第4章

第238話 備えあれば……



 すいません、相変わらず更新が遅いうえにまた長くなってしまいました💦

 お時間のある時にどうぞ。



   ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 時はあの災厄直後、日本に戻って来た頃に戻る。


 亜空の門を潜ると、日本は土曜の夜8時過ぎだった。

 あちらを出たのも終刻の9時鐘が鳴り止んだ頃。俺があまり時差ボケを起こさないように、ヴァリアスの奴がタイミングを計ってくれていたのだと思う。


 が、黒い殺し屋に戻った奴は、近所の酒屋に用があると言ってさっさと出て行った。ぎりぎり閉店(9時)に間に合うとか。

 そっちの時間合わせかよ!


 禁酒が明けた4日目の零時になった途端、まるで新年の祝いのように飲み始めたのを俺は知っている。

 高まるカウントダウンの気配で目が覚めたからな。まず寝ている人間のすぐ頭上(枕元)で飲むなよ。


 とはいえその4日目もまだギルドに世話になっていた。

 昼過ぎにはヨエルとエイダも王都に帰って行ったので、俺もそろそろお暇したかったのだが、禁酒明けのサメが所長に誘われてしまったのだ。

 

 今度こそやっとまともな持て成しが出来ると思ったのだろう。隣のホテルのレストランでどうかディナーをと強く勧めてきた。

 美味い料理の他に各地から取り寄せた珍しい酒もあると言われて、アルコール飢餓状態だった奴が断るはずがない。

 結局俺も小判ザメのようにくっついて行くしかなかったのである。


 それにまだパネラ達がギルドに訊ねて来るかもしれないと、密かに希望を残していたこともある。結局もっと先の事になったが。

 


 そんなこんなで日本に帰って来た次の日の昼は、炬燵の中でゴロゴロしながらのんびりと小説を読んで過ごした。

 時折窓の外を走るバイクの音や、子供が弾いているのか、たどたどしいピアノ曲が聞こえてくる。


 ああ、このなんの不安も感じない平和でのんびり出来る幸せ。

 やっぱり日本はいいなあ。


 向こうにいた時は、あの怒涛の日々がさも当たり前という空気に呑まれていたが、こちらに戻って来ると嫌でも温度差を感じてしまう。

 のんびりとまでは言わないが、なんでもう少し穏やかに過ごせないんだろう。

 やっぱりヴァリアスのせいでハードモードになってしまうのだろうか。


 だが少数でも人を助けることが出来たのは本当に良かったと思う。

 特にヨエルの命を繋ぐことが出来たこと、思い出すたびに嬉しくて温かいモノが胸に込み上げてくる。


 ただその前後のあのハードさを思い出すと、ゲンナリもするところもあるわけだ。

 俺はマクレーン刑事ダイ・ハードの主役じゃねぇし、毎日スリルを味わいたいんじゃなくて、とにかく平穏で安定した生活がしたいのに。


 でももうこれからはああいうハードな生活にも慣れなくちゃいけないんだよなあ。

 普通の生活に戻れないと腹をくくったはずなのに、まだ諦めの悪い俺がいる。


 ……本来なら俺の人生も肉体も、折り返し地点のはずだった。

 だがその考えに反して、最近俺の体が逆に若返ってきているのを感じ始めている。


 一番真っ先に感じたのは、朝立ちだ。

 こんなの何年ぶりだろう。いや、もっとご無沙汰かも知れない。

 大体今まで性欲も落ちていたのに、最近はやたら若い女を目で追うようになっている自分がいる。

 これは奴の言う通り、精神も少し癒え始めてるという事なのだろうか。

 いや、しかしなあ、向かう相手もいないのに……相手……。


 ここだけの話、最近俺はHな夢を頻繁に見るようになった。

 相手は絵里子さんだ。俺は脳内では田上さんを絵里子さんと名前で呼んでいる。


 彼女のちょっとぽっちゃりした、抱きがいのある柔らかい肢体を抱きしめるのだ。夢の中の彼女はちっとも嫌がらずに、俺の背中に手をまわしてくれる。

 目が覚めてガッカリすると共に、下着を洗わなくてはいけない羽目になって更にウンザリするのだが……。

 

 実際に彼女は俺のことをどう思っているのだろう。

 ストーカー男の件がキッカケで親しくはなったが、まだハッキリと恋人とは言えない付き合い方だ。

 

 これは俺が恋愛に臆病なのがいけないのだろうが、もしこのまま上手く行くようになったとして、彼女には連れ子の来夢らいむ君という3歳児がいる。


 孤児院で年下の子の面倒を見ていた事があるとはいえ、親になるのとは勝手が違う。

 俺はちゃんと父親になれるのだろうか。

 なんだかまた余計な不安が増えてきた……。


 しかし次の日の月曜日、彼女と久しぶりに顔を合わすと、そんな悩みは吹っ飛んでしまった。


「お早うー」

 彼女はいつもと変わらぬ明るい笑顔で挨拶してきた。

 そんな久しぶりに見る彼女の姿に、つい嬉しくて涙が出そうになってしまった。


 人は死が目の前にチラつくような状況に置かれた時、真っ先に会いたくなる人を思い浮かべるようだ。

 ダンジョンで何度となく、俺は脳裏には彼女の顔がチラついていた。

 あのサーシャ達との死闘の最中にも。 


 けれど彼女にとってはほんの2,3日前に会ったばかりの同僚。何も事情を知らない彼女がそんな感傷など分かる訳がない。

 

「あれぇ、東野さん、なんか目が赤いけど大丈夫? 風邪じゃない」

 ちょっと心配そうに眉根を寄せる。

「うぅん、ちょっと目が痒くて……。もしかして花粉症になったかもしれない……」


 俺は咄嗟に目をこすった。まさか嬉しくて泣きそうになったなんて言ったら引かれてしまう。


「あ~今年も多いらしいから、急になる人が増えてるんだってぇ。私も少しその気があるからそろそろ薬飲まないとねぇ」

 そう言いながらまたマジマジ俺の顔を見ると

「ねぇ、東野さんって、髪の毛伸びるの早いわよねぇ」

「えっ?」


 思わず後ろ頭に手をやった。

 確か1,000円カットで髪を切ったのは、2週間前だ。いや、それはこちらの時間の流れでだ。

 実際に俺が過ごした時間は、その倍以上、1カ月半以上は経過しているはずだ。そりゃあ髪も伸びるわな。


「ふふん、もしかして意外とむっつりスケベだったりして?」

 彼女がイタズラっぽく言ってきた。

「ぇえっ!?」

 彼女の口からスケベと言われて、急に顔が熱くなるのがわかった。そんなはずはないのに俺の夢がバレたような気がして、ついドキドキしてしまったのだ。


「ふふっ、嘘よ。そんな事思ってないわよ。

 あら、だけど本当に大丈夫? 熱があるんじゃないのぉ?」

 今度から戻ったら必ず髪はカットしようと俺は密かに思った。

 

 そんなふうにホームセンターでの仕事をこなしながら、いつもと変わらない平穏な日常が過ぎていくはずだったのだが。


 海外で発生した新型の風邪に似た病気が、とうとう日本にも流行りだした。

 おかげでマスクやアルコール類が急激に品薄になって来た。たまに僅かながら入荷すると棚出しをする傍から無くなる始末。

 売り場に立つと客から次の入荷日はいつだと、一日に何十回も訊かれるようになった。


 ちょうどパンデミックという言葉が聞かれ始めた頃だった。

 それにともないテレビで毎日の感染者数発表が、さらに人々の不安を煽った。


 平和だと思っていた日本も落ち着けない状況になって来た。

 まさか現代でも、あの黒死病のようなパニックが起こるとは思ってもいなかった。


 俺はこの特殊体質のおかげでウィルス性の病気には罹らないはずだが、むろんまわりの人達は関係ない。

 だからいつ絵里子さんや大家のオバちゃんが、突然発症したりしないか不安がつのるようになってきた。

 ついでに家にいても奴が3D試験勉強を押し付けてくるので、さらに落ち着かない。


 そんなふうに国中が不安感に満たされているせいなのか、今日はこんなことがあった。


 金曜の夜でいつも通り地下鉄で帰ろうと道を歩いていると、後ろから軽くクラクションが鳴らされた。

 横にシルバーの軽ワゴンが止まると、中田さんが顔を出す。

「お疲れっ、東野さん。どう? 良かったら送ってくよ」

 帰り道に俺の最寄り駅の近くを通るというので、乗せてもらう事にした。


「来月の第3日曜日なんだけどさ、棚卸し、東野さん出られないかな?」

 乗り込むと早速仕事の話をして来た。


 ああ確かに俺は基本、平日のみの契約だからな。

 世界観的ボケを調整するためにも一日休みは必要なんだが、ここは断って使えない奴とは思われたくないしなあ。


 まっ、アッチ異世界を一週くらい休んでもいいか。どうせその頃にはハンター試験は終わっているはずだし、せっかく就職できたのだからこちらの仕事を優先したい。 


「ええ、大丈夫ですよ。予定も今のところないですし」

「良かった。日曜に出られる人が少なくてね。いつも他の支店から応援に来てもらってるから、出来る限りこっちでも人を集めな―――っ!」

 

 ガクッンン! と、急ブレーキが踏まれて、体が前にのめった。シートベルトをしていなければ、フロントガラスに突っ込むとこだった。 


 信号が青になったのでそのまま直進しようとしたら、目の前を黒いバンが急に左折してきたのだ。

「東野さん大丈夫? ったく、乱暴な奴だなあ」

 軽く舌打ちして中田さんはまた車を発進させた。


 が、前を走るバンが明らかに蛇行運転をし始めた。

「なんだこいつ」

 中田さんも気味悪がって、次の角で道を変えた。

 ところが後ろからバンがついて来ると、またすぐ強引に前に入ってきた。

 しかも時々、ワザとしか思えない感じで速度を緩めて来る。


「中田さん、こいつは」

「うん、流行りのアレ……かな」

 そう、以前大事故に繋がり、最近もニュースなどで騒がれているあの『あおり運転』だ。


 武器を持った人間が強気になるように、人は車に乗ると気が大きくなるのだろうか。

 それとも新しい病への恐怖や不安でみんなイライラしているのか。

 ともかく面倒な奴には違いない。


 黒いバンは目の前で何度かブレーキを踏んでいたが、信号で止まると運転席のドアを開けた。

 降りてきたのは、4、50代の厳めしい顔つきをした男だ。車に乗っていたせいかマスクをせず、ゴワゴワした不精髭を晒している。


 昔の俺だったらこんなオヤジに絡まれたら思わず腰が引けるところだが、奴のおかげでこの手の顔には免疫がついた。

 それに今なら地球人には負ける気はしない。

 

「東野さん、スマホ持ってる? 警察に電話して」

 中田さんもちょっと動揺したようだが、同行者がいるおかげで気を保ったようだ。


「おいっ! なに割り込んでやがるんだっ 出てこいやっ おんどれっ!!」

 男は唾を飛ばしながら怒鳴ってきた。


 こういう奴らは、相手の顔を確認してからイチャモンをつけてくるのだろう。中田さんも俺もナメられやすいって事だ。面白くないがそれが世間一般の認識だろう。

 これがもしヴァリアスが運転か助手席にいたら、果たして絡まれていたかどうか。

 その強力な魔除け像は俺の後ろでふんぞり返っている。


 どうする。ここは空気の塊りでもぶつけて転ばせてやるか? それともオヤジの車の防犯ブザーを鳴らしてやるとか。

 俺はスマホを手にしながらも、110番は押さずにそんな事を考えていた。


 と、ドアの手前で男がビクっと立ち止まった。

 振り向くと後ろにいたはずの奴がいなくなっていた。


「ア゛?」

 いつの間にか殺し屋が外に出ていた。


 全身黒っぽいスリーピースにロングコート。そして今はサングラスの他に真っ黒なマスクを着けている。

 こいつがウィルスキャリアになることはないだろうが(もしあったら完全致死レベルだ)一応まわりへの配慮として俺が着けさせたのだ。

 おかげでほぼ凶顔は隠れているはずなのに、ラスボスのオーラ殺気が漏れまくる。


「ア、あ、ぁ……」

 男がみるみるとキョドっていく。

 まさかファミリーカーにマフィアのドンが乗っているとは思いもよらなかっただろう。


「なんだ、テメエが出てこいと言ったんだろうがっ」

 ヴァリアスが男にずいっとメンチを切ると、首にガッチリ腕を回してバンの方に移動していった。

 

 遮音をしているのかまったく話は聞こえない。

 対応してくれたのはいいが、どっちが加害者なのか分からない絵面になってしまった。

 まわりのドライバー達の視線が痛い。110番される側になってしまった。


 と、信号が点滅し始めた頃に、奴が戻ってきた。男もオドオドしながらバンのドアを閉めた。


「いやあ、東野さん達がいてくれて助かったよ。おれだけじゃ外に引きずりだされてたかもしれないよ」

 中田さんがザマア見ろといった顔でほくそ笑む。

「これからは『ヒットマン乗ってます』っていうステッカー貼っとこうかな」

 どちらかというとターミネーターですけどね。


「あんな奴、無視して轢いてやればいいんだ」

 戻ってきた奴が後部座席に乗り込むと、再びボスのようにふんぞり返った。

「車道にしゃしゃり出て来やがったんだ。合法だろ」

 真(しん)のマフィアが暗黒街の法を説く。


「ハハ、さすがに日本の法律じゃ駄目ですよ」

 再び車を発進させながら楽しそうに中田さんが答える。

 それ何処の国ですか。日本以外でもダメでしょう。

 

「あとこれ」

 奴が前に手を伸ばしてきた。

「迷惑料だとよ。取っとけ」

 そう言って数枚の札を寄こしてきた。

「バっ、馬鹿ぁっ!! 返してこいっ そのまんま恐喝になっちまってるじゃねぇかよ」


 今度はこちらが相手のバンを追いかけるハメになってしまった。

 相手にしたら生きた心地もしなかったろうが、こちらも逃がすわけにはいかない。中田さんも勢いに呑まれて言われたままに黒バンを追跡することになった。


 もちろん相手は逃げ切るつもりだったようだが、5つ目の信号が赤に変わるタイミングで停止した。


 いや、本当は歩行者がいなかったのでそのまま左折したのだが、何故かエンストしたらしい。妙な弾みをつけて角に斜めの状態で車が止まった。


 そこへ今度はちゃんとドアを開けて奴が降りて行った。

 相手は窓やドアを完全にロックしたようだが、そんなことは奴の前では無駄な努力だ。

 すんなりドアを開けられてしまい、哀れな男の短い悲鳴が聞こえた。

 これに懲りて煽り運転を止めるだろうか。



『まったくあんまり無茶するなよな』

 中田さんに入谷駅近くで降ろしてもらい2人になると、俺はあちらの大陸語を使って注意した。


「まるで映画みたいで面白かった」と中田さんは喜んでいたが、俺は冷や冷やしていた。

 中田さん、どうもヴァリアスの悪影響を受けている気がするし、さっきのは目立ち過ぎだ。もしかするとまわりにスマホで撮られていたかもしれないのだ。


『それは大丈夫だ。オレが映りこんでいる部分は全て記録出来ねえようにしている』

 暗黒街の顔はそうサラッと言うと、いつものコンビニに入っていく。


『むぅ、ならいいが。俺は監視カメラが気になって、こっちじゃ魔法は使えないからなあ』

 俺も後を付いて行きながら缶チューハイを選ぶ。今日はレモンにするか。


『あんなの電気系統で動くモノなんだから、お前にも操作出来るはずだろ』

 あ、そういう使い方か。それで車も。

『ついでにガソリンも全部抜いてやったがな』

 マスク越しにも奴がニーッと笑っているのがわかる。


 それでか。

 信号が青になったにも関わらず、男の車は動かなかった。

 いや、本当に自業自得なんだが、イチャモンつけた相手が悪かったとしかいいようがないな。


「で、さっき言ってたが、来月向こうに行くのを止めるのか?」

 アパートに戻るなり、さっさと500㎖缶のプルタブを開けながら奴が訊いて来た。


「ああ、聞いた通りだ。だけどいいだろ、1回ぐらい。どうせ試験だってとうに終わってるはずだしさ」

「そうだが、そうするとお前がまた平和ボケしないか心配だな。今だってお前はすぐにそうやって小さくまとまろうとする」


「日本にいる時は当たりまえだろ。

 というか、あんたこそもう少しこちらのルールに慣れてくれよ。例え相手が悪くても脅したら脅迫罪だからな」

 一般人の『警察呼ぶぞ』は脅しにはならないが、こいつの『覚悟はあるんだろうな』は確実に脅迫になる。


「分かってるよ。今度から威嚇だけにすりゃあいいんだろ」

 それは野生の王国のルールだ。理解の仕方が人から獣にスライドしてる。

 やっぱり日本にいる時は、俺がこいつを指導しないといけないか。


「取り敢えずバレなきゃいいだろ? あんまりカリカリするな」

 奴が五月蠅そうに手を振ってビールをあおった。

 裏方面の理解度は高い。


「それより明日は早く出るぞ。不足分を少しでも埋めたいからな。すぐ行けるように準備しておけ」


「もちろん昨日、用意は済ませてあるよ」

 と答えながらも一応収納を開いて持って行く服などをチェックする。

 考えてみたらオールシーズン全部入れっぱなしでもいいかな。

 ――それと後はアレだ。


「なあ、あっちに行ったらまず買い物したいんだが」

「ん?」

「ポーションを買いたいんだ。ギルドの売店にきっとあるだろ」


 今回の一件で俺は自分の甘さを痛感させられた。

 ダンジョンに潜るのに、用意すべき準備が全く見当違いだった。

 まるでエベレスト登山に、弁当1つとスニーカーで挑んだようなものだった。

 結果、ヨエルに余計な負担をかけてしまった。


 ゲームだったらいつも慎重派の俺。

 ダンジョンに潜る際は買えるだけのポーションやアイテムを持って行くのに、何でリアルで生かせなかったのか。

 もう同じ轍を踏むのは御免だ。

 

 それに……もっとポーションを用意しておけば、助けられたかもしれない命もあったのだ。そのことも酷く悔いが残っている。

 別に俺が優しい人間なわけじゃない。ただ後ろめたくなるからだ。

 

 人の死を目の当たりにするのは通常慣れるものじゃないだろうが、俺は特にそういうのに弱い気がする。

 これは単純に俺の弱っちいメンタルのせいだと思っていたが、実はもっと深層に根深い理由があった。

 それを知るのはもっと後になってからなのだが。


「そんな人の分までわざわざ用意してやらなくてもいいだろ。運が悪いも準備が足りないのも自業自得だ」

 オールマイティなサメが他人事を一蹴した。


「俺がやりたいからいいんだよ。

 それに戦闘中に俺自身が使う可能性だってあんだからな」

「なんだよ、お前の怪我ならオレが治してやるのに」と、奴があっけらかんとして言う。


「全部終わってからじゃねえかよ。第一、負傷したままじゃ動きが鈍くなってヤバいだろ」

「ふ~ん、少しは考えられるようになったか。良い事だ」

「んなろぉ~~ ……っ 悔しいがその通りだよ。だけど他にも色々と考えてるんだぞ」

 俺は収納から登山用ロープを取り出して見せた。


 これはヨエルの持ち物を参考にして用意した物だ。

 ダンジョンではとかくロープは重要アイテムだった。きっとダンジョン以外でもあると何かと便利だろう。


 ただウチの会社で購入したので、緑地に赤や黄色の柄モノになってしまった。

 向こうのは基本一色、黒やナチュラル系が多いのでまた変な意味で目立たなければいいのだが。 

 

 すると奴がそのロープをまじまじと見てきた。

 やっぱり派手だったかな?


「それでお前、これをちゃんと使えるのか? しっかり解けないように縛れるのか?」

 う……。


「やっぱりなあ。お前のそういうとこだぞ、足りてないっていうのは」

 奴がワザとらしく大きく天井をあおいでから、おもむろに新しい缶ビールを手に取った。


「いや、こうしてちゃんと結び方のマニュアル本だって用意して――」

「その場で見ながらやるつもりなのか? 本番じゃそんなモタモタしてられねえぞ」


 く、くそぉ、確かにまだほとんど読んでない。まだ練習はそんな急がなくてもいいかなと思っていたところもあった。

 用意だけしてそれでひと安心してしまうのも俺の悪いクセだ。


「まあいい、オレがちゃんと教えてやるよ。

 それこそ藻掻けば藻掻くほど、1mmも戻らずに逆に締まっていく縛り方とかな」

 なんだか物騒な縛り方だな。それ、用済みの後にちゃんと解けるのだろうか。


 そんな話をして1時近くに寝た。

 土曜日はいつも9時過ぎ起床だ。今回は早いというので、起きたら速攻で洗濯してメシを食おうと思っていた。


 だが俺は最近聞きなれてきた、ゴ~ンじゃない方の鐘の音に起こされる羽目になった。

 目を開けると目の前にはナチュラル木目の衝立が立っていた。おまけに俺が寝ているところは畳敷きでも布団でもない、床上50cm近いベッドの上だった。

 いつの間にかまたギルドのあの応接室に戻っていたのだ。


 そうして斜め足元の衝立の陰から、見慣れた悪人ヅラが顔を出した。

「起きたか、蒼也。

 こうすれば時間に無駄がないだろう。(前夜に帰ったから)夜中に連れて来ればこちらの時間に合わせられるし、一石二鳥だ」

 得意げにニーッと牙を見せた。


「早いって、こういう事かよっ! 一言くらい言えよ。何のサプライズだよ」

まったく突然やって来る災厄のように行動する男。いや、前触れはあったか。


 かなり世話になっているし、本来ならまさに神様のように感謝するべき存在と頭では分かっているのだが、どうしてもマイナスのギャップが強すぎて、素直に有難いと思えない。

 この荒神さま野郎……。


 しかしこれも俺の気の持ちようで何とかなるのだろうか。 


 大きな災害や衝撃的な出来事がきっかけで、人生観が変わったという話は良く聞くが、まさにダンジョンでの体験は俺の考え方を動かしたようだ。


 今までなんだかんだと言い訳を作っては、とにかく嫌な事から目を背け逃げてきた。

 けれどそれでは何も変わらない。俺が変わらなくてはいけないのだ。そうでないとやっていけない。


 まずはもっと前向きに考えられるよう頑張って務めよう。とりあえず洗濯は日曜でいいか。 

 ちっぽけな思考転換だが、これも始めのささやかな一歩だ。 


 俺はベッドを下りると思い切り伸びをした。


 そんな気持ちを新たに再び異世界での一日が始まったのだが、またもや心穏やかではいられなくなる問題に遭遇するのだった。

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