エピローグ 鳥居大和は、最愛の少女を想って生きる
現実に戻ってきた。
目を覚ました大和は、しばらく天井を見つめて、そのことを理解した。
嗅ぎ慣れたカビ臭い香りが、ひどく憂鬱な気分を呼び起こす。
「…………」
ゆっくりと体を起こすと、重くて怠い。
今はもう若返っていた頃の体ではない。仕事ばかりで健康に気を使っていなかったことを、今になってようやく後悔した。
「う……頭、痛い」
頭を抑えると、頭痛がする。
ここ数年はパソコンやスマートフォンを見っぱなしで、偏頭痛が起きるようになっていた。慣れていたのに、その痛みが気になってしまう。
「はぁ……」
いったい自分は、どれほど夢の中にいたのだろう。
周囲を見渡すが、自分でも呆れかえるほどに色気のない部屋だ。
締め切ったカーテンの向こうから、かすかに太陽の明かりがこぼれているが、中にまでは入ってこない。
この様子では、今はきっと昼あたりか。
確かめるために、ちゃぶ台に置きっぱなしになったスマートフォンに手を伸ばして、電源を入れる。
そして、重い息を吐いた。
「そりゃ連絡してくるよな……」
最後の記憶が定かなら、今は"アルプロ"のアップデートを待っていた日の、翌日だ。
今日は休日でも、まして祝日でもない。
案の定、上司や同僚の名前が入った不在着信の履歴が大量に残されていた。
「……うん。すぐにやろう」
しかし普段とは違う。
大和の表情に憂いの色はなかった。
深呼吸のあと、意を決してロックを解除して、まず上司に電話をかける。
三コールもしないうちに通話はつながった。
電話口の向こう側から、早々に激怒の声が聞こえて、嫌な気持ちが湧き上がってくる。
「っ……! はい、すみません。はい……用意ができたら会社に向かいますので」
しかし大和は冷静に謝って、謝り倒して、逃げるように通話を切った。
静寂の部屋が戻ってきて、息をつく。
「はぁ……とりあえず、何とかなったか」
半ば無理やり通話を切ったので、会社に行ったあとでさらに怒鳴られるだろう。
だが、不思議だった。
普段なら一日は尾を引くのに、今日に限って憂鬱な気持ちはそれほど続かない。
むしろ、無くしていた反抗心がみなぎってくる。
「やるか……!」
大和は言葉とは裏腹に、会社に向かう準備をしなかった。
着込まなければならないスーツや通勤鞄を放置して、ちゃぶ台に向かい合った。
パソコンを操作したあと、脇からコピー用紙を一枚取り出した。
画面のテンプレートに沿ってボールペンで文字を書き込んでいく。何を差し置いてでも、今の大和は、それを書く必要があった。
(やっぱり、夢だったのかな)
途中で、紙に文字を走らせるのをやめた。
スマートフォンに視線を向ける。
そっとアプリ一覧画面を呼び出した。
何度となく起動したスマホゲーム『アルカディア・プロジェクト』のアプリも、いつものように存在していた。
それに指先を伸ばした。
しかし触れる直前に、躊躇った。
「っ……」
上司の罵声にもさざ波一つ立たなかった心が、大きく揺らいだ。
真実を確かめることを恐れていた。
しかし、一度膨らんでしまった想いは止められない。
タップした。
「…………」
起動したアプリが大和に見せたのは、真っ白な画面だ。
あの時と同じだ。
だが、どんなに待ち続けても、そこからずっと変わることはない。
数分経ってから、ようやく大和は認めた。
「はは……そうだよな。やっぱり、あんなの夢か」
一気に気力が抜けていく。
どう見てもバグが起きただけの画面で、"あの世界"に行ける気配はない。
何も起きないのが当たり前なはずだ。
しかし今は、それがどうしようもなく悲しくて、寂しかった。
(どうかしてるな、俺)
心の中に穴が開いたみたいになった。
今にも、泣き出してしまいそうだ。
あの冒険が夢だなんて、認めたくない。
だが、このアプリをもう一度立ち上げれば、あの世界に行けるかもしれないという、淡い期待は砕けてしまった。
あの日々の記憶も、時間が経つごとにあいまいになってしまうような気がする。
それでも画面は、白く染まったまま変わらない。
(きっと、向こうの世界でもうまくやってるんだ。俺だって頑張らないと)
袖で涙をぬぐった。
今はやるべきことを果たさなければいけない。
大和は未練たらしくアプリを起動したまま側に置いて、再びペンを手にとった。
最後に、封筒に『退職届』の文字を書き込んだ時、また着信が鳴った。
「……またか」
かけてきた相手を見ると、非通知だった。
誰なのかは、おおかた予想はつく。
仕事を丸投げしたい後輩だろう。
いつものことだが、電話番号を聞いてまでかけてくるなんて、自分がいなくてよほど困っているのだろうか。
「ついてないな」
なぜ自分は、こんな理不尽な職場にずっと居続けてきたのだろう。
だが、こういうところで話を聞いてしまうのが、自分の悪いところだ。かけてきた以上は無下にできない。
憂鬱な気持ちになりながら電話をとった。
「はい、もしも――」
『あ、ああっ。つ、つながった……っ!?』
通話の向こうから聞こえた甲高い声。
呼吸が止まって、スマートフォンを取り落としそうになった。
「あ、えっ、うぁっ」
慌てて、持ち直した。
聞き間違いではないか。両手で握り直したマイクに、驚くほど慎重に声を吹き込んだ。
「は、はい。鳥居です」
唾を飲んでから名乗った。
動悸がおさまらない。緊張しすぎて、汗が滑り落ちていく。
電話口の向こう側の相手が誰なのかは分かったのに、信じられていなかった。
『っ……これ。大和さんの電話で、合っているんですか……?』
「ああ。間違いなく、俺の電話だよ」
間違いない。
この声を聞き間違えるはずがない。
気づかないうちに、頬に涙が流れていた。
それきり何も聞こえなくなった。
通話が切れたわけではない。
息遣いが、かすかに聞こえてくる。
「…………」
『…………』
話したいことは山ほどあるはずなのに、言葉が出てこなかった。
先に口を開いたのは、大和のほうだった。
「すみちゃん」
『はいっ……大和さん』
聞こえてくる声は、はっきりと大和の名を呼んでいた。
二度と会えないことを、覚悟していた。
思わず自分の体を抱き留める。誰よりも大切な人の息遣いが、愛おしい。
「約束通り。この世界で、ちゃんと生きてみせる」
「…………っ」
息を飲む音が聞こえた。
すでに決意は固まっている。
机の上に置いてある書類がその証だ。
向こう側にあるはずの相手の姿を想像して、涙を払って、前を向いた。
「俺もすみちゃんみたいに、強くなってみせるから」
『はい……はい、っ……』
相手も同じように、泣いているみたいだった。
鳥居大和の人生は、最悪の繰り返しだった。
幸福はない。
大勢に哀れんでもらえるような、極端な不幸もない。ありふれた不幸だけを、誰かに押し付けられる。
誰からも愛されずに死んでいく。
それがわかっていたから、生きていても、いいことなんて起きないと思っていた。
だが、ようやく自分にも起きてくれた。
焦がれていた希望があった。
これが必死に生き続けてきた意味なんだと、そう強く思った。
「絶対にまた会いに行く。約束する」
それを成し遂げるためなら、他の全てを投げ出したっていいと思った。
彼女がくれたものが、鳥居大和という存在を生まれ変わらせた。
「必ずまた一緒に過ごそう」
『純連は、ずっと、大和さんを待っています』
向こう側にいる魔法少女は、嬉しそうな声で答えてくれた。
スマートフォンを片手にしたまま、大和は、分厚い遮光カーテンを開けた。
眩い光が、かび臭い部屋の中に差し込んでくる。大和の住む世界には、一点の曇りもない青空が広がっていた。
そのことを伝えると、向こうから愛おしくて騒がしい声が聞こえた。
純連が張り切って、向こうの世界の様子を伝えてくれていて、ひたすらに耳を傾けた。
今なら、何だってできそうな気がする。
太陽の光が、沼の底に沈んでいた大和を、ようやく照らしてくれた。
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