行った。少し可哀想な気もするが、これも躾なのだろう。
家の中は暗く静かだった。物音一つしない廊下を、ひたひたと足音を立てないように注意しながら歩いて行く。広い家だった。鄙びた旧家とはこういう家を指すのだろうか。二人で住むにはやや広過ぎる気がする。まぁ、そうだからこそ私は泊めて貰えるのだろうが。
それにしても静かだ。この町に来てからずっと感じていたことだが、生活感というものがまるで無いのだ。まるで、私達以外の人間が存在していないかのように。そんな訳がないのだが。観光ガイドによると、現在二万人以上の人々がこの町で生活しているはずなのだ。
「あの。つかぬことを伺いますが、ご両親は?」
「あらあら。セールスの方みたいなことを訊かれますのね」
私の質問に、愛子は少し困ったように応えた。気を悪くしたのかと思い非礼を詫びると、彼女は「いえいえ、お気になさらず」と微笑んでみせる。
「両親のことは良く訊かれますので、ちょっと言ってみただけですよ。いつもは私、こう応えることにしているんです。ここには私達二人以外誰も居りませんよ、何か問題でもございまして? って。
大概の方はそれで引き下がってくれるんですけど……貴方は納得してはくれないのでしょうね」
そこまで言って彼女は立ち止まった。障子戸を開けると、そこは八畳程の大きさの和室だった。家具の一切無い薄暗いその部屋からは、黴(かび)の匂いが漂って来る。何となく入るのを躊躇われたが、愛子にそっと背中を押され、一歩中に入った。
「父は亡くなりました。母は私達をこの家に置いて出て行きました。ここは、両親が寝起きしていた部屋ですわ。もっとも私には、そうであったらしい、という記憶しかございませんけどね。幸子に至っては、親の温もりすら覚えてはいないでしょう」
彼女の告白を、私は無言で聞いていた。どう応えて良いのか分からなかった。彼女がどんな顔をしているのか、こちらからは夕日の影になっていてよく見えない。だがその寂しそうな口調は、姉妹二人だけで暮らすことの辛さを表しているような気がした。
「芹沢さん。幸子の懐いた貴方になら、安心してお貸しできます。是非この部屋を使ってやって下さい。お願いします」
かつて故人の居た部屋。気味が悪くないと言えば嘘になるだろう。だが、愛子の真摯な言葉に、私は心動かされていたのだ。同情と言うと安っぽく聞こえるかも知れないが、私には彼女の頼みを断ることはできなかった。
私が頷くと、彼女は涙声で礼を言って、それから部屋を後にした。
誰も居なくなった部屋はしんとしていて、どうにも落ち着かない。静か過ぎて逆に居心地が悪いという奴だ。肩の荷を下ろし、イーゼルを組み立てたりして時間を潰すも、すぐにすることが無くなってしまった。
そうだ、ここには娯楽が無いのだ。テレビでもあれば適当にチャンネルを回して過ごせるのだが。押し入れを開けてみるも、中には布団が入っているだけだった。それを敷いて寝てみると、ようやく少し落ち着いた。このまま昼寝するのも良いかも知れない。今日は一日歩き通しで、疲れが溜まっていたのだ。私はゆっくりと目を閉じ──閉じた瞬間、ずしりと重みを感じた。何かが布団の上に乗っている。
「一つ、三春に花が咲き」
目を開こうとするも、瞼が重くて上がらなかった。力が入らない。手足の先に至るまで、身体が痺れて動かなかった。俗に『金縛り』と呼ばれる現象だ。
「二つ、桜の滝の音響き」
非科学的なことだったが、実際に体験してみると信じない訳にもいかなかった。単に動けないだけなら疲労の所為にできるが、頭上から聞こえて来る声は説明できない。子供のような、女のような。その歌声には聞き覚えがあった。滝桜を観に行った時、風に流れて来たものと同じだ。
だが、今は一人のようだ。あの時のような合唱ではない。
「三つ、泡沫の春のご到来でございます」
私は気付いていた。声がだんだん近付いて来ていることに。気配を間近に感じる。何かが、私の顔の前に居る。
はぁ、はぁ、はぁ。押し殺したような息遣いさえも聞こえ始めた。
「……四つ、三春に……」
声はもはや耳元で聞こえていた。不意に吐きそうになった。胃の中がぐるぐると渦を巻いているような感覚に襲われる。駄目だ。このままだと私は多分、狂ってしまう。本能が告げていた、これ以上聞いてはならないと。
逃げ出そうともがく──いや、もがいたつもりだった。実際には、微動だにできていない。私は完全に金縛りに捕らえられてしまっていたのだ。蜘蛛の糸に掛かった蝶のように、足掻けば足掻く程深く深く縛られる。
「ねぇ。四度目の春は来ないの?」
夏は? 秋は? 冬はどうなるの? 幾つもの声が重なり、耳の奥で木霊する。鼓膜が破れそうな程の大音響に、悲鳴を上げそうになるも声は出ない。喉も麻痺しているのだ、呼吸さえもままならない。
駄目だ、もう駄目だ。このままだと、いや、もうこの段階で、既に。あるいは、これからか。思った、金縛りの果てには何があるのかと。何もかも痺れてしまって、何も見えなくなって。最後には、心臓までも痺れてしまうのではないか、と。
そうなれば全て終わりだ、私という存在はこの世から消える。もう二度と、絵を描けなくなる。決意が無に還る。
そして……幸子に……。
「──ぁ──っ!」
そう思った瞬間。私は、声無き絶叫を迸らせていた。
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