第一章 ふしぎな紅ガール

1.ふしぎな紅ガール


 2021年 8月 10日さいごのきょう

 夏期講習で塾じごくに向かう途中にある横断歩道で、俺は不思議な体験をした。

 ビル群、住宅街と河瀬宮町駅を繋ぐ一本の横断歩道。よく信号待ちの人だかりができるこの横断歩道には、今日も多くの人が赤信号が変わるのを、今か今かと待ちわびていた。


(汗って最強のお節介焼きだよな。何もしてないのにそっちの方から出向いてくるんだから。あぁ最悪だ)

 俺はこみ上げる汗の感覚に嫌気を感じつつ、まばらな人だかりの前列の方に陣取る。すると、あるに気が付いた。


『本日の最高気温は41℃――、記録的な猛暑日として――』

 今朝、BGM替わりに流していたニュースで、某魔法ファンタジー映画の○フォイに似ている有名アナウンサーのフォイパンがそう言っていたのを思い出す。

『おいポッター! 今日は暑いから熱中症には気を付けろよ! べ、別にお前のために言ってるんじゃないんだからね! プォイ!』



 そう、記録的な猛暑日だ。なのに、道路を挟んだ反対側にを着こんだ人のようなものが立っていたのだ。


 高級そうな材質で固く加工された膝丈まである黒いロングコート、金の留め具と銀の装飾品が陽光に反射してきらきらと輝いている。深々と被った大きなフードは日差しを遮り、その陰に隠れた相貌をうかがうことは叶わない。

 しかしそのフードからは何か紅い、髪のようなものが垂れていた。背丈は周囲の人々と比べると高くはなく小柄、155cmから160cmの間ほどだろうか。


(ま、真夏にロングコート……ねぇ。はッ! もしかしてまさか!? 下に競泳水着を着ています的な禁断のアレか!! ……。いやどう考えても競泳水着を着ててもロングコートはねぇし、そもそも競泳水着でこんな街中出歩くヤツいるかよ。そうさ、あれは、蜃気楼)


 じんわりと汗ばんだ指で両目を擦り、視界をリセットして再度そちらに目を向けてみたけれど、蜃気楼は未だ確かにその場に存在し続けていた。


「ねぇねぇ、見てあれ! やばくない?」


 あやしい存在に胸をざわつかせていた俺の耳に少女の黄色い声が突き刺さる。

「わ、確かにやばい」

「ちょーんですけど!」


 ……ウン?

 二人組が関心を寄せていたのは黒いロングコート……では無く。そこから少し離れた所にいる長身の男性だった。確かに悔しいくらいのイケメンで、少女達が関心を寄せるのも無理はない。


 でも、そっちじゃないだろ。今は。

 俺のなかで抱いていたあやしさが増幅し、緊張で顔が引き締まる。

 辺りの様子を窺うと、この場の誰もがあのロングコート姿の何かに一ミリの興味も示していないように見えた。

 触らぬ神に祟りなし、なんてことわざがあるけれども。俺にはこれがそういった類の、という風には到底思えなかった。


(まさか、幽霊……?)

 昨晩、怪談系の動画をみたせいだろうか。考えれば考えるほど嫌な方向に思考が固定化されていく。そんな俺を現実に引き戻すかのように、信号機から横断可能の合図を告げるBGMが流れた。

 呆気にとられている内に信号が青に変わっていたようだ。周囲の人々はそれに反応してゾロゾロと歩き始める中、俺はどうしても周りの反応が気になって立ち止まり、人々の様子を伺うことにした。

 きっと素人目におかしく見えるだけだと、言い聞かせて。


 しかし。


 女子高生も、社会人も。誰も、誰も、誰も。

 直ぐ横を通り過ぎて行った小さな子供でさえ、見向きもしていない。

 逆に、青信号だというのに立ち止まっている自分に注目が集まっていく。それが余計にこの状況の異常さを際立たせた。


 俺が意を決して歩き出した頃、黒コートとの距離は身近にまで縮まっていた。

 暑さとは違う、身体の強張りで生じた嫌な汗が首元を伝っていく。恐る恐る、遠くからはフードで隠されて見えなかった容貌を、目の端でちらりと覗く。


 その時、心音が高鳴るのを感じた。


 ふわり、と香る。花の匂い。

 黒いフードから垂れていた赤いものは髪の毛だったようだ。とても美しい、燃えるような紅い髪。それを際立たせる透き通るような白い肌。

 歪みのない彫刻のようで、しかし主張の激しくないバランスの取れた美しい鼻筋。適度にふっくらした潤いのある小さな唇。宝石のようなコバルトブルーの大きな瞳がフードの端からちらりと覗く。


 黒コートに隠されていたのは妖精のような神秘的な雰囲気を纏った少女だった。


 美しい物しょうじょを見て、心が洗われるかのように。それまで感じていた違和感と不気味さは綺麗さっぱり消え失せて。たった一つの感動が心を占めていた。

 そんな少女とばちり、と目が合う。俺は慌てて目線を逸らし何事も無かったかのように横断歩道を渡ろうとしたら。ほどよく赤く色づいた硝子細工のような、艶をもった彼女の唇が動き、喉を鳴らした。


「……へっ?」


 周囲の騒音の中でもそれはハッキリと聞き取れた。心地の良い、可愛らしい声。

 しかしだからこそ、繰り出された罵倒に狼狽えてしまった。紅髪の少女は何処かスッキリした面持ちで、たぶん豆鉄砲くらったハトみたいな表情をしているであろう俺の横を通り過ぎて行く。


 間抜けな顔。確かに、口半開きで目を丸くして。とても人様に見せられるような顔はしていなかったけど……なんてちょっと考え込んでいる場合じゃない。

 突然喧嘩売ってきたあいつに一言、言い返してやらなければ……!


「ちょっと、今なん――ってありゃ」


 しかしそこに居たのは暑さにやられ気怠そうな表情を浮かべるサラリーマンのおじさん。突然振り返られて目を丸くするおじさんに小さく頭を下げて、辺りを確認する。横断歩道、付近の道。ビルの出入り口。探しても、あの目立つ黒コートは見当たらない。


「……oh」


 果たしてあの子は寒がりさんなのか、幽霊なのか。はたまた妖精の類なのか。生じた疑問と心のもやは晴れぬまま。けれどそれで良かったのかもしれない。それを表すかのような安堵とも落胆ともとれる溜息が勝手に俺からこぼれていく。


 急かすように青信号が点滅を始める。俺は頭の真ん中に残る疑問を無理矢理に端へ寄せて、いそいそと横断歩道を渡りきり、塾へと歩みを進めた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る