蝉時雨が降ってきたので

みなぎ

蝉時雨が降ってきたので

 ――僕は夏が苦手だ。

 気温が高くてとか、日射しが強くてとかいう話ではない。いや、暑いのも眩しいのも好きではないが。

 なんというか、そこいら中が生気に満ち溢れている感じがどうにも苦手なのだ。植物も動物も、もちろん人だって、この季節はヤル気と活力に溢れている……気がする。

 そういう精力的な感じと言えば聞こえのいい暑苦しさとか、子供達の長期休暇に因ってもたらされる騒々しさだとかが、当たり前のように容認される雰囲気が、とても苦手だ。受け入れられないとまでは言わないが、胸の辺りがざわついて仕方がない感じになる。

 子供の頃は、もっと純粋に夏を謳歌していた気がするのに、どうしてこうなってしまったのだろう……。湿度まみれの梅雨よりもはるかに憂鬱だ。


 きっと、雨でも降ったら気が晴れるだろうにと思う。気温は少しばかり下がるだろうし、子供達は家へと帰るだろう。だけど、日本の夏は湿度は高くとも、中々雨は降らない。夕立は条件の揃った、稀な現象なのだと思い知らされる。

 もちろん涼を得るだけなら、団扇や扇子で扇いだっていいし、扇風機だってエアコンだってある。だけど、求めているのは汗を退かせるための手段ではない。

 僕が欲しいのは、心を静めるための手段だ。


 裏庭の先は、昼間でも薄暗い鬱蒼とした雑木林だ。この時期には、羨ましいほど涼しげに見えるが、いかんせん夏の代表選手である蝉が、これでもかというほどいる。あの騒々しさでは、暑さも増すというものだろう。

 何種類いるのかわからないが、蝉だと思われる鳴き声はひっきりなしに聞こえている。少しは静かにしてくれよと虫に怒鳴り付けたくなるなんて、暑さと騒々しさで脳みそまで沸騰してしまったらしい。


 雨が降らないものだろうかと空を見上げてみれば、清々しいほどの快晴で積乱雲どころか雲の欠片も見つけられなかった。

 雨が駄目なら打ち水でもしようかと思ったが、効果が有ることは証明されていても今はまだ真っ昼間で日射しが強く、やっても涼しくなるのはほんの僅かな間だけで、夕方までにはもう一度くらいは水を撒かねばならないだろう。田舎の古くて大きなこの家の周りに撒くとなると結構な量の水が必要だ。今日だけのことだとしても、なんとなく水道代を心配してしまう。なにせ夏なのだ、水は大量に使う。

 舗装されている道が少ないから、日が落ちれば熱がこもらず涼しくなるのだが、いかんせん日没はまだ遠い。

 どうにも上手くいかないことばかりで、知らず知らずの内にため息がこぼれてしまう。

 そもそも涼が欲しいのではない。いらないとは言わないが、僕が必要としているのは夏という騒々しさから逃れる手段だ。

 ……思考が堂々巡りしてしまうのは暑さのせいだろうか?


 特別涼しいわけではないが、裏庭に面した部屋で掃き出し窓を開け放つ。カーテンをほんのわずか揺らすだけの風しかないことに、小さなため息を吐く。

 眠たくはないのだが、日射しを避けて床に転がり目を閉じる。柔らかくはない板の間だが、僅かにひんやりとした接触に心が安らぐ。すぐに体温と馴染み温くなってしまうのが本当に残念でならない。

 動くのが面倒になり、体温と同じ温度になった床としばし仲良くする。

 心を静めるには考えないのが一番だ。

 ……思考は外から内に向き、徐々に外界を遮断していく。

 あんなに騒がしかった蝉が一瞬静まり返り、世界は静寂に包まれた。思考を手放した僕は、空っぽの器として床に転がっている。


 ――水の代わりに、音が降ってきた。


 洪水のような音の奔流に、意識が押し流されていく。涼しさなんて微塵も感じないはずなのに、音の洪水の中は思いの外心地よい。周囲の熱気も僕の捩くれた思考も、全てを流してくれる。

 つかの間僕は静寂となり、煩わしい全ての事柄から解放された。


 ……幾らかの空白の後、僕の意識は帰って来た。

 近くでは五月蝿いほどの蝉の声、遠くでは賑やかな子供の声が聞こえる。

 ああ、夏だなと思う。


 青い空に浮かぶ真っ白な入道雲、泳いだ後の気怠い時間、温くなった麦茶、甘い西瓜の香り、そして騒々しい蝉時雨。


 ――蝉の声はいつかの夏を連れてくる。

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蝉時雨が降ってきたので みなぎ @minagi04

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