櫻ノ伍『約束』

 ふと、急に身体が楽になった。すぅ、とそれまで上に乗っていたものが離れていき。反射共鳴していた声も聞こえなくなった。再び室内は静寂に包まれる。何も居なくなる。


 そう、私は独りだった。ずっと独りで居た筈だった。悪い夢でも見ていたのだろうか。それとも、今この時こそが悪夢なのか? 笑ってしまう。


 すー、と襖が開く音がした。誰かが入って来る気配がする。さっきのが戻って来たのだろうか。また金縛りに遭ってしまうのだろうか。そうだとすると、今度こそ取り殺されてしまうのだろうか。逃げようと身体を動かし──動かせることに驚いた。


 手足が元通り自由に動く。そんな当たり前のことに、私は大いに驚かされていた。


「あの、先生。お加減の方、いかがですか?」


 掛けられた声に、重い瞼を開いていく。眠い。どれ位の時間寝ていたのか、いやそもそも寝ていたのかどうかすらあやふやだが。地の底へと引き摺り込まれてしまいそうな強烈な睡魔に耐えながら、私は閉じていた双眸を完全に開いた。


「良かった。うなされていたから心配したんですよ、私」


 その服装から最初愛子かと思ったが、私の傍らに座している浴衣姿の少女は幸子だった。三つ編みにしていた髪を解き、身体中に付着していた泥を落とした彼女は姉そっくりに見える。私の顔を覗き込み、彼女は安堵したような微笑を浮かべた。


「私は、一体何時間寝ていたのかな」


 外は真っ暗だった。日が落ちてからかなりの時間が経過している証拠だ。気になって訊いてみると──訊いてみて、口を動かせることにまた驚いたのだが──幸子は五時間です、と応えた。


 ということは、私がこの家を訪れたのが四時過ぎだから、今はもう九時を回っているということになる。脇に置いておいた腕時計を見ると、針は九時半を指していた。


「参ったな。昼寝のつもりが、ついつい寝過ごしてしまったよ。他人様の家で堂々と寝られる程、度胸の座った方じゃなかったはずなんだけどな」

「どうしましょう。お食事になさいますか? それともお風呂の方を用意しましょうか」

「いや、どっちも遠慮しておくよ。どうもまだ、眠気が残っているみたいなんだ。このまま明日の朝までゆっくり寝させて貰えないだろうか。時間も時間だしね」

「はい、分かりました。それでは」


 幸子はそう応えて立ち上がった。


 そのまますたすたと奥に歩いていき、直ぐに布団を抱えて戻って来た。何をするつもりなのかと見ていると、彼女は私の隣に布団を敷き。


「それじゃあ私ももう寝ますね。お休みなさい、芹沢先生」


 何でも無いことのようにそう言って、部屋の電気を消し、布団に潜り込んだ。


 その様子を、私は呆気に取られて見つめていたが。次の瞬間には、眠気など吹き飛んでいた。


「──って、どうして君までここで寝るんだよ! 君には自分の部屋があるだろう!?」

「先生のこと、心配ですから」


 うろたえる私に対し、幸子は冷静な口調で応えて来た。さも当然のことだと言わんばかりの表情で、彼女は私を見つめる。


 暗い部屋の中で、彼女の輪郭だけがぼぅっと薄明るく光っていた。人体が発光するなど非現実的な現象と思うかも知れないが、これは燐光というれっきとした物理現象だ。食物等を通して体内に取り込まれた微弱の放射性物質が、励起されて弱光を出すのだ。実際、放射性同位体ポタジウム等は人体中で普通に検出される。


「さっきまでの先生、とっても苦しそうでした。このまま目を覚まさないで、死んじゃうんじゃないかって思いました。そう思ったら、何だか私まで苦しくなって来たんです。先生と一緒に居たい、離れたくない……この辺が、きゅってしたんです」


 浴衣を少しはだけて、幸子は胸元を指差してみせた。丁度心臓の上辺りか。ブラジャーを着けていない彼女の肌は名残雪のように白く、純粋な、穢れ無き心を表しているように私には思えた。健康的に日焼けした顔や手足とは異なる、内包されていた彼女の身体。恐らくは今まで誰にも見せたことが無いであろう、彼女そのものを間近に感じ、全身が火のように熱くなった。女の裸を見たことが無い訳ではないが、これ程の情動に駆られることは未だかつて無かった。


 恐らく彼女に他意は無いであろう、私と一緒に寝るのも、純粋に私のことが心配だからだ。だが、男と女が寝床を共にすると言うことは、相当の覚悟を要するものなのだ。たとえ間違いが起こってしまったとしても、それは仕方が無いことだ。


 彼女が私のことを慕ってくれるのは嬉しい、だが私はどうしても、それ以上を求めてしまうのだ。彼女の心だけではなく、無防備な彼女の肉体をも。手に入れて、そして私だけのものにしたい。独占したい。雄の本能が、私を衝き動かさんとしていた。


「それに、先生となら大丈夫かな、って。先生はお父さんみたいに優しいから、私のことも大切にしてくれるかな、って。えへへ、変ですよね、私。今日逢ったばかりの先生のこと、お父さんみたいに思ってしまうだなんて。ホント、馬鹿みたいですよね」


 そんな私の欲望を止めてくれたのは、幸子の笑顔だった。どこか寂しげで、どこか儚いその微笑みを私は見たことがある。愛子だ。私をこの部屋に案内した時、私が彼女らの両親について訊いた瞬間、愛子が浮かべた泡のように消えてしまいそうな儚い微笑。今の幸子の表情は、あの時の愛子のそれと似て切ないものだった。


 やはり姉妹なのだと思う。幸子は愛子と同じものを感じていたのだ。両親のことを知らずに育ちながらも、それでも親の愛を求めてしまう。愛されたいと思ってしまう。私はそんな彼女の想いに付け入ろうとしたのだ。愚かだった、浅はかだった。私の醜い欲望で危うく彼女を汚してしまう所だった。そのことを知れば、幸子は私を軽蔑するだろう。嫌うだろう、避けるようになるだろう。だが彼女は知らないから、今もなお私を慕ってくれている。涙が出そうになった。


 その時初めて、私は気付いていた。私が幸子を、愛し始めているということに。


「ねぇ先生。どうしてこの町が三春町って呼ばれているか、ご存知ですか?」


 右手の平を天井に向けてかざし、彼女はふと訊いて来た。いきなりの問い掛けに私が戸惑っていると、彼女はかざした手を見つめたまま自答する。


「この町では春になると、梅、桃、桜が一時に開花し、三つの春が一度に訪れると言われています。三つの春、つまり三春ですね。とても素敵な伝承だと思います」


 彼女が何を言いたいのか分からないまま、私は黙って話を聞いていた。今彼女が言ったことは、観光ガイドにも書いてあったことだ。わざわざ説明する程のことではないし、説明する意味も無い。


「でもそれは、真実の三春を包み隠す覆いに過ぎないんです」


 と続けて、彼女はかざした手をぎゅっと握り締めた。それから、真実を紡ぎ始める。


「一つ、三春に花が咲き


 二つ、桜の滝の音響き


 三つ、泡沫の春のご到来でございます」


 幸子は唄う、あの歌を。私を滝桜へと誘ったあの歌。私を取り殺そうとしたあの歌。三度聴く今は不思議と、嫌な印象は受けなかった。唄っているのが幸子だからだろうか。むしろ、心地良さすら感じる。清涼で、それでいて温かい。


「……四つ、三春に……」

「三春に四度目の春は来ない」


 彼女の言い掛けた言葉を先に言ってやると、彼女は一瞬驚き、そしてすぐに、悲しげに頷いた。その反応を見て、私は彼女が言わんとすることを何となく理解した気がしていた。


「やっぱり、聴いてしまったんですね」

「ああ。聴いたと言うより、聴かされたと言う方が正しいがね。最初は子供達が合唱しているのかと思った。だけどあの時、滝桜の周囲には私と滝沢以外誰も居なかった。さっきもそうだ。幼い少女の歌声が聴こえたが、目を覚ました時には居なくなっていた。まるで私を嘲笑うかのように、声だけを届けて消えていくんだ」

「多分それ、警告だと思います」


 伸ばしていた手を下ろし、私の方に顔を向けて。まっすぐに見つめるその瞳は強い光を宿していた。何かを決意したような、そんな眼をしていた。


「でも大丈夫です。何があっても、私が先生をお護りしますから」


 私が貴方と一緒に居ますから。ずっと一緒ですから。決して独りにはさせませんから。

 だから、何も怖れないで下さい。三春を嫌いにならないで下さい。


 彼女は優しく微笑んでいた。全ての不安と怖れを払拭してくれるような、優しくも力強い笑顔だった。


「約束、ですよっ」

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