櫻ノ参『木漏れ日』

 滝桜の自生している丘の直ぐ裏手に、幸子の言う「案内したい場所」はあった。

 古ぼけた、所々壁の剥がれ落ちた校舎。年代もののその学校は、彼女の通う高校だった。

 校門の所に墨で書いてある聞いたことの無い学校名を見て、私が首を捻っていると。


「せんせーい、そんな所に立ってたら用務員さんに怪しまれちゃいますよー? こっちですこっちです、早く来てくださぁい」


 校舎の中から彼女が声を掛けて来た。

 絵描き道具を背負った三十前の男が未成年の女の子を連れて学校の周辺をうろついている時点で既に充分怪しいと思うのだが、幸いと言うべきか、周囲に人の気配は無い。入るべきかどうか躊躇したが、折角此処まで来たのだからと、思い切って一歩踏み出した。

 その一歩目が効いたのか、続く二歩目以降はさしたる抵抗も無く、校内へ侵入することができた。完全に不法侵入だが。


「休日の学校って、とても静かですよね。何か化けて出てきそうで、少し怖いです」

「馬鹿馬鹿しい。そんなもの居る筈ないだろ」

「そう、ですよね」


 一蹴され、幸子は少し寂しそうに笑った。


 ぎしぎしと軋む、床の抜け掛けた廊下を慎重に歩いていると、確かに幽霊か何か出てもおかしくない気分にもなって来るが。科学の申し子たる我々人類が、そんな非科学的なものを信じる訳にはいくまい。百歩譲って実在していたとしても、それは私達の心の内にこそ存在すべきものであり、こんな場所に居てはいけない。


 怖いと感じる感情が在りもしないものを作り出してしまうのだ。

 そう、私が滝桜を見た時に感じた威圧感と、白い装束を着た女の像と同じように。全ては幻に過ぎない。


「それより幸子ちゃん、見せたいものっていうのはまだなのかい?」

「あ、もう少し先です。この廊下の突き当たりを右に曲がって──きゃっ!?」


 言い掛けて、何かにつまづいて転ぶ幸子。起こしてやろうと身を屈めて、私は彼女が何につまづいたのかを知った。

 白くて細長い棒状の、それは骨だった。よく見ると、廊下のあちこちに欠片が散らばっている。まさか、人骨じゃないだろうな。

 一瞬嫌な想像が脳裏をよぎったが。私が手にした骨の欠片を見て、幸子はぽんと手を打った。


「それ、鳥の骨ですよ。きっと、近所の野良猫が捕まえた獲物をここで食べていたんでしょうね。ほら見て下さい、骨だけじゃなくて羽毛も落ちてますよ」


 彼女の言っていることは本当だった。骨に混じって羽毛の塊が幾つか見える。

 しかし、それにしても不衛生な学校だ。この高校には清掃員は居ないのだろうか。薄暗い廊下に白骨は気味が悪い程目立つ。定期的に掃除をしているのなら、見逃す筈がないのだ。いやそれ以前に、猫の侵入を防ぐ何らかの措置を施しておいて然るべきだと思う。さっきの幸子の発言によると、休日でも用務員が居るらしいのだが……。


「行きましょ、先生。廊下の角を曲がって直ぐですから」

「あ、ああ」


 腑に落ちない点は多々あるものの、幸子に促されて身を起こす。ここは彼女の学校なのだ、部外者の私が色々詮索するのは筋違いというものだろう。彼女の後に続きながら、私はもうこの件に関しては触れないでおこうと決心していた。


 それより気になるのが、彼女がここに連れて来てまで私に見せたいというものだ。

 廊下の突き当たりの角を右に曲がると、その先は一層暗くなっていて前がよく見えない。幸子が電気を点けると、奥に部屋があるのが分かった。


「失礼しまーす」


 コンコンとノックしてから、幸子は部屋の戸を開けた。中は無人で、闇に満ちている。

 暗闇に慣れた目で観察してみると、中央にカンバスが三つ、丸テーブルを囲んで配置されているのが見えた。壁には幾つかの絵が展示されている。どうやらここは、美術室らしい。

 手探りで見つけたスイッチを押すと、眩しい光が部屋に満ちた。


 そしてその瞬間、私の瞳にある一枚の絵が飛び込んで来た。


「こ……これは……まさか」


 震える声で、私は隣で同じように絵を見上げている幸子に尋ねる。

 すると彼女は、微笑みを浮かべて頷いてみせた。どこか誇らしげにも見えるのは気のせいだろうか。


「こもれびのこえ。先生の処女作でしたよね」


 彼女のその言葉が私の耳を焼いた。私の心を燃やした。雷に撃たれたような衝撃、と言ってしまうと月並だが。それに似た衝撃が、私の全身を駆け巡った。その絵。他の絵に混じって壁に掛けられている一枚の絵に、私の目は釘付けになっていた。


 タイトルは幸子の言った通り、「こもれびのこえ」。

 遠い昔、画家になりたての頃の絵で、当時の家の近所にあった自然公園の様子を描いたものだ。木々の間から漏れた木漏れ日が地面に光の海を作り出し、その中心では子供達が手を繋いで遊んでいる。童謡「てのひらをたいように」をイメージして描いた記憶がある。


 何気無くスケッチしてみて、気に入ったので色を塗ってみた──そんな感じの、今から見れば酷く粗いタッチの、絵画と呼ぶのもおこがましい代物だ。だが、その分活き活きしている気がする。型にはまらず、自由に表現した結果だ。魂そのものの躍動感、そして生命への純粋なる敬意。現在の私の絵には無いものがそこには在った。


 長い年月を経て、経験を積んで、年を取って。技術と引き換えに、私は大切なものを失って来たのかも知れない。私の絵に決定的に足りないもの、それは画家の魂だ、情熱だ。そして、確固たる信念。この絵に全身全霊、命の全てを捧げようとする、その気概が足りなかったのだ、私には。初心に帰り思い出してみれば実に簡単なことだった。だが私は、過去に戻ることを怖れたのだ。今まで培って来たノウハウの全てを捨てる勇気が、私には無かったのだ。


 単純なことだったのに。過去の自分を見つめ直せば済むことだったのに。何も捨てずに済んだのに。

 現在に固執し過ぎて、過去を遠ざけてしまっていた。


 そして幸子は、その過去を私に思い出させてくれた。この意味は大きい。


「私は、君に感謝しなければならないな。驚いたよ。まさかこんな所で、この絵と再会するとは思ってもいなかった。……ありがとう、本当に」


 私は泣いていたのかも知れない。ずっと探し続けていたものを、やっと見つけることができたという喜び。それを素直に言葉にすると、彼女は照れ臭そうに微笑んだ。


「美術の授業がある度、私はこの絵が見えるこの場所に座るんです。大好きな絵なんです。見ているとほら、今にも子供達が絵から飛び出してきそうで。お日様の光が、優しくて温かくて、私の心までぽかぽかにしてくれる気がして。すごくすごく、思ったんです。私もこんな風に伸び伸びと絵を描けたらいいな、巧くなりたいなって。

 それから、この絵を描いた人はどんな人なんだろう、ってずっと気になってました。新聞の切り抜きとかでお写真を拝見して、ああ、この人が描いたんだ、って……そう思ったら、逢いたくなっていました。だから今日先生に逢えて、私本当に幸せです。感激しています、私。どうにもならないことも、どうにかなっちゃいそうに思えてしまうくらい」


 幸子はそこまで一気に言って、恥ずかしくなったのか、急に口をつぐんだ。取りようによってはプロポーズしているようなものだ、無理は無いだろうが。赤面して俯く様を見ていると、こちらまで気恥ずかしく思えて来るから不思議だ。


「それなのに、この絵を描いた先生の方が元気無さそうだったから。自信無くしちゃったのかなって思って、つい連れて来てしまいました。えへへ」

「不法侵入も良い所だな。部外者を連れ込むなんて、退学モノじゃないか?」

「大丈夫です、普段から品行方正なのが私の売りですから。もしバレても先生が警察に捕まるだけで、私は無罪放免です」

「おいおい、酷い奴だな君は。可愛い顔して、とんだ悪女だ。人格を疑ってしまうな」

「あは、こんなこと言うの、先生が初めてなんですよ?」

「なるほど。つまり私が、君にとって初めての人ということになるのか」


 冗談を交わしながら、私達は笑っていた。

 ここに居ると気分が落ち着く。腐っても画家ということか、油絵の匂いが染み込んだこの空間に懐かしさを感じてしまう。


 加えて、幸子という少女の存在がやはり大きい。滝桜の時もそうだったが、この子には何故か惹かれる。見た目は普通の、いやむしろ人並み以下かも知れない、無垢な田舎娘に過ぎないのに。都会の小綺麗な娘達を見ても何も感じないのに、色気も何も無い、泥に塗れたこの娘と接していると、何だか安心できるのだ。ほっとする。

 あたかも母親の胸に抱かれた子供のように。


 年下の少女に母性を感じるとは変かも知れないが、そうとしか言いようが無い。


「そうだ。お礼に一枚、絵を描かせてくれないか。滝桜をバックにして、君を描いてみたいんだけど」

「えっ……私、ですか……?」


 ふと、思いついたことを口にしてみると。幸子は驚いたような表情を浮かべて訊き返して来た。

 ある程度予想していたリアクションだ。いきなり絵のモデルになって欲しいと言われたら、普通は驚くだろう。


「で、でも私、不細工だし背も小さいしスタイルも良くないしお化粧だってあんまりしたこと無いですしっ……他の娘をモデルにした方が良いと思います。例えば姉とか!」


 完全に狼狽して独り喋くる彼女を、私は可愛いと思った。自然な感情だった。


「そんな君だからこそ、滝桜の前でも映えると思うんだよ。そりゃ君より綺麗な子は沢山居るかも知れない。だけどどんなに綺麗な子でも、滝桜のあの圧倒的な存在感、美しさの前では霞んでしまうんだ。でも君なら、個性を主張できるだろう? 単純な見た目の美しさだけでモデルは決められない。背景に呑まれない、強い個性が必要なんだ。

 そして君にはそれがある。絵を見ている時の恍惚とした眼差し、まるで絵に憑かれてしまったかのような、狂気と紙一重の情熱。君は充分素敵だよ、幸子ちゃん。私の絵のモデルとしては勿体無いくらいだ」


 時として画家は、好意を抱いた女性にプロポーズする時と同じくらい、或いはそれ以上の想いを込めてモデルを口説く。今の私が正にそれだった。狂気と紙一重の情熱とは良く言ったもので、それは私自身のことをも指している。

 幸子でなければ駄目なのだ。直感がそう告げていた。そして恐らくこれが、私にとって最初で最後のチャンスとなるだろう。


 だからこそ必死なのだ。応えて欲しかった。


「やっと何か掴んだ気がするんだ。試したいんだ、私は。私に画家としての才能があるのかどうか、見極めてみたいんだ。その為には君でなければ駄目なんだ。私は滝桜を見て打ちのめされた、その滝桜に負けないものを君は持っている。これだと思ったんだ、そして画家にとって何より大切なものはそのインスピレーションなんだ。

 君しか居ないんだ……頼む。モデルを引き受けてくれないか、幸子ちゃん」


 私がそう言っても、幸子は黙っていた。駄目、か。やはり急過ぎたのだろう。突然頼まれてはい分かりましたと言える者はそうそう居ない。諦めて、溜めていた息を吐き出す。


 と。その時だった。


「分かりました。私で良ければ、お引き受けします」


 沈黙を破り、何かを決意したような真剣な表情で幸子が応えたのは。

 その後直ぐに破顔し、彼女は付け足すように言って来る。


「てゆか、先生のモデルになれるなんて夢のようですよ、私! 感謝感激雨あられです! あまりに嬉しいので、特別にノーギャラで引き受けてあげますねっ」


 そう言って楽しげに笑う彼女の顔は誰よりも綺麗で、何よりも美しく私の眼には映った。

 直感は間違っていなかった、モデルに彼女を選んだのは正解だった。


 後は、私次第だ。モデルを活かすも殺すも、全ては私の腕にかかっている。


 これからが本当の勝負なのだ。

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