第6話 「雲」という言葉
カイトの言いたいことはよくわかった。言われるまで気づかなかったが、きっとカイトは正しい、ということぐらいイコライにもわかる。
……けど、そうは言っても、物事にはタイミングってもんがあるよな、とイコライは思う。
いきなり好きだなんて言っても、ソラからは怪しまれるだけだ。
だから、ここはしばらく機会をうかがおう……とイコライは思った。
そして、更衣室での会話から一時間後。イコライはジェット戦闘機のコクピットの中にいて、空を飛んでいた。と言っても、戦闘出撃ではない。赴任先の空中都市から、イコライの故郷、サン・ヘルマン島に戻るだけの飛行、つまり、単なる移動だ。ちなみにカイトは「お前の実家のあの島かあ。マジ懐かしいわ。常夏だからバカンスにはもってこいだしな。よし、俺も行く」などと言って、ついてきた。
戦闘機のコクピットは狭いが、大きな透明のキャノピーに囲まれていて、視界は広い。周囲を見渡すと、腹部のあたりから上は全て空だ。天気は快晴で、霧一つない。青い天球と白い雲海が、水平線で結ばれている。絶景と言っていい。しかし、イコライたちにとっては見飽きた光景だった。離陸して三十分も経つと、退屈になってくる。そして世の中には、退屈に耐えられないタイプの男というのがいる。パイロットのくせに。
「なあ、ソラちゃん、旧世界史って興味あるかい?」
「始まったか」
「旧世界史ですか?」
イコライ機の後部座席に乗っているソラが、身をよじって、左を飛ぶカイトの方を見る。イコライも視線を向けると、翼端が触れそうなほど近くを飛んでいるカイト機が見えた。フライトスーツ姿の人影が、キャノピーの中から手を振るのが見えた。カイトだ。
移動の時、ソラは一般の旅客機を使うこともあったが、こうしてイコライの後ろに乗ることの方が多かった。そのために、イコライは「放出品で、こっちの方が一人乗りより安いから」などと言い訳しつつ、二人乗りの戦闘機をローンで買った。それを話した時のカイトの顔を、イコライは忘れない。カイトは、何か言いたそうに口を開き、しばし固まった後で「そうか。すごいな」と言って笑った。良い友達を持ったってことかな、とイコライは思った。
が、そんな親友にも欠点がないわけではない。たとえば、事あるごとに、周囲の人間に旧世界の話をすることとかだ。カイトの旧世界史好きっぷりは、親友から見ても目に余った。
「そう言えば、ソラちゃんには言ったことなかったと思ってさ。どう?」
「うーん、話にもよりますね。たとえば、どんな話ですか?」
「言ってやれよ、ソラ」
無線で話す二人に、イコライが割って入った。
「私、記憶力がいいんで、全部覚えてます、って」
「ちょっとイコライさん! そういうのはマナー違反だっていつも言ってるじゃないですか!」
「え、あ……ごめん」
「それに、いくら私がロボットだからって、何もかも知ってるわけじゃありません! 旧世界史だって、よく知りません!」
「わ、わかったよ。だからごめんって……」
ケンカ中のせいか、いつもより当たりがキツいな……と思っていると、カイトが乗っかってきた。
「そうだぞイコライ。お前は黙って前を見て運転してろ」
「運転手じゃねーよ!」
イコライが言い返すと、二人分の笑い声が無線に乗った。イコライは憮然として前を向く。計器異常なし、レーダー異常なし、視界異常なし……別にカイトの言うとおりにしたわけじゃない。戦闘機パイロットなら、誰だってやることだ。
「そうだな、たとえばこういうのはどうかな」
カイトが話し始める。
「旧世界には雲海がなかった……っていうのは知ってるよな」
「はい」
「言い伝えによると、旧世界では、いま俺たちの下に広がっている白い雲海が存在していなかった。雲の代わりに膨大な量の塩水があって、その大きな水たまりのことを人々は『海』と呼んでいたんだ。じゃあ、ここで問題。雲海がないなら、旧世界の人は、雲っていう言葉をどう使っていたと思う?」
「え? そもそも、雲っていう言葉が存在したんですか?」
「存在したんだな、これが。旧世界の人はどうも、上空に浮かぶ『霧』のことを『雲』って呼んでいたらしい。というよりも、旧世界人が『雲』と呼んでいたものを、俺たちが『霧』って呼んでいる、って言った方が正確かな」
「それじゃあ……昔の人は、雲の中に入っても死ななかったんですか」
雲海に落ちたら死ぬ。
それは、この世界の常識だ。
雲の下に一体何があるのか、いや、そもそも雲が一体何なのか、世界中の科学者が研究しているが、未だ解明には至っていない。
しかし、雲の下に何があるにせよ「落ちたら帰ってこれない」ということは、死ぬのと同じことだ。
……正確には、数百年に一度、雲海に落ちた後で生還する人間が現れるが、それは、本当にごく少数の例外に過ぎない。
毎年何万人もの人が、一度雲海に落ちたきり、二度と帰ってこない。それが現実だ。
数少ない「帰ってきた人間たち」も、雲の下に何があるのかは、ほとんど語らなかった。
だから、雲海は今日も、人々のすぐそばにありながら、謎に包まれたままだった。
「そうだな。当時の言葉で言う雲は霧、つまり水蒸気だったわけだから、死にはしなかった。ずぶ濡れにはなっただろうけどね」
「……二人とも、少し黙ってくれ」
「なんだイコライ。恋人を束縛するのはな、最近はデートDVと言って、」
「レーダーを見ろ、バカ野郎」
「ん、こっちのレーダーには何も……いま映った」
距離は約五〇マイル。高速。おそらく、戦闘機。方位はほぼ正面。
こっちへ近づいてくる。
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