第232話☆ 罪の意識と罰
次の瞬間、俺の前には奴の灰色の背中があった。
瞬きする間もなく天井まで膨れ上がっていた、黒と紫の煙のドームが真っ黒い影に包まれる。
奴の結界だ。
「てめぇは太陽にでも焼かれて来いっ !!」
カアァッ! と、凄まじい閃光が走って思わず目を瞑った。
だが瞼ごしにその光が急速に収まったのを感じて目を開くと、そこにはもうあの球体は若頭ごと無くなっていた。
部屋のカーペットや天井、床にもあの瘴気の欠片は残っていない。
ナジャ様が結界を張るのが速かったせいだ。
ちょっとでも遅ければ、きっとまわりを浸食していたに違いない。
「ヴァリアス……」
助かったのか――
白黒逆転した眼になった、悪魔ヅラがこちらに振り返った。
「一応、無事なようだな」
俺を頭からざっと視ると、そのまま横で四つん這いになっているキリコの傍に屈んだ。
顔を上げようとしたキリコがまた咳き込むように口を開けたが、出てきたのは咳ではなく、ヒューヒューという空気が洩れる音だけだった。
するうちに奴の首筋からも顔に、黒紫な血管のような模様が浮かび上がって来た。
ヴァリアスがキリコの頭に手を置いたからだ。その手も今やどす黒く汚染されている。
黒い血管が今にも破裂してしまうのではないかと思うほど、一気に膨れ上がった。
しかし奴が歯を鳴らすと、浮かんだ血管はまた平坦になり、やがて色は消えていった。
「ハァーーー……」
キリコが息をついた。顔色が戻った。
「クッソっ、
奴が吐き捨てるように言うと、今度はナジャ様の方に向いた。
「お前さんっ よく来っ デェッ !!」
ゴンッ! 少女の頭に拳骨を喰らわした。
「イッ、
「ヴァリアスッ! 何すんだよ! 女に手を上げるなんてっ」
それでもかなり手加減はしていたようだが。
「ふっざけんなよ、ナジャ! てめぇ、オレがいない時にアイツを会わせやがって。
コイツに瘴気が微塵でも触れたらどうなるか、百も承知してんだろうがっ!
ノリで連れて来るんじゃねぇっ!!」
また轟くような怒声が響く。
叩かれた頭を両手で摩りながら、ナジャ様が涙目で俺の足元にしゃがみ込む。
「ゴメンよぉ~……。最近、大丈夫だから平気かと思って……。ビトゥもソウヤを見舞いたいって言ってたし……」
「それが危ねぇんじゃねぇかっ。蒼也がこんな時だから、アイツのネガティブスイッチが入っちまうんだろうが。
それっくらい『知』の奴が分からなくてどうするっ!?」
「もうそれくらいにしてやってくれよ……。ナジャ様だって俺のこと庇ってくれたんだし」
言いながら俺はナジャ様の頭を撫でていた。
なんだか、神様の使徒というより、つい普通のドジな女の子のように思えてしまったのだ。
キリコの方を見ると、どうやら毒が消えたらしく、ふらつきながら立ち上がってきていた。
解毒したのか。だけどいつもとやり方が違う。
「ヴァリアス、毒を抜いたんじゃないのか? それにしてはガスが出ないが」
「そんなことしたら、また撒き散らしちまうだろうが……」
奴が凄く不味いモノを喰ってしまったというように、極悪に歪めた顔でこちらに見た。
「え…… そのまま吸収したのか? 大丈夫なのか、それ?」
いくらこいつでも、さっきの様子からしたら相当な毒なんじゃないのか。
それに答えずにキリコの方に向くとまた怒鳴った。
「お前もだっ キリコッ! オレのいない間はお前が蒼也を守るんだろうがっ。
それが真っ先にやられてどうするっ !?」
「…………面目ありません……」
こっちの金髪もしおしおと頭を下げる。
今度は自前の青筋を額に立てながら、奴がドスンとソファに座った。
「……あー、クソっ……戻ってくるなりひでぇモノ喰わせやがって」
いかにも忌々しそうに唸ると
「キリコ、口直しに ――― コーヒー淹れろ」
「え、あっ はいっ!」
あたふたとまわりを見回してから、申し訳なさそうにキリコが俺の方に顔を向けてきた。
「ソーヤ……すみませんが、コーヒー持ってますよね?」
どうやらキリコは酒と食材は備蓄しているが、コーヒー類は持っていなかったようだ。
「だけどよくこのタイミングで帰ってきてくれたねー。もうお説教はおわったのかーい?」
ナジャ様がさり気なく、俺の腕に寄りかかりながら訊いた。
「ナジャ、お前は切り替えが早すぎるんだよ。少しは殊勝に反省しやがれ。
あと蒼也からも離れろ」
ちょっとむくれながら、少女は奴の向かいに座り直した。
「途中で抜けてきた」
奴がいつも通り、ガラの悪い足の組み方をしてふんぞり返る。
目の色は元に戻っていた。
「この部屋にいた(運命の)天使どもが、慌てくさって飛び込んできたからな。なんかあったってピンと来るだろ」
「あ~、あいつら、ただ逃げただけじゃなかったのかぁー」
少し納得顔のナジャ様。
「途中って、勝手に出てきちゃったのかい?」
俺も結局いつも通りの奴の隣に座った。
そんなお叱りの最中に抜け出てきたら、尚更マズイんじゃないのか?
「いや、どうせ罰は言い渡された後だった。
ス
もう一周済んでんだからいいだろ」
それから軽く首後ろを摩った。
「それにしてもさすがは我が主だぜ。オレがすっかり忘れてた過去の件、全て覚えてた。
いやもう、頭が痺れるぐらいの情報量だったぜ」
それだけやらかしてたって事だな、あんた。
でも俺は少し心配になった。
「罰って、やっぱり何か処罰されるのか……?」
グッと奴の眉間にシワが深く現れ、凶悪ヅラに恐ろしい陰が増す。
「そういや、リースの奴が文句言ってたぞ。
アイツ、オレがスピィラルゥーラ様に直で怒られたのに、自分は
知らねぇっつーんだよ」
話を逸らしたな。
「リースさん、楽しみにしてたのに残念でしたねえ」
向こうのサイドテーブルでキリコが、挽いたコーヒーにお湯を注ぎながら頷いた。
コーヒーのふくよかな香りが漂ってくる。
「ケケケ、だからそれじゃ罰にならないだろー。あいつ、スピィラルゥーラ様に遊ばれてるって、なんで分かんないのかねー」
面白そうに少女が笑う。
「そんなこと百も承知だろ、アイツは。
ただ変態だから、ソレ込みで楽しんでやがるんだよ」
サメが鼻を鳴らした。
先程の件が嘘のように今度は仲間弄りをしている。
この切り替えの早さは流石だが、俺は全然納得していない。
「ところで、さっきのオプレビトゥ様はどうしたんだ? あれは……瘴気なのか? どうしてあんなことに……」
それにまた答えず、キリコに向かってあの銅製ジョッキを突き出した。
「おい、こんな小さなカップじゃすぐ無くなるだろ。これに入れろ」
また無視かよ。それにしても相変わらずよく飲むな。
あれ? だけど酒じゃないのか??
たっぷりと濃く淹れたブラックコーヒーを飲みながら、奴が口を開いた。
「ビトゥはな、クソ真面目なんだよ」
本当に癪に触るみたいな言い方だ。
「なんでもかんでも最善を尽くそうとする。感受性も強いし、お人好しだ。共感性も高い。
だから、相手の事を深刻に考えようとする」
それからグッとこちらに向いた。
「そんな奴が人の運命を決めるような仕事を、長年してたらどうなると思う?」
「…………それは責任感じるな……」
俺にはまず荷が重すぎて、始めから出来ないが。
「アイツは壊れちまってるんだ。その重圧でな」
奴が無造作に足を組みなおす。
「それならその仕事向いてないんじゃないのか。……仕事を変えることは出来ないのか?」
運命の使徒という元に生まれたからには、その自身の運命は変えられないのだろうか。
もしや神界から抜けるしかないのかもしれないな。あのネーモーのように。
「お前はオレに運命の全てを織ってもらいたいと思うか?」
「いや、全然っ(キッパリ)」
「だろ ――― って、おい、少しは考えろよな。なに即答してやがんだよっ!?」
つい脊髄反射で出てしまった。いつも思ってるからなぁ。
向かいで腹が痛そうにゲラゲラ笑っているナジャ様を、ムスくれた奴が睨む。
「とにかく適材適所ってことだ。
俺は指導はしてやれるが、ゆりかごから墓場までの筋道なんざ細かすぎて、とてもじゃねえがやってられねえ。
まず性に合わねえ」
その指導の仕方もどうなんだよ、鬼軍曹よ?!
「運命を設定させるなら、とことん相手の事を考える奴に任せたいだろ?
ただ難点なのは、アイツは同調しすぎるとこだ」
「最近出ないと思ってたのにさ、またいつの間にかあんなに
ナジャ様がコーヒーフロートに、キャラメルソースをたっぷり入れながら言った。
「自分の担当した相手が不幸になったら、自分の責任。ソイツが泣いたら虐めたも同様、非業の死でもした時には殺したも同然ってな。
全てがそんな感じだ」
どれだけバランス良く運命を設計してやっても、結局本人の動き次第で詰むときは詰むのになあ、と奴が空になったジョッキを置いた。
「……それはちょっと考え過ぎなんじゃないのか? そこまで責任を感じなくても……」
それは俺でもしょうがないと思うぞ。
彼らは始めから人を不幸にしようとは思ってないんだ。
ただ成長を促すために、どうしても試練という辛苦のスパイスも入れなくてはいけない。それがいざ人生が動き出すと、思っても見なかった方向に転がり出したりするのだ。
「他人のことは見えても、自分の事は見えないもんだな、蒼也」
奴がフンと鼻で笑った。
「アイツとお前は似てる。
お前ももっとこじらせれば、アイツと同じように瘴気を出すようになるぞ」
「えっ……そんな大袈裟な! 大体瘴気が出るなんて、もう人じゃないじゃないか」
「いいか、瘴気っていうのはなぁ早い話、負のエナジーなんだよ。
ダンジョンでも見ただろ、あのメラッドの野郎の」
ああ、あの魔物になった男か。
あいつが身に纏っていた黒い霧、あれはやはり瘴気だったのか。
「人を恨んだり妬んだりすると、その気が呪いのエネルギーになったりするが、お前やビトゥみたいなマジメな奴も同じなんだよ。
自分で自分を呪っちまう。自分を許せなくてな」
「……俺はそんな真面目じゃないよ。善人でもないし……」
そうだよ、俺は結局、他人から恨まれたくないだけなんだから……。
「何もしない善人と、自己満足のために施しをする偽善者がいたら、どっちが結果を出せると思う?」
そう言って奴は深く背をソファに持たせかけた。
「まっ、オレは結果を出そうが出せまいが、行動した奴が正しいと思ってる。
だからキリコ」
急に名前を呼ばれて、お代わりを淹れていたキリコが一瞬身を硬くした。
「お前はさっき、まず一番に結界を張らなくちゃならなかった。そうすれば毒も受けなかったし、2人なら奴の瘴気をもっと上手く抑えられたはずだ。
だが、体を張って蒼也を守ろうとしたのは評価してやる。よくやった」
「副長……」
口に手を当てて、キリコは目を潤ませた。滅多に聞けない上司からの労いの言葉なのだろう。
お世辞にも理想の上司じゃないけど。
「あーあ、また上手く懐柔されてるよー。まあ、本人が良いなら別にそれでいいけどねー」
ナジャ様が軽く肩をすくめた。
「お前がアイツを連れてきたのは忘れてないからな! 用が済んだんならさっさと帰れっ」
奴が床に下ろした方の足をドンと踏みならした。
「ハイハイ、だけどセラピーが成功したのは忘れないでよー。
見ての通り、ソウヤを元気にしたのはあたいの案なんだからねー」
綺麗にコーヒーフロートを飲み干したナジャ様が、俺の方を見ながら是認を促した。
「それはそれ、これはこれだ」
奴が立てた親指を下に向ける。
不服そうな顔をしながら、少女は掻き消えていった。
「やっと
キリコ、メシ!
叱られまくったら腹が減った。なんか歯ごたえのある物作れ」
言われて召使いキリコが慌ててどこかへ消えていった。
奴がまたイライラしたように、組んだ上の足を揺すったが、ふと思いついたように言ってきた。
「しかし他の生物の死生観を体験させるってのは、結構ありだな」
と、顎に手をやりながら
「今度は動物以外のをやってみるか? 例えば集団生活する花蜂とか、それともそういう概念さえないスライムを経験するのも面白い。
あるいは――」
「断るっ! 絶対に人間以外にはなりたくないぞっ!」
ハッキリ断っとかないと、こいつは絶対にやる奴だ。放っておいたらミジンコの一生までやらされる。
そんなのを体験した日には、もう人として復活出来なくなるぞ。
ここは奴ら流に話題を切り替えねば。
「なあ、さっきの瘴気だけど、本当に大丈夫なのか?
ナジャ様も言ってたが、あれは使徒にとっても猛毒なんだろ。
キリコの様子からしてヤバかったし」
「別に心配いらねえよ。ちょっとクソ不味いモノが五臓六腑に染み渡っただけだ。
もう消化した」
「そうなのか? 本当に?」
俺はあらためて疑いの目をむけた。
こいつは強いことは強いが、それが高じて強がりの傾向もあるんじゃないのか。
こういう奴は弱い所を見せたがらないからなあ。
「オレが以前、ビトゥの奴と組んで仕事したって話はしたよな。
覚えてるか?」
ジョッキコーヒーをグイッと飲み干して言った。
「ええと、確か*土しか食べられない人を保護したって話だったな?」
(*『第25話 下町の宿 赤猫亭』参照)
「そうだ。オレがその保護対象者の食を担ってた。
だが、それ以外にもう一つ、そいつをビトゥの瘴気から守る役目があったんだ」
今みたいにな、と奴が空になったジョッキを見ながら言う。
「さっきの様子で分かっただろうが、アイツの瘴気に対抗するのは生半可な奴には無理だ。
キーラあたりなら爆炎で燃やし尽くせるが、アイツは『火』の使徒。土を食べられるように元素変換する能力はないからな」
キーラという使徒は、以前ちょっかいを出したリブリース様を、炎弾で穴だらけにしたという『火』のヴァルキリーだ。
やっぱり彼女もヴァリアス組なのだろうか。つい余計なことが頭をよぎった。
後に偶然出会った彼女は、やはりトンデモナイ女性だったが、それはまた別の話だ。
「それって今みたいな事が度々起こってたのか?」
「あそこまで酷くねえよ。ホンのたまに溜息が漏れるぐらいだ。
だが、それでも下位の天使が一発で倒れるくらいの毒性はあるからな。オレも注意して出たら即燃やすようにしてたんだ。
まっ、オレと一緒だと、アイツもあまりスイッチが入らなかったってのもあるが」と、顎を摩った。
確かにあんたなら、ネガティブスイッチなんか蹴り飛ばしそうだからなあ。
だけど若頭、とんだリーサルウェポンだったんだな。
真面目なヒトだけにまさに気の毒だが……。
「まあアイツのおかげで減刑されたから、これでチャラだな」
俺はこの奴の呟きを聞き逃さなかった。
「あんた、もしかして、言い渡された罰って…………もしかして『禁酒』?」
グッと奴が、何か飲み込めないモノを喉に詰まらせたような顔をした。
「ブッ ふぅっ! 本当にそうだったのかっ」
笑っちゃいけないとは思ったが、さすがに堪えられなかった。
確かにこいつから酒を取り上げるのは、一番罰として効くだろう。
さすがは
「こっちは全然面白くねぇぞっ! ただでさえ昨日から飲んでないんだからな」
ドンっと、むすくれた奴が乱暴にテーブルの上に足を投げた。
「だけどあんたも、ちゃんと罰は言われた通り守るんだな」
俺もナジャ様みたいについ笑いを堪えながら言った。
「そりゃあ当たり前だろ。オレは神の使徒なんだぞ。
ったく、こんな事なら行く前に飲みおさめしとくんだった」
「でも、減刑されたんだろ?」
「まあな、始めは7日間だったんだが、ビトゥの奴がスピィラルゥーラ様に嘆願したおかげで3日に減刑された。
だからあと2日と9時間だ」
「なんだ、たった3日か。それくらい―――」
ギロッと奴が殺意を込めた黒い目で俺を見た。
「お前ぇ……3日間息をするなと言われたら、耐えられるか」
「えっ……そんなになのか……?」
本当に(気化した)アルコールで息してるのか? それはもうアル中の域なのじゃ……。
「あんた本当に、
「正真正銘の『
そうなのか。
しかしあんた、破壊神の使いと言ったほうがすんなり……。
俺は言葉を飲み込んだ。
するとムッと目を逸らした奴が、今度はドアの方を見て言った。
「――アイツ、起きるぞ」
「えっ! 起きるって、ヨエルが!?」
俺は思わずスエットのまま廊下に飛び出した。
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