第56話 八咫純連と鳥居大和 中編
飛沫を散らして、一人の魔法少女が魔物の内側に侵入する。
泥の世界に突入した途端に、身体中が、耐えがたい苦痛に蝕まれた。
(っ、う、ぁっ、これっ、胸がっ……)
吸い込んだ息を、まるごと吐き出してしまいそうになる。だがそうなれば、何もかもが台無しだ。
気力を総動員して必死に口を抑える。
(っ〜〜〜!)
瞳の奥から、じわりと涙が滲むが、なんとか衝動をこらえた。
スライムのように、肉体を溶かされるような痛覚ではない。これはもっと別な精神的な苦痛だ。
例えるなら、大きな失敗を確信ときに背筋を這い上ってくる、ぞわぞわした嫌な感覚。それが理由もないのに、延々と続くような感じ。
魔法を貫通してくるぶん、激痛よりも性質が悪かった。
心が挫けてしまいそうになる、
何もかもを投げ出したくなるような虚脱感が、体から力が抜けていった。
(純連は、このまま、沈んでしまうのでしょうか……?)
頭の中に、失敗した自分自身の姿が思い浮かんだ。
泥に沈んでいく純連はもう、落ちていくことしかできない。このまま見つからなければ、窒息してしまう。
(――違います!)
だが、自分を奮い立たせて、躍起になって否定した。
失敗すれば自分が死ぬだけでなく、もっと大勢の人が死んでしまうかもしれない。大切な人がいなくなってしまうかもしれない。
このまま失敗するほうが、純連にとっては耐えがたいことだ。
(たとえ純連がどうなっても! ぜったいに、諦めません……!!)
この苦痛は、他の魔法少女では耐えられなかっただろう。だが、純連がこの気持ちを味わうのはもう何度目か。両親を失ったときに比べれば、なんてことはない。
ここで折れたら、今後一生後悔することを知っている。だから、腕をのばして泥をかきわけ、奥へ、奥へと進んだ。
(あき、らめ……ませ、ん)
肺の新鮮な空気はどんどん消えて、頭がクラクラと揺らぎはじめた。
気力だけで、いつまでも意識が保つことはできない。
防御魔法で覆っているおかげで、視界は残っている。しかしどこも黒に包まれており、一寸先も見通すことができない。
伸ばした腕で泥を漁って、手探りで地道に、必死に探すしかないのに、限界はすぐそこに迫っていた。
魔法少女の涙が、汚泥と混ざりあう。
そのときだった。
指先が、何か硬い感触に触れた。
「ぁ……」
もう一度、確かめるように指先を触れさせると、何かがそこにあった。
落ちていく中で両手で掴むと、球状の壁のようだった。近づいて目を凝らす。
(見つけました……っ!)
内側に浮かぶ人の姿を捉えて、掠れた意識が一気に覚醒した。
透明な壁の向こう側。黒色のエネルギーに守られているような、狐の面をつけた男が浮かんでいた。
「ぁ、ぅっ……!」
呻きながら壁を叩いたが、向こう側に行けそうにない。
シリウスの攻撃で破れなかったシールドを、防御役の純連が破れるはずがない。ガラスのように透明なのに、鋼鉄のように頑丈だ。
しかし、まったく諦めていなかった。
(いま、たすけ、ます……!)
残った力を使って必死に魔法の壁を掴む。
そして最後の力を振り絞って、親友の力を宿した魔法を手に、壁に触れた。
(ことちゃんの力、あたらしい魔法、ですっ……『シールド・ブレイク』っ!)
それを行使した途端に、震源から泥全体を波打たせる、太鼓を打つような鈍い衝撃が伝わった。
泥の中心部から波紋が広がった。
そして、ガラスにヒビが入るような音が響く。透明な壁に裂け目が生まれていた。
シリウスから託された魔法は、次の攻撃で、相手にかけられた防御の魔法や、バフをまとめて撃ち壊す。
その効力を継いだ純連が、貫いたのだ。
だが、喜びの表情を見せたのも束の間。
(う、ばっ!?)
泥そのものが、濁流のように蠢いて、純連は耐えきれずに放り出される。
とっさに、喉を抑えるが、それでは足りなかった。
(いきが……つづか、な、っ……)
今の衝撃で巨人が暴れ出した。
純連からでは見えないが、荒い泥の動きは、間違いなく今の攻撃に反応したものだろう。
もう一度"壁"に触れようと手を伸ばすも、体が離れていく。ごぼっ、と。胸の中の息を全部、吐き出してしまっていた。
瞳から、光が消えていく。
「ぁ、……きづ、い、て……」
離れてしまった壁に向かって呼びかける。
しかし、水中でくぐもった音は、誰の耳にも届かない。
手も、指先も、もう届かない。
純連は、自分が死んでしまうと思った。
「■■、さ、ん」
泣きそうな声で呼びかけても、また、届かない音になるだけだった。
刹那の間、世界から音を消失させた。
それは、今までと変わらずに"現象"を引き起こしたのだ。
呼べない名前を遺した魔法少女は、腕を伸ばしたまま奥底に沈んでいく。
だが、しかし。
最後の最後で、周囲の泥の動きが止まったことを悟って、細目を開けた。
泥の動きが止まっている。
純連は奥底に沈むことなく静止している。
壁の向こう側にいる大和が、純連のほうに手を伸ばしていた。
指先が触れ合い、人肌の感触が伝わった。
しかし、意識を失った純連は、その先のことを何も覚えていなかった。
『ん、ぅ……? っ! うぅぅ……』
純連は、頭がガンガンと痛むのを感じて、思わず頭を抑えた。まるで重い風邪をひいた時のような酷い体調だ。
それでも、地面に直接横になっている不快感のほうが優って、ゆっくりと体を起こす。
それからあたりを確かめた。
「……なんですか、ここは」
目を丸くして、ぱちぱちと何度も瞬きする。
夢かと思ってコツンと頭を叩いたが、見える景色は変わらない。
どこも暗闇に包まれていて、足元もおぼつかない。
一度、似たような経験をしたことがある。
因縁の魔物と戦ったあとに、幻の中で両親と再会したときと同じだ。
いまは、ぽつんと一人の男性が座り込んでいた。
その人は延々と何かを口にすることに、集中しているみたいだった。
近づいて、聞いてみた。
ごめん、自分なんかが、出しゃばって――
誰にも届かない謝罪を繰り返している。
黒の狐面をつけた男性は、容姿や雰囲気はよく似ていた。だが、純連が探し求めている人とは、年齢や背丈がまったく違っている。
口にすることのできない名前を、口にした。
「■■、さん……ですか?」
間違いなく別人のはずだ。
それなのに、純連の知るその人だと、そう思えた。
その呼びかけに、男はかすかに反応して、言葉を止めた。
「やっぱり、あなたなんですよね!? 純連です!」
うるさいのではないかと思うくらい、純連は大声を張り上げて、呼び掛けた。
それなのに、どうしてか反応はかえってこない。
「顔をあげてください、■■さんっ……!!」
訴えても反応がない。
その時に、純連はふと気がついた。
仮面の淵から黒色の泥が、ポタポタと顎を伝って滴り落ちている。あの巨人を構成していた泥と同じものだ。
これのせいで、おかしくなってしまっているのだろうか。
「こんなものっ、外してしまいます……!」
乱暴だが、きっと許してくれるはずだ。
純連は、男がつけている仮面に、迷いなく手をかけた。
だが突然、純連の心の中に、ぞぞっと嫌な感情が這い上ってきた。
「ううぅっ!?」
思わず吐き気を催して、思わず手放して口を抑えるほどの感覚に、思わず口元を袖で覆った。
それから、茫然とつぶやいた。
「な、なんですか今のは……」
自分の手を見つめると、黒い液体が付着していた。
仮面も、顔面に張り付いたまま剥がれていない。カサブタを無理に剥がしたみたいに、滴り落ちる汚泥の量が増えていた。
巨人の汚泥に突っ込んだときと同じだ。
しかし仮面に触れた一瞬、それとは別の不思議な感覚もあった。
「今見えたものは、なんでしょう……?」
違和感の正体は、分からない。
しかしそれを考えるのは後でもいい。
明らかに害を与えている仮面を、まずは、取っ払わなければいけないのだ。
「……いきますよ」
唾を呑んで、一度だけ深呼吸。
触れれば苦しいのはわかっている。
しかし、自分がやらなければいけない。
血のように縁から溢れる泥に、指先が触れる。そして表情が歪んだ。
「ううぅっ……」
仮面の縁をしっかりと掴むと、また嫌悪感の波が襲ってきて、唇を結んだ。
ぐらりと、水の底で溺れたときのような、重たい頭痛が訪れる。息が苦しくなるほどに、喉が締まった。
仮面は、決して顔面を離れなかった。
顔に貼り付いているというよりも、壁を引っ張っているみたいな、重い手応えだ。純連の心は、どんどん泥に塗れていった。
魔法少女衣装の袖は、もうめちゃめちゃだ。
それでも諦めずに離さずにいると、ちか、と。頭の中に、知らない映像が見えた。
「えっ……」
必死だった純連は、目を開く。
時間にすると、ほんの一瞬だった。
いま見た光景が何だったのか。まるで最初に"魔法"を使えるようになったときのように、意味を理解していた。
「いま、のは……っ!」
ぞっとする嫌悪感の波は、それに紛れて、頭の中に知らない記憶を流し込んでくる。仮面が、幻覚を見せてくる。
「ぐぬぬぬぅっ……! はずれて、くだ、さいっ……!」
しかし、今はそのことについて考えている余裕はなかった。
目を固く瞑って、手だけは離さない。
「あわぁっ!?」
状況が変わったのは、突然のことだった。
留め具が外れたみたいに、仮面は、そこに張り付く力を失ったのだ。
思い切り引っ張っていた純連が、勢い余って後ろにすっころんだ。衝撃で、手放してしまった仮面がかつんと転がっていく。
一度は上を向いた足が、ばたんと地面に倒れた。
しかし、すぐに起き上がらなかった。
寝転がりながら、ぽかんと闇を見つめていた。
闇の中に転がった魔法の仮面は、黒色の光になって形を崩して消えていく。
だが、純連はそれを目撃していない。
動けなかったのだ。
自分の中に、今までと違う"何か"が宿っていた。
「…………」
ゆっくりと体を起き上がらせる。
仮面の外れた相手が、純連の前に膝座りで存在していた。しかし顔は伏せて、純連から見えないようにしている。
「大和さん……?」
まるで顔を隠しているみたいな人に向かって、純連は呼びかける。
成長した大人の体が、ぴくりと震えた。
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