終わる世界の木にも果実は実る
白檀
本文
――一篇の詩を書く度に終わる世界の木にも、果実は実る。
そう言った詩人は、誰であったろうか。
君はその名を、知っていただろうか。
長らく、僕は自分を聡明であると思っていた。或いは少なくとも、賢明であると。
情動や衝動に流される同年代の友人を、共に笑い転げる仮面の下で、密やかに軽侮していた。
友情や愛情にうつつを抜かす級友を、夕日の差し込む教室の外で、冷ややかに嘲笑していた。
僕にとって、人間であることは理性に基づく人格の陶冶を意味しており、感情はその埒外に在ったからだ。人間が動物と区別されるその決定的な要因は、理性に基づく判断能力の有無だと思っていた。愛情とは、本能的な性欲をオブラートに包んだものに過ぎないし、友情とは、僕たちが二足歩行を始めた頃の群れ意識の延長に過ぎない。
勿論、感情は艶やかな言葉を紡ぎ、美しい音色を織り、華やかな絵を描く。僕はあの頃、そうした人文芸術の愛好家を必死で気取っていたから、それは十分に分かっているつもりだった。
そうだね、分かっているつもりだった。
いつでも僕は、炭に塗れた内面を必死で取り繕って、賢人ぶった微笑みを糊塗していた。
君は、そのことを知らなかったかもしれないけれど。
いや、知っていただろうね。僕も、君が知っていることを知っていた。
でもきっと君は、僕が何処まで君に歪んでいったかを、理解していないのだと思う。
いや、話を戻そう。申し訳ない。君の前では、外面を取り繕うのが追い付かないんだ。
ん。そうだね、今のはわざとだよ。わざと弱みを見せた。誘ったよ。悪いか。好きな相手に、どうしてでもこちらを見て欲しいと思うことが、その何が、いけないというのかい……!
ほら、また、そうやって微笑う。それが僕を、本当に……
ああ、僕自身でも分かっていないんだ、何故君にここまで執着しているのか。
分からないことは怖い。恐怖は僕を混乱させる。させている。いつだって君が絡むと、感情のコントロールが効かなくなった。
僕が初めて、君を噛みたいと呟いた日のことを覚えているだろうか。
あの日は確か、日直で遅くなる君を待っていたのだと思う。違ったら済まない。本当に、細部の記憶がないんだ。
とにかく、あの日は随分と陽が落ちるのが早くて、赤く照らされる教室の中から、君のクラスを眺めていたことを覚えている。何を読んでいたか覚えていないのは、君を待つ為の読書であったからだ。君は、教室の中に級友と共に帰って来て、帰る準備を整え始めた。随分と気さくな友だったね、君は人当たりが良いからだろうか。
彼が君に話しかけたり、じゃれ合ったりする光景を見ながら、僕は動揺が収まらなかった。即座に、乱雑に本を閉じて、支度の出来ていた鞄に放り込んだ。級友への挨拶もそこそこに、教室をまろび出るように走っていた。衝動的に込み上げる、身を灼くような嫉妬の感情と、それに対する自己嫌悪が、僕を支配していた。とにかくただ、息が止まりそうな程苦しかったことを覚えている。
不遜にもあの時、僕は、君は僕の物だと、そう叫びたかったのだ。人が誰かの所有物であることなどあってはならないと常々理解していたのに、僕は、君を独占してしまいたいと願っていた。分かっている。意思は、一人の人間の存在の根幹だ。他者の意思を隷下におくなど、僕の目指そうとする人間像の対極にある筈だった。だからこそ、あの時の衝動を解消せずにはいられなかった。名付け、馴致し、合理化せずにはいられなかった。君と言葉を交わして、いつもの平静な僕で居られるということを、証明せずにはいられなかった。
鉛のような感情を胃の底に飲み下しながら教室に辿り着いた僕は、君を連れ出すことで精一杯だった。少なくとも、余人の目の届かない所へ行きたかった。君の手を引くだけで、平静さなど何処かへ霧散してしまっていることを自覚していたからだ。君の表情は覚えていない。ようやく靴箱に降りて顔を見た瞬間に、再び狂おしい程の妬心が僕を襲った。君が誰かとふざけ合っていたことが、言葉を交わしていたことが、時間を共有していたことが、たまらなく許せなかった。僕の方を向かせなければならないと、特別な何かが欲しいと強く感じたけれど、何を言えば良いか分からなかった。縋るように、欲求を呟くことで精一杯だった。
それからいつしか、君は、すっかりぐちゃぐちゃになった僕を見て、いつも困ったように笑うようになっていた。僕もそれに、倒錯的な安心感を抱いていた。君に狂うことが、確かに心地よかったと告白しよう。
僕も人間だ。暗闇で常に点される灯りがあれば、そちらに向かって歩きたくなる。いつの間にか慣れ、やがて、灯りがなければ歩けなくなる。嘗ては暗闇も一人で歩けた筈なのに、もう、それは僕にはできなくなった。
ああ違う、君を責めたいわけではないんだ。
そうではなく、僕にとって君が如何な存在であるかを説明したかったんだ。
如何に大きな存在であったか、そして、この期に及んでも、如何に大きな存在であるかを。
これが君に届くことはないだろうが、知ったとしてもきっと、君はまた困ったように笑うのだろう。君はずっとずっとそうやって、物分かりの良い人間であったから。いや、物分かりの良い人間として、僕を支えようとし続けてくれたから。
君は常に、僕よりもずっと聡明であった。
けれど、君が僕のことを分かっていたように、僕も君のことを少しは分かっていたと、そう思って欲しかった。泣いて欲しかった。縋って欲しかった。いや、それを阻んでいたのは、僕が君に甘えていたからだ。分かっている。
そろそろ筆を置こう、時間が来る。
だけれど、ああ。僕にとって、君は本当に大きな存在なのだ。
自分の中に生まれた許すべからざる感情を、醜い失態を、それ故に至ったこの末路を、君と出会ったという一事で、すべて許容してしまう程には。
君によって大きく変わった自分に後悔はないし、それらを忘れることもないだろう。
君が蒔いた種は大きく育ち、僕の世界に在って果実を実らせ続ける。
伴輝。僕は君のことを、これからもずっと愛している。
終わる世界の木にも果実は実る 白檀 @luculentus
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