第1話 転移者と混乱の転移
沼の底に沈んでいた意識が鈍く、気怠く浮上した。
瞼の裏に鬱陶しい光を届ける。億劫な動きで反対側に体を向けて逃れようとして、そこまでして、ぼんやりと気付いた。
「ん……」
やけに体の調子がいい。
頭も、いつになくすっきりと覚醒している。
いつもなら嫌な感覚が体に纏わりついているのに、それがない。
目を開けてみる。
全く知らない、モデルルームのような部屋の、知らない布団で眠っていることに気がついた。
「…………?」
ぺたんとへたり込んで、殺風景な部屋に首を傾げる。
陽の差さない、いつものカビ臭い部屋はどこにいったのだろう。
眠気のほうが優っていたせいか、すぐに危機感が湧いてこなかった。
だがスイッチを切り替えたみたいに、急に飛び上がる。
「出勤!」
曇った頭を急激に覚醒させたのは、会社のことだった。
そのおかげで、ようやく大和は我を取り戻して、まともに周囲を見回した。
「え。どこだ、ここ」
だが、とっさに、声を出した喉を抑える。
「な、なんだっ。この声、それに、この手……!?」
声がおかしい。
いつもと震え方が全然違う。
そして見下ろした手も、明らかにおかしかった。血色の悪い、骨張った手ではない。ひとまわり小さく、健康的な色を保っている。
いつもの自分の身体じゃない。
一体何が起きているというのだろう。
「そうだ、鏡……!」
部屋のどこかにあるはずだ。
大和は布団から這い出して、洗面所を探す。
廊下を出てすぐ、半透明な戸の向こうに見つけたのは洗面台。
まるでホテルのように、新品の歯ブラシがセットされている。備え付けの鏡が、大和を映し出した。
「これ、俺か……?」
台の前に手をついて、うつった姿を見て呆然と呟いた。
それは他人ではないが、自分でもない。
うつっているのは、おおむね大学に入学した頃くらい。十年前の自分自身の姿だった。
「夢、だよな」
試しに、手を上げてみる。
鏡の中の自分も手を上げた。
(いや、そんなこと、ありえるわけない)
首を振って否定した。
鏡の中の自分自身も、首を横に降った。
現実でないのなら、これは夢だ。
しかし、夢の中にいるときのようなぼんやりとした感じはもうない。
頬を引っ張ってみるが、しっかりと痛い。
「いや夢のわけないだろ! ここ、誰の部屋なんだよ!?」
夢と現実の違いくらいわかる。
何もかも理解できなくて、怒り叫んだ。
しばらく体を震わせて、洗面台から動かなかった大和だが、思いついたように顔を上げる。
(そうだ。まず、ここがどこなのか確かめないと)
洗面所を飛び出して玄関に向かった。
外出用のスリッパが置かれていたので、それを履いて、転がり出るように扉を開く。
真夏の生暖かい空気が、一気に全身を包み込んだ。
「え……」
部屋から出た瞬間に完全に固まった。
そこにあったのは、ただの風変わりな景色ではなかった。
「嘘、だろ」
コンクリートの塀に手をついて、空を見上げる。
こんなことがあっていいのか。
ありえない。
ありえてはいけない。
空に、不気味に渦巻き稲光を走らせる、薄黒く分厚い暗雲が留まっている。
異常気象という、たった一言で済ませることはできない。まるで、この世の終わりが迫っているみたいな、見たこともない景色が広がっていた。
「こんなの現実じゃない」
思った以上に動揺しているのか、心臓がバクバク鳴っていた。
これはよくできた夢だ。
この景色を見たことがある。見覚えがある。
しかしそれは、決して現実にこの目で見たものなどではない。
架空の物語、作り話の中だけの風景のはずだ。
現実から逃れるように視線を逸らし、部屋のほうを見た。
「……俺の、名前?」
ドア横の表札に、マジックペンで『鳥居』と、大和の苗字が書かれている。
混乱は、いよいよ頂点に達した。
「なんだよ、どこなんだよ、ここ……」
ふらりと、よろめいて壁に手をついた。
慌てて会社に行こうとしていたことも忘れて、反対側の塀に背中をついた。
なぜこんなことになっているのか。
どんなに脳に血液を行き渡らせても、この現象を説明できる内容が思いつかなかった。
(ここで目を覚ます前。最後に何をしてた?)
大和は、必死に考える。
こんなことになってしまった原因は何だ。
少しでも、この異常を説明できる原因を思い出せないかと、頭の中を探った。
「一人こんなところでうずくまって、何をされているのですか」
「ひっ!?」
接近してくる人間に全く気づかず、心臓が喉から飛び出そうになった。
思わず、その場から跳ね退いた。
相手の顔を見上げる。
「あ、あなたは……?」
立っていたのは、分厚い眼鏡をかけた二、三十代の女性だ。
スーツを着ており、厳しそうな雰囲気を醸し出している。"できるOL"という感じの強気そうな人物で、彼女は淡々と名乗った。
「国防省から派遣されました、国防魔術人事課の
「こ、こくぼう……?」
「はい。あなたがこの部屋に越してきた方で、間違いありませんね」
半ば呆然と名刺を受け取った大和は、苗字の書かれた表札に視線を向ける。
”鳥居”と書かれてはいるが、自分の部屋ではない。
「確かに自分は、鳥居大和という名前ですが……」
せめて、嘘だけはつかないように、煮え切らない返事を返すしかなかった。
「今日はお話があって参りました」
「は、はぁ……」
動揺もおさまってきたので、改めて女性を観察する。
(嘘、だろ……?)
そして、息が止まりそうになった。
大和は、気づいてしまった。
彼女の襟に、いくつかのバッジが飾られてる。
ファッションではなく、弁護士がつけているのと同じような、身分を証明するための特別な印だ。
その中に、存在しない”架空のシンボル”を見つけてしまった。
「あ、あの。そのバッジは……?」
「ああ。これは、国防省に勤めている人間の証です」
それを指で弄りながら教えてくれた。
だがありえない。
大和がプレイしていたゲームの中でのみ使われる、架空のシンボル。
地球と盾を象った青いマークは、現実には間違いなく存在しない意匠なのだ。
「部屋の中で話しても?」
「え。は、はい……今は誰もいないので、多分、大丈夫です。きっと……」
「そうですか。では失礼します」
篠井と名乗った女性は、大和の挙動不審を奇妙な目で見つめた。
だが、深く追求はしてこず、開けた扉から部屋に入っていく。
大和も、後を追った。
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