第44話 八咫純連の追憶 後編


 内に眠る魔法少女の力を解放して、光を纏った。


 魔力が服を消失させる。

 蒼色の袴が足首までを覆った。

 伸ばした両腕を包むように、線の入った白衣が現れる。

 最後に、髪を縛る留め具が二つ出現する。


 ――これで、魔法少女の変身は完了だ。



「純連……?」


 何も知らない両親は、言葉を失って驚いていた。

 だが見ない。

 迫ってくる気配から、意識を逸らさない。

 襖は紙の部分が溶かされ、木枠がメキメキと音を立てて壊れていく。湿り気を帯びた紅色の塊が、我が物顔で部屋に侵入してくる。


 純連は、いつになく冷静だった。


「必ず守りますから、心配しないでください」


 部屋の天井まで届くほど巨大な粘液の塊は、あの時と同じように、大口をあけるように両親を取り込もうとした。

 二人は慌てて逃げようとした。

 だが腰が抜けているのか、間に合わない。


 とっくに守る用意はできていた。


「『ブロンズ・シールド』ッ!」

 

 接触する目と鼻の先で、青銅の壁が二人と魔物を阻んだ。

 へたりこんだままの両親に叫んだ。


「お母さん、お父さん、逃げてくださいっ!」


 その声を聞いて、やっと我にかえったらしい。

 先に立ち上がった父親は、急いで母親を助け起こす。その途中でようやく、純連の奇妙な服装について尋ねてくる。


「純連ちゃん、その格好は、一体……?」

「いいですから、早く、逃げてっ! この力で、純連が守りますからっ!」


 必死にそう訴えると、今は聞けないと思ったのか口を閉ざした。

 本当は自分の娘を守らなければならない。

 しかし今は理解不能な相手に、不思議な力で立ち向かっている。自分たちを守るためにそうしていることは、一目で分かる。


「純連っ、お母さんを逃して、必ず戻ってくる……!」

「戻ってこないでください! 純連も、あとから逃げますからっ!」


 純連は、苦しげな表情を浮かべているのを隠すために、顔を向けずに言い放った。


 魔法の壁は無限に維持できない。

 耐久力が削れれば魔力を失うし、一度に守れる量にも限度がある。

 全体重でのしかかり、酸性の液体で溶かそうとしてくる相手には、きっと一分ももたないだろう。

 一秒でも長く維持するため、必死だった。



 父親は、母親を支えつつ、外に向かっていく。

 それを見送ったあとは、ひたすらに目の前の敵にだけ、心を集中させる。


(あの時のようなことには、もう、させません)



 これは、後悔し続けてきた『あの日』の焼き直しだ。


 魔法少女の力を手にした時。

 どうにもならなかったはずなのに、“あの時”に両親を守れる魔法少女の力があればと、何度も後悔した。


 いま、その力を持っている。

 夢だって何だっていい。

 この覚悟は、命を賭けられるほどに固い。



 耐久力を失った壁が光になって消失する。そして粘液は再び動き出す。行く先は、純連を完全に無視して、肩を貸しあって逃げていく両親の方向だ。

 どうあっても、二人を殺しにいくつもりなのだろう。


「『ブロンズ・シールド』ッ!!」


 そうはさせない。

 青銅の壁が生まれると、スライムは正面から衝突して、ぐしゃりと変形した。

 それから鬱陶しそうに、再び強酸性の液体を分泌させる。すると今度は壁の耐久力が削れるのが、先ほどよりもずっと早く、純連は苦しんだ。


「この先に、あなたを行かせるわけにはいきません……!」


 自分を奮い立たせるように、吠えた。

 粘液でしかない相手には、言葉なんて理解できないだろう。

 決して倒せない相手を前に、足が震えている。だが視線だけは逸らさなかった。


「今度こそ、お母さんもお父さんもっ、もう、殺させません……!」


 絶望に耐え続けた純連の心は、この程度で折れたりしない。



 絶対に、負けてはいけないのだ。


 誰かを守る。

 そのための、魔法少女の力だ。


 一瞬でも気を緩めれば、信じてくれた人は、より深い傷を負う。命を落としてしまう。

 誰かを『守る』ということは、他人の命を背負うことだ。


 それがわかっているからこそ、純連は自分の命を賭けてでも、守り果たさなければいけないと思っている。

 倒さなくてもいい。

 両親さえ逃せば、自分の勝ちなのだ。


 


「きゃぁぁぁっ!?」


 そんな純連の意思は、つんざくような声にやぶられた。

 立ち塞がっていた純連は、慌てて振り返る。

 

「な、なんだこの赤いのは……っ!?」

「あ、あ……っ、いや……」

 

 最悪の状況を目の当たりにした。


「お母さん、お父さん!?」


 母親はへたりこんでいる。

 父親はにじり寄ってくる粘液に、傘を向けていた。

 ぱっと見ただけで三十程度。人の頭ほどの大きさの粘液が、八咫家の扉の隙間から侵入して、両親に群がろうとしていた。

 ここは逃げ場のない室内で、絶望的な数だ。

 

(あのときはいなかったのにっ!?)


 過去に遭遇したことのない最悪の展開に、頭が真っ白になった。

 これでは逃げられない。

 クイーン・スライムを相手取っている自分が、あの小さな粘液達を倒すことはできない。

 だがスライムは、大和が全力でバットを振るって、ようやく倒せる硬さだ。

 今の両親に倒し切れるはずがない。




 どうやっても、救えない。

 守りたいと思う気持ちを裏腹に、詰んでいることが、分かってしまった。


「そん、な……」


 純連の顔が、あの時のように、絶望の色で染まり始める。


 お母さんとお父さんが死ぬ。

 あんな数のスライムに群がられたら助からない。助けに行けば、今度はクイーンスライムを留めておくものがなくなってしまう。


 いなくなってしまう。

 お母さんも、お父さんも守れずに、死んでしまう。






 ……いやだ。

 もう、そんなことは、ゆるせない。

 


「あああぁ、あああぁぁっっ!!」


 心の中にあった『何か』が、粉々に砕けた。


 純連はたった一人で、再び青銅の壁を破ったクイーン・スライムに向かって特攻した。自分に防御魔法をかけて、正面から駆け向かっていく。


「純連っ!」

「純連ちゃん!?」


 両親が叫んでいるのが聞こえても止まらない。そして粘液の中に自ら両手を、腕ごと突っ込んだ。


 気が狂ったような行為だ。

 だが、魔法のかかった生腕が深く沈んだ途端に、粘液は大きく震えだす。激しく表面が波打って、蠢いた。突っ込まれた手を嫌がっているみたいだ。

 すると突っ込んだ腕のあたりから、酸っぱい臭いのする白煙があがる。


「う、げほぅっ、ごほっ!? っ、うぅっ……!」


 嫌な表情を浮かべ、何度も咳き込んだ。

 目に入るだけでつんと痛む。

 魔法の防御が、少しづつ削られているのを感じる。溶かそうとしているのだろう。

 しかし止めない。もう、この無謀な方法しか思いつかないからだ。涙目で叫んだ。


「ぜったいに、っ……いかせ、ませんっ」


 望んで、自分の肩まで粘液の中に沈みこませていく。捕食されにいくも同然の行為だ。


 死の予感が、背筋をざわつかせた。

 腕が焼けるように熱くなって、ただれている。それを無視して、スライムの"命"と呼ぶべき『核』に手を伸ばす。

 届かない。

 だから掴むために、大きく息を吸って肺に貯めこんだ。

 

「せー、のっ!」

「純連ちゃん!?」


 得体の知れない生命体に、頭を突っ込んだ娘に、母親が悲鳴をあげた。



 ――鈍い音の世界に突入する。


 両目を瞑って視界を失い、聴覚も奪われた。

 頼れるのは記憶と手の感覚だけだ。

 粘性の強い液体の中では、ほとんど自由に動くことができない。


(う、ううぅっ……!)


 しかし、どうやらクイーン・スライムは、このまま純連を飲み込んでしまうことに決めたらしい。

 酸性の液体が、防御魔法を溶かそうと、ジュワジュワと激しく音をあげはじめる。ドロドロの粘液が、服の内側にまで侵入して、苦しむようにうめいた。


 しかし、核を探し続けた。

 あれさえ壊してしまえば、この巨大なスライムを止められる。

 手が届く距離にあるはずなのだ。


(うぐぅ……っ!?)


 魔法が溶かされ、焼け爛れた肌が溶けていくのを確かに感じた。いよいよ腕の防御魔法が完全になくなったらしい。

 思わず肺におさめておいた空気が、泡になって吐き出される。


「がっ……んんっ!」


 舌を噛んで、息苦しさも激痛も耐えた。

 必死に、苦しいのは今だけだと言い聞かせる。


(こ、これが、なんだっていうんですか……っ!)


 全身を灼かれる痛みで、いつ気絶してもおかしくない純連を動かしていたのは、執念だ。

 ここで両親を守れなければ、きっと一生立ち直れない。二度と誰も守れない。

 守ると、そう決めたのだ。

 

 どうか届いてくださいと、内心で祈り続けながら、溶け出しはじめた指先を使って粘液をかきわける。


 とうとう、見つけた。

 硬い感触に触れた。

 両手でそれを強く掴んだ。


(やっと、つか、み、ました)


 だが、スライムもただでは触れさせない。

 悲鳴をあげるみたいに、粘液が大きく揺れ動いたのがわかった。包まれている純連も大きく揺さぶられた。


 息ができない純連の意識が、赤く霞んでいく。

 脳が危険を知らせる信号だ。

 しかし一度見つけた弱点を、決して離そうとしなかった。


(ぜった、い……させ、ま、せん……)


 消えそうになる意識の中、見えたのは、大切な両親の。

 大好きな親友。

 自分を想ってくれる"友達"の姿だ。


 彼らに、背中を押されるみたいに、純連は最後の力を振り絞った。


 全ての魔法少女の力を両手に集める。

 自分を守るための魔力なんてない。

 崩れかける両手に残った魔力を注いで、万力のように核をしめあげる。体内に潜られたスライムは、それ以上は抵抗できない。



 パキンと、砕けた感触を感じ取った。


 その瞬間、電源を切るみたいに意識が消えた。

 呼吸が途絶えた脳が、闇に落ちる。

 粘液の断末魔を、灼かれた純連は、聞き取ることができなかった。















 あたりはしんと静まり返っている。


 地面に投げ出されていた純連の意識が、少しづつ浮き上がってきた。


「……ん」


 今倒れている場所は、粘液に塗れた木の床ではなかった。ここはどこだろう。

 ゆっくりと目を開けて確かめると、黒の世界が広がるだけの、何もない場所だ。

 どう見ても現実に存在する景色ではない。


「ここは……」


 頭の中がチカチカするほど息苦しさも、今は感じなかった。腕を見ると、焼け爛れたはずの肌は痛くない。

 すっかりもとに戻っている。


「純連は、死んでしまったのでしょうか」


 はたと、その可能性を思いついた。

 ありえない状況だ。これが死後の世界だと言うのなら信じられた。



 ――しかし。

 悲しい気持ちが湧き上がってくる直前。

 愛しい声が呼び掛けてくる。

 

「純連」

「純連ちゃん」


 誰もいなかった背後から、不意をつくみたいに純連を呼んだ。振り返ると寂しそうな微笑みを浮かべた両親が、娘を見守っていた。


「お母さん、お父さん……!?」


 転げそうになりながら、慌てて駆け寄った。

 両親に触れた。確かにそこにいる。

 怪我をした様子もなければ、スライムに食べられてしまった風でもない。しかし、真っ先に最悪の可能性を思いついてしまう。


(まさか、純連は、一緒にあそこで死んでしまって……)


 倒せたどうか、記憶が定かじゃない。

 青ざめながら詰め寄った。


「す、純連は、まもれなかったのでしょうか……?」


 何よりも恐ろしい可能性を口にした。

 しかし、そのかわりに父親がそっと、純連の背中に手を回して抱きしめた。


「えっ、お父さん……?」

「大丈夫。お父さんたちは、純連に助けてもらったよ」


 そっとささやかれる。

 純連の藍色の瞳に、涙が滲んだ。

 

「こんなに立派になった純連と、一緒にいられなくなることが、悔しいよ」

「おとう、さん……?」


 目尻に浮かんだ涙を拭うことも忘れて、父親を確かめようとした。

 しかし強く抱きしめられて体が離れない。

 大きな胸板からは、呼吸音が伝わってきた。まるで、泣くのを堪えている時のような音がした。

 するともう一人、純連を抱きしめてきた。


「お母さん……?」


 顔は見えなかった。母親も同じように、泣くのをこらえているみたいだった。


「純連ちゃんはもう、一人でもやっていける。お父さんもお母さんも保証するよ」


 それを聞いて、足から力が抜けていくような想いを抱いた。


 ああ、やっぱり。

 お母さん、お父さんも。もう一緒にはいられないんだ――と。

 どうしようもなく悲しくなった。


「おかあ、さん……おと、う、さん……」


 今見ているのは、全部幻だ。

 スライムを倒したって過去は変わらないし、大切だった人は二度と戻ってこない。

 それでも今は傍にいる。

 抱きしめられているこの感触は"本物"だ。


「ごめん、なさい」


 両親の服をシワがつくくらい握りしめる。


「すみれはっ、あぶないことを、してっ、しんぱいかけて」


 母親と父親の強い抱擁を、悲しい記憶を塗り潰すみたいに、心の奥底に刻み込む。

 二人は、自分たちの娘に寄り添った。


「危ないことはしてほしくないけれど、純連ちゃんがそうなりたいのなら、二人とも応援するよ。見守っているからね」

「いや、いやですっ。一緒にいてください、おかあさん、おとうさん……!」


 ずっと頼ってきた人の存在は、心を逆戻りさせる。

 甘えていた頃を同じように、二度と叶わない、無茶なことをねだってしまう。


「魔法少女のちからなんて、いりませんからっ、ずっと、すみれと、一緒に……っ」


 涙がボロボロと頬を通り過ぎる。

 慈愛に満ちた母親の胸を濡らした。

 駄々をこねる娘の髪を、背中まで手を滑らせて優しく撫でた。


「お母さんも、お父さんも、ずっとあなとと一緒にいるから。大丈夫だよ」

「ちゃんと、見守っているからな」


 両親の体から、光の粒子がこぼれる。


 嗚咽をこぼして泣きじゃくる純連の胸に吸い込まれる。二人は少しづつ光に変わって、姿を薄れさせていった。


 幻は、もう終わる。


 これで永遠のお別れだ。

 消えゆく両親は寂しそうに純連を見守りながら、遺した。


「純連ちゃんは、自分のやりたいことを……夢を、叶えてね」


 膝をついた純連が、頷くのを見た。

 両親は心穏やかな表情で、消えた。











 自分が研究所に戻ってきたことに、まったく気づいていなかった。


「おとうさん、おかあさん……うぁ、あああ……っ」


 両親がいなくなっても、泣き叫ぶのをやめなかった。

 研究員たちは、急に膝をついて泣き崩れた純連に困惑していた。

 同じ魔法少女の庵は、混乱しながらも、今すぐに映像を切るように上役の研究員に進言していた。


「すみちゃん……」


 大和はガラス窓に手をつき、泣き崩れた友人に言葉を失っていた。





 クイーン・スライムの遺骸は、台座の上で粉々に砕けていた。


 宿っていた特別な魔力は失われた。

 特別な力は残っていない。

 永遠に光を取り戻すことはない。


 二つの破片を握り締める純連は、涙が枯れ果てるまで、ずっと泣いた。

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