第43話 八咫純連の追憶 前編
何もかもが、無くなる前のままだった。
あたりを見回すと、壁掛けのカレンダーや、黄ばんだふすまが視界に入る。かつての記憶と全く同じ、時が戻ったみたいだ。
「どうして……」
一人で呟いた純連は、ちゃぶ台の前で立ち尽くした。
感じる空気も、懐かしい匂いも変わらない。だが、そんなことはありえない。
すると、誰かが近づいてくる気配に気がついて、咄嗟に身構えた。
「お父さん、そろそろ起きてください」
懐かしい声が届いた瞬間、びくんと身体が跳ねた。
ありえない。
ありえてはいけない、声だ。
襖の向こうから足音が近づいてくる。
純連の胸が早鐘を打ち始めた。
「もう朝ご飯の支度が済みますから。居間まで来て……」
襖が開いた。
そして、間違いなく目が合った。
口を開いたままの純連は驚いているはずなのに、むしろ顔から感情を失っていた。
相手は、何事もなかったみたいに純連をきょとんと見つめる。
「純連ちゃん。そんなところに一人でぼうっと立って、どうしたの」
「あ……」
自分と同じ蒼色の長髪の女性。
誰よりも愛しかった人が、何事もなかったみたいに目の前に立っている。
思わず、その人に尋ねて確かめた。
「お母さん……ですか?」
「どうしたの? 純連ちゃんまで、寝ぼけているのかしら」
首を傾げたのは、もうこの世から去ってしまったはずの母親だ。
茫然と立ち尽くす純連を不思議そうに見ていた。
まるで、あの日のことがなかったみたいに、当たり前のように立っていた。
純連は、ふと気づいて見下ろした。
いつの間にか自分が魔法少女の衣装ではなく、普段の私服を纏っている。過去に着ていたお気に入りで、"災害"のあとに、だめになってしまったものだ。
すると母親は、思い出したような表情を浮かべた。
「あら、いけない。お料理の火を弱めてこないと」
そう言って、背を向けて離れていく。
だが純連は、このまま行かせてしまうことに、強い不安を覚えた。
「おかあ、さん……!」
両手を伸ばすと、細い身体に届いた。
背中を捕まえられた母親は少し驚いたように、首を回して娘を見た。
「純連ちゃん……?」
「…………」
母親は、後ろから抱きついてきた純連に問いかける。
だがすぐに、純連が、かすかに震えていることに気づいた。向き直って、よしよしと。
頭を撫でて、優しくあやした。
「もしかして、怖い夢でも見たのかな」
「……はい」
「大丈夫よ。お母さんは、どこにもいかないから」
向き直った母親の胸の中に、深く顔を埋めた。
唇を結んで声を我慢する純連は、何も考えられずに、ひたすらに抱きしめられた。
「おかあ、さん」
「はいはい、純連ちゃん。よしよし」
幻覚だって何だってよかった。
自分にだけ向けられる優しい声は本物だ。
ずっと抑えてきたものが、ボロボロと溢れ出してくる。
涙を止めることは、どうしてもできなかった。
両親と一緒になって、食卓を囲んだ。
しばらくして起き出してきた男性は優しそうだが、どこか頼りない雰囲気だ。眼鏡がチャームポイントの、大好きな父親だった。
純連がふわふわとした気持ちで味噌汁に口をつけると、ちゃぶ台越しに尋ねてくる。
「純連。学校のほうは、うまくやれてるのか」
「うぇっ!? え、ええと……まあまあ?」
その唐突な質問に、純連は思わず飛び跳ねそうになった。
こぼさないように味噌汁を置いて、視線を右上に逸らして、棒読みする。
(どっちの話をすればいいのでしょうか……!)
この頃は、確かうまくいっていなかった。
今はうまくいっている。
悩んだ末に中途半端な返事になってしまった。するとそんな態度に、父親は少し呆れたみたいだ。
「何だそれは。まあ、うまくやれてるならいいんだが」
「ご近所だった七夕さんが引越ししたあと、随分落ち込んでたものねえ」
母親も寂しそうに笑う。
七夕家とは家族ぐるみの付き合いだった。一緒に家族同士で出かけるくらいには、仲がよかったのだ。仕事の都合で引っ越すると言われた時は、とても残念に思ったものだ。
純連は少しづつ状況を理解できてきた。
どういうわけか、今の自分はあの災害が起きる直前の、我が家に戻ってきたらしい。
もう、この世からいなくなってしまった家族と、かつてと同じように食卓を囲む純連は夢見心地だ。
(……これは夢、なのでしょうか)
しかしそんな幸福感の中でも、やっぱり、これはおかしいと分かっている。
研究所はどこに行ってしまったのだろう。
だが、理由を探ろうとしていると、今度は父親が心配そうに声をかけてくる。
「どうした。もしかして、体調が悪いのか?」
「あ、いえ! そんなことないです! んぐ、お母さんのご飯は最高です!」
思考を打ち消して、あわててご飯をかきこむと、今度は母親が不安げに尋ねてきた。
「でも純連ちゃん、本当に、学校は大丈夫なの?」
「はい……いまは、ちゃんと、お友達がいますから!」
「そうなの!」
そう報告すると、母親が、とても嬉しそうな笑顔を浮かべてくれた。
そういえば、家族にそんな報告ができたのは初めてだった。うつむいて苦笑う。
(純連が、もっといい子だったらよかったのに)
友達ができないことで、両親には心配をかけてしまった。
この頃の自分がどんな風に過ごしていたのか、あまり記憶にないが、今思えば随分と心配をかけてしまったのだろう。深く反省した。
すると、母親はさらに深く尋ねてくる。
「どんな人なの?」
「純連のことを、ちゃんと見てくれる人です」
はっきりと、そう答えた。
簡潔で、普通じゃない返事に目を丸くしたが、両親はすぐに理解してくれた。
「そう。すごく大切な、お友達ができたのね」
嬉しそうな母親の言葉を噛み締めた。
思い浮かんだのは二人だ。
二人とも、今まで出会った人の中で、両親と同じくらい大切に想っている人だ。
――昔から純連は、人との距離感を間違えて『近づきすぎて』しまうことばかりを繰り返していた。
親しみを込めているつもりだったが、みんなはそう思ってくれなくて、誰ともうまく付き合えなかった。
だから子供の頃から、家族か、琴海と話していた記憶ばかりが残っている。
(今は、一緒にいてくれる友達がいます)
たとえ夢であっても、こんな報告ができることが、嬉しくてたまらない。
一人は、幼い頃から純連を受け入れてくれた七夕琴海だが、他にも大切な人ができた。
すると表情をほころばせる純連をどう思ったのか、父親が少し悪戯っぽく深掘りしてくる。
「それ、もしかして好きな人とかか?」
「ちょっと、お父さん!」
母親は少し怒ったように、少し調子に乗ったような態度を咎める。
父は困ったように「いや、すまん」笑って、すぐに誤魔化した。しかし純連が、急に口をつぐんで黙り込んだのを見て、二人揃って目を丸くする。
「え……そうなのか?」
「……秘密です」
「ど、どんな人だ? 友達っていうのは、誰なんだ!?」
「お父さん!!」
焦った様子で息巻いた父親だが、今度はもっと強めに咎められた。母親の睨みで、すごすごと退散して小さくなってしまう。純連は顔を赤くして、すっかり黙り込んだ。
微妙な空気が流れる中、今度は母親が語りかけてきた。
「お母さん。純連ちゃんがちゃんと、元気でやっていてくれているみたいで、安心したな」
「はい……」
気を遣われているみたいで、恥ずかしい。
でも今は、言わなくて済むことがありがたかった。
父親は肩を落として、力なく首を横に振る。
「はぁ、純連もうまくやっているのか……会社の人間関係も、純連みたいに、うまくいけばいいんだけどなあ」
「あら。お父さん、また何か嫌なことがあったの?」
「それなんだけどね。職場でまた、こんな話が出てきて……」
今度は、愚痴る父親のほうに話がうつって、純連は置いていかれた。
純連はぼうっと二人をじっと見守った。
心が暖かくなるのを感じた。
大好きな父親と母親が、仲睦まじく言葉を交わしている。そのそばに寄り添っているだけで、幸せを感じられた。
この時間が、純連は、大好きだったのだ。
『いや、です……お父さん、お母さん……!』
純連には、今も頭に焼きついて離れない光景がある。
平和な日々が、一瞬で崩れ去った"災害"の日。
家の中に侵入してきた粘液の魔物に、両親はなすすべなく飲み込まれて行った。
姿が見えなくなっていく二人を、飛び込んできた警察に無理やりに連れられて、見送った。
ふとした瞬間に、あの日の光景を思い出してしまうことがある。
多分、一生忘れられないのだろう。
最初は三日三晩泣きはらして、決して現実を受け入れなかった。
いつもの笑顔は、まったく浮かべられなくなった。
全てを失って、何をすればいいかも分からなくなって、与えられた部屋から一週間は何も食べられずに、動けなかった。
家も、両親も、学校も。
わけもわからないうちに、何もかもを失った。
警察に連れられてしばらく経った後、保護を受けていた純連は、魔法の才能があると言われて、国立桜花学園に入学することになった。
その後に、自分が、巷で噂されるようになった"魔法少女"になれると気が付いた。
純連は、誰にも言わずに"街"に飛び出した。
両親と住んでいた場所に駆けつけた。
そこで純連を待っていたのは、黒く焦げた廃墟に変わり果てていた、我が家だった。
『お母、さん……? お父、さん……』
足で床を踏めば、木片がメキメキと音を立てて砕けて壊れる。
柱は奇妙な形に溶かされて、半分が倒壊している。夜風が吹き抜けていた。
もうそこは、人の住む場所ではない。
純連の帰る場所は、どこにもなかった。
現実を目の当たりにして、力なく膝から崩れ落ちた。
はっきりと、両親がこの世界にはいないのだと、突きつけられた。
つぅ、と一筋の涙が頬を滑り落ちる。
あの時の絶望を、純連は一生忘れることはできないだろう。
だが、それでも純連は折れなかった。
両親がいなくなったことは認めている。
だが、こんなものが現実だなんて認められない。だからこそ一つの目標を決めた。
『純連が、自分で、この街を取り戻すんです』
願望に等しい、曖昧な目標だ。
街に出るようになった緑色の小生物や、嫌いな粘液の生き物が全部悪いのだ。
あれがいなくなれば、奪われたものが、少しでも帰ってくるかもしれない。
魔法少女の力で、一人で活動を始めた。
この行為に意味はないと心のどこかでは気づいていた。
だが、そうでもしないと、自分がどうにかなってしまいそうだったのだ。
最初のうちは、魔物狩りは順調だった。
自分に宿った魔法の力を使えば、ゴブリンやスライムは敵ではなかった。危ないことも何度かあったが、命を落とすようなことは一度もなかった。
調子がよかったのは、たったの数日。
川沿いの街で、あの怨敵を見つけるまでの短い間だった。
『うぁぁっ! ううっ、くぅっ』
巨体に跳ね飛ばされて地面を転がり、コンクリートの地面に体を打ちつけた。
攻撃を反射する魔法の盾は、酸性の粘液を防ぎきれない。まともにかぶって体を焼かれた。魔法少女の衣装である袴が避けて、露出した肌が紅黒色に痛々しく傷ついた。
両親を奪った怨敵であるスライムが、目の前にいる。
出逢ってしまった純連は、冷静さを失って、何度も特攻した。
『かえして、ください! お母さんと、お父さんを……っ』
傷だらけになっても、石を投げて無様に戦った。
しかし、まるで歯が立たなかった。
巨大な粘液にはダメージ一つ通らない。戦いになっていない。いよいよ膝をついて絶望する純連を飲み込まんと、巨体が迫ってくる。
(死ぬのですか、ここで、純連も)
魔力を枯渇させかけてようやく、自分の力ではだめなんだと理解した。
絶望に落ちた小さな魔法少女の前に、暗く大きな影が落ちる。
粘液が目前に迫っていた。
『いや、いや……です……っ』
両親と同じように、自分も、この世界からいなくなる。
そう確信して、足が勝手に動いた。
魔法少女としての最後の力を振り絞って、背後に跳ねた。
振り返りもせずに、背中を向けて逃げた。
両親の仇から逃げてしまった純連の心は、壊れかけていた。
“特別"に選ばれるなんて、ありえない。
純連は、自分が凡人だと知っている。
人と違うところといえば、他人との距離感を、よく間違えてしまうところくらいだ。
勉強やスポーツができるわけでもない。
他と比べてスタイルがよくもないし、可愛くもない。
羨まれるようなものは、何も持っていなかった。
こうして魔法少女の力を目覚めさせても、弱すぎることを何度も思い知らされた。
そのあとは自信を失ってしまった。
失敗ばかりを繰り返した。
勝てるのは、最初のうちに何度も倒してきたゴブリンと、子スライムだけ。
惨めだった。
何のために魔法少女に選ばれたのだろうと考えた日は、両手でも足りない。
いなくなってしまった両親が自分を見たら、どう思うのだろう。
いつか、心が砕けてしまうと思った。
でも今は、違う。
『すみちゃんなら絶対にできる。俺は、そう思う』
『純連。防御は全て、あなたに任せました』
信じてくれる人がそばにいる。
魔法少女として、また立ち上がれる。
今、純連の前に広がっているのは、幸せだった頃の光景ではない。
これが自分を慰めるための時間ではないことには、とっくに気づいている。
夢のような時間は永遠には続かない。
なぜなら、これは純連の唯一の心残りであり、『取り戻したかった過去』。必ず乗り越えなければいけない試練なのだ。
「お父さん、お母さん」
和気藹々と雑談をしていた両親は、純連を見た。
「んがかかかがっ!!」
そんな二人の前で、残っていた食事を意気込みながら箸を動かして、全部まとめて胃の中にかっこんだ。最中、久しぶりの母親の料理を、しっかりと味わえないことを残念に思った。
「純連ちゃん、そんなに急いで食べたら……」
「んぐっ、ぐぐっ」
「お、おい純連!? お茶、お茶飲め、さあ!」
「んぐっ、ん、んん……けほっ。すみません」
湯飲みのお茶を飲み干して、詰まったご飯を流し込む。
両親は、それから凛と立ち上がった純連を、不思議そうな表情で見上げた。
純連は泣きそうになる。
でも、精一杯に絞り出した。
「純連のことを、大切に想ってくれて……ありがとうございました」
これは、今生の別れの言葉だ。
二人とも意味がわからないのか、目を丸くするばかりだった。でも伝えられた。後で意味がわかってくれれば、それでよかった。
そして、両親も異変に気が付いた。
純連の視線は廊下の襖に向いている。
向こう側から、何かが近づいてくる音が聞こえていた。
ずる、ずると。
何か重たい物を引き摺るような音と、木材が軋む音が近づいてくる。
「何だ……?」
「ちょっと見てくる」
「お父さん、行かないでください!」
襖に近づこうとする父親を、純連が手で制した。
「純連?」
「純連ちゃん……」
その異音の正体が何なのかを知っている。
魔法少女としての力が、強い魔物の気配を伝えてくるからだ。
守るように前に出る。
そして振り返らずに言った。
「今度こそ純連が、必ず守ってみせます」
守り抜いてみせる。
そう誓った魔法少女の眼前に、この世界に来訪したばかりの災厄が、襖を溶かしながら姿を現した。
一度も乗り越えることのできなかった。
深い
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