第3話 白い雲の海

 だが、そんなことはまだ誰も知らない。この時のイコライは、ただの酔っ払った戦闘機パイロットに過ぎなかった。


 それでも、席を立つ時のイコライの足取りはしっかりしていた。カイトはそれを見て感心する。さすが我が社のエースパイロット。痛飲する時も程度をわきまえている、などと、カイトは大げさに評論した。たぶん、カイトも酔っていた。


 イコライは、そんなんじゃない、と言い返そうとしたが、やっぱりやめて、勝手に言わせておくことにした。自分が泥酔を避けるのが、帰りを待ってくれている相手のことを考えているからだと知れば、カイトはまた面白がるに決まっていた。それは、イコライにとっては面白くない。


 帰りの電車の中で、イコライは空いた席に座らず、立って窓の外を見た。

 そこには、何もない暗闇だけがあった。だがもし昼間なら、都市の外周を走るこの鉄道からは、どこまでも広がる白い雲の海を見渡せたことだろう。雲海の上空に浮かぶ空中都市。それが、イコライの今いる場所だった。


 かつて、海と言えば雲の海ではなく大量の塩水のことだった……などという神話がある。旧世界神話。世界各地に言い伝えられてきた伝承をまとめたとされるそれは、一部でけっこう人気のある神話……というより、物語だった。神話は事実だと主張する人間もいて、そうした人間は、これは神話ではなく歴史、つまり旧世界史だと言い張る。


 確かに、現在の文明が興る以前にこの惑星に高度な文明が存在したことは、考古学者によって立証されている。また、旧世界神話にある一部の記述も、おそらく事実なのではないかと考える歴史家は多い。だが、それにしたって、旧世界神話の全てが事実ではないだろう、と考えられている。

 たとえば、雲海に関する旧世界神話の記述なんかが、まさにそうだ。


 旧世界には、雲海がなかった。

 代わりに、塩水の海があった。


 ……まったく、昔の人間の想像力には脱帽するしかないな、とイコライは思う。

 世界中の全ての陸地を取り囲み、惑星の七割を覆う白い雲海は、イコライが生まれる前、何千年も昔から、ずっと存在し続けてきた。きっと、これからも存在し続けるだろう。


 ……だが、いまのイコライは、その神話をバカにする気になれなかった。なぜなら、空中都市が互いに争い、毎日のように人が死に続けているのは、他ならぬその白い雲海のせいだったからだ。


 雲海は金になる。だからその支配権を巡って、空中都市はたびたび戦争をする。世界には雲海の上に浮かぶ都市国家が数百もあって、領空を巡る戦争が絶えることはない。もしも雲海が存在しなければ、戦争は起こらないだろう。その証拠に、陸地国家のほとんどは、平和そのものだった。


 だが、現実に雲海は存在する。

 だから、傭兵という仕事も存在する。


 イコライの仕事は、戦争に勝ちそうな都市国家と契約して、戦って勝つことだった。

 そんな戦争に大義なんかない。かつて、イコライの曾祖父の世代が、一方が自由を勝ち取るために、もう一方が伝統を守るために戦争をした時代とは違う。イコライたちの戦争に、大義はない。


 かといって、イコライは別に、大義のために戦いたいわけではなかった。

 ただ、金のためだけに戦うことに、どこか漠然とした、満たされない気持ちを抱いていた。


 ……いつか、何かを変えたい。


 その思いが、ずっと心の底で渦巻いている。

 けれど、自分なんかに何ができるだろう、とも思う。

 もし、何も変えられないのだとしたら……自分は、何のために戦えばいいのだろう。


 不意に「家族」という言葉が脳裏をよぎった。

 なるほど。わかりやすい。いかにも「イマドキ」の大義だ。

 だが、自分にそれが当てはまるだろうか、とイコライは思う。

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