《 ダンジョン・マターファ 第3日め それぞれの終わりと始まり 》
第210話☆ 捨てゆく者の哀歌 と 情報屋
眩い光の中、いくつかの揺らめく影が俺を取り囲むように覗き込んでいた。
そのうちの一番大きな影が何か囁いている。
――ね………… ぉめんねぇ ………… ――
なんだろう。とても辛くて悲しそうなオーラが揺れている……。
――目を開くと、梁が汚れた見慣れない木張りの天井が見えた。
小さな豆電球のようなオレンジ色の光玉がポツンと宙に浮いていて、中を薄暗く照らしている。
そのまま目を動かすと足元の方には閉じられた窓、その右側に小テーブルらしきものがあるが、上には乱雑に紙やコップ、木皿などが積まれている。
右に顔を動かすと、5段の使い込まれたチェストあり、その上に無造作に見た事のある衣服が引っ掛かっている。
またその足元には洗濯物なのか、籠の中に丸めた服らしき布が入っている。
煉瓦造りの壁には大きな木製ボードが掛けられており、そこにメモやら、何かの切り抜きやら、または女性のピンナップっぽいイラストがピンで留められていた。
え……? ここは宿屋じゃなさそうだ。ラーケルの役場の客室でもない。
誰かの部屋?
なんで
顔に手をやろうとして、袖口が目に入った。
あれっ 俺、スウェットに着替えてない?
毛布をめくらなくても、ジーパンのままなのがわかった。
頭の上でいつものバストーンがした。
「やっと起きたか」
光玉が大きくなって部屋の中を明るく照らした。
今度こそ目が覚めた。
「ヴァリアスッ! なんで俺、寝てるんだっ?! ここはどこだっ?」
俺は跳ね起きて後ろに振り返った。
ベッドの頭側の壁に奴が寄りかかっていた。
いつもの光景だ。
「脳虚血で倒れたから連れてきた」
さも当たり前のように答えてきた。
夢と混ざっていた記憶がだんだん蘇ってきた。
そうだった。俺はゴーレムと対峙していて……。
「低い体勢から急に頭を上げたら、立ち眩みするのは当たり前だろ。しかも、あんな強い重力にさらされた直後に、すぐ立ち上がるからだ。
簡単に言っちまえばブラックアウト、貧血だ」
「貧血って……」
あのタイミングで貧血で倒れるって、なんだか恥ずかしい……。
「しょうがないだろ、あの状況で―――あっ! 皆はどうしたっ ?!」
「まだダンジョンの中だ」
悪魔がサラッと恐ろしい事実を言った。
わかってはいたが、あらためて言われると胸が冷える感じがした。
「今、何時だっ? あれからどれくらい経ったんだ?」
「お前が倒れてから7時間と23分ってとこだな。今は夜中の1時半あたりだ」
「しち……って、俺、そんなに寝てたのか。そんな貧血くらいで……」
え、ちょっと待ってくれ、それじゃあ――色々と頭の中が混乱する。
「疲れてたからだろ。魔力と体力はまだ余裕があったが、神経が摩耗していた。
ピクリとも動かず寝ていたぞ」
奴は手前の椅子を引き寄せると、どっかりと目の前に座ってきた。
「待てよ、おい、じゃあアレからそんなに時間が経ったって事なのか?!
皆は無事なのかっ? ヨエルは?」
「それは自分で確かめろ」
冷たい言葉が返って来る。
この野郎……。全部知ってるくせに…………。
しかし奴は、俺の身近な人の運命に関してはあまり詳しく語らない。
それによって俺がむやみやたらに気をもんだり嘆いたり事を避けるためだ。
安否が分からないのもすごく不安だが、とにかく皆はまだダンジョンに取り残されているんだな。
「わかった。じゃあ自分の目で確かめる。ダンジョンに戻るぞ」
「今すぐにか? あと半日もすればだいぶ落ち着くぞ。
そうすれば潜るのが楽になる」
「半日も待ってられるかよ。すぐにみんなを助けに行かないと――」
「お前にそんな力があるのか?」
ズイッと奴が銀色の目で睨むように顔を寄せてきた。
返す言葉がなかった。
俺の力不足のせいで、皆を危険に晒した。
それどころか、ヨエルは俺をかばってハンターにやられた。
いや、ずっとだ。
ダンジョンに入った始めから、ずっと彼に頼り切っていた。
彼の手持ちの薬を使い切り、彼に余計な面倒をかけ、彼の命を削った。
俺は死なないのに……苦しいのが怖かったから。
俺のせいだ……。
頭を垂れた俺に奴がまた話しかけてきた。
「それにあの
「――それは、あの時はしょうがなかった。誰でもそう思うだろ……」
「お前は置いてかれた方の身だけどな。
だからこっちも、そうしたまでだ」
冷えた声が続いて言った。
それにはムッとなった。
結果的には俺が彼女達を置き去りにしてきている。
「嘘つけっ! どのみち助けるつもりはなかったんだろ。
人の運命に関わる事は、手出し出来ないって言ってたじゃないかっ」
「あのまま最後までお前を助けようとしたなら、お前を保護する名目で一緒に出してやる気もあったんだがな」
奴が組んだ足を組み替える。
いけしゃあしゃあと言いやがって、本当だか怪しいもんだ。
「結局は、自分たちの身の可愛さが勝ったって事だ」
「そんな事ないぞっ!」
俺はつい大声を上げた。
「俺が行ってくれって頼んだからだ。あのままじゃ全滅する可能性が高かったし……」
――― デジャヴなのか、あの時のパネラの顔が、誰かと重なる気がした。
「パネラは、凄く辛そうだったぞ。絶対、俺を助けたかったはずだ。
それにエッボだって、
俺を助けようとして、ああなったんだぞ。
それに―――」
―――――― ごめんね…… ソーヤ…… ――――――
あの時、パネラは俺を見て、泣いていた。
助けられない己の力の無さが悔しいのか、俺を見殺しにしなくてはいけないことが辛いのか、それとも両方なのか。
とにかく酷く悲しい顔をしていた。
俺は以前にも、こんな顔を見た気がするのだ。
映画とかではなく、生で現実に。
誰かを捨てなくてはならない苦悩の表情を……
―― あ ―― さっきの夢 ――!
囁いていた言葉がハッキリ思い出された。
それはこう言っていたのだ。
……ごめんね、ごめんね……わたしの赤ちゃん…………育てられなくて本当にごめんなさい……
―――――― 母さんっ ?!
いや、そんなハズはない。
養子に出したのは俺が生まれてすぐと聞いている。
そんな赤ん坊の俺じゃ、記憶どころか、目だってよく見えていないはずだ。
それにパネラとは全然、顔が違う。
だけど……何故かそう考えると、とても自然としっくり感じられた。
54年前の病院の一室で、母さんは俺を抱きしめながら、ひたすら俺に向かって謝っていた。
何故かそんなイメージが頭に浮かんできた。
確か奴が、母さんは迷ったが結局、養子に出す事にしたと言っていた。
きっと、いっぱい悩んでくれたんだ。
だけどそれでは親子で共倒れになるから俺を手放した。
本当は俺がいらなかったわけじゃない。
そうしないと、幼かった俺まで不幸になるかもしれないと思ったからだ。
すんなりと確信できた。
人が人を手放すのは、どうしようもない時だってある。
それはとても狂おしいほど辛く、哀しいオーラを発する。
それを生れたての俺は覚えていたんだ。
俺は捨てられたわけじゃなかったーー
…………お母さん……俺のほうこそ恨んだりして…………ごめんよ……
「……ヴァリアス、言っとくが、あの場合あれが最善の方法だったんだ。
決して俺は、……見捨てられたわけじゃないぞ」
少し声が震えそうになるのを必死で抑え込んだ。
もう何度、奴に泣き顔を見られた事か。いい年の男が恥ずかしい。
しかし何故か奴に対してだけは抵抗感がなかった。
「まったくお前は、本当に甘ちゃんだな」
「なんとでも言えよ……。この性格はなかなか変わらないぞ」
俺はムスっとしながら鼻を啜った。
「フッ、じゃあ戻るとするか」
白い牙が微かに笑った。
「取り敢えずこれ飲んどけ」
奴がそう言って中ジョッキサイズのカップを出してきた。
中には例の特製薬膳ジュースが入っている。
「えっ、今飲ます気なのか」
「お前は10時間以上、水分も栄養も摂ってないだろ。これから救助に向かう者が体を整えないでどうする」
水分はしょうがないとして、体力は直せるんだろ?
絶対に理由をつけて、この
「それに今さら少しくらい遅れても事態は変らん」
む~~っ ……仕方ない。
ベッドに座り直そうと足を降ろすと、足元にあった木製の丸筒が転がった。床にも桶やら手箒やら細かい生活雑貨が転がっている。
なんかベッドのサイズといい、まさしく独身男の1人部屋と言った感じだ。
「ちなみにここはどこだ? 誰の部屋なんだ」
今更ながら訊いてみた。
「情報屋のだ。アイツは今、上階にいる」
チコの? 上って―― 俺はそこであらためて建物を探知した。
ここは例の情報社『フォックス・カンパニー』のある建物だった。
会社はここの最上階7階にあるが、雑居ビル的に色々なテナントが入っている他、個人宅の部屋も結構あった。
会社のすぐ階下、ここ6階にチコの部屋があったのだ。
「という事はここは『バレンティア』か」
王都近くの町バレンティア。
奴ならひとっ飛びにラーケルの我が家まで帰れるのに、わざわざここに運んで来たということは、やはり俺が戻る事を見越してだろう。
「あれ、という事はここからまたダンジョンまで、自力で行かせる気か?」
行かれない距離じゃないだろうが、今は急ぎたいんだが。
「本当はそれが一番良いんだが、多分お前じゃ無理だろうな」
奴がワザとらしく小首を傾げる。
「じゃあマターファに戻る前に、ギルドに寄るぞ」
俺はベッド下に転がっていた靴を履きながら言った。
「こんな夜中じゃ薬屋はやってないだろうけど、ギルドなら開いてるだろ。
そこならポーションぐらい置いてあるはずだ」
エッボもそうだが、まずヨエルの状態も心配だ。薬が沢山いる。
ギルドは緊急などの事態に対処するため、24時間やっているのだ。
「まあそうだが、今は緊急事態だから、行ってもまず売ってないぞ。
有事の際はポーションや魔道具類を、まず派遣する兵に優先するからな。
個人には融通しない」
「なに?」
奴が俺のおでこにすっと手を伸ばしてきた。
すると一気に俺の頭の中に、全体の状況が流れ込んできた。
――な、な、な――!!?
俺が知らないところで、色々な人達がこの変事に絡み、想像以上に大きな災禍に広がっていた。
そしてこの町に最も近いアジーレ・ダンジョンでも恐ろしい大災害が起こっていた。
そのためにこのバレンティアや王都一帯は、もっか外出禁止という戒厳令がしかれた状態だったのだ。
「あっちもこっちも……くそっ……」
俺は額を摩った。
マターファの変動は、アジーレからのエナジーの供給が大きいが、それを悪用したのはサーシャ達だ。
そのサーシャ達を追ってきた兵士達の妨害工作のせいで、緊急脱出スポットが使えない状態になった。
そうして事のキッカケを作ったアジーレの災厄を招いたのは、これまで
「……全部、人災なのかよ……」
奴が見せた情報だからだろうか、人の俺にも事の繋がりがそのように感じられた。
「まあそういうことだ。ツケは必ず廻って来るもんだ。しかも利息つきでな。
それでも救う価値があると思うか?」
奴が椅子にふんぞり返りながら言った。
「当たり前だ。いくら人のせいだったとしても、関係ない者まで巻き込まれてたまるか」
つい憤慨したが、 奴の情報でおかげで簡単にサーシャのこれまでの生い立ちも知った。
数奇な運命の波に呑まれながら本当の自分を見つけ出し、最後まで自由に自分らしく逝った女。
美貌以前に、カリスマ的な魅力のある女性だった。
彼女の胸に咲いた薔薇の花は、現実はとても残酷なのに、何故か俺の記憶には美しい終美の一場面として残っていた。
そうしてあの小さな男、フューリィの過去も。
彼も奴隷として少なくない辛い過去があった。
額の刺青は奴隷紋を隠すためだったが、左肩の青紫色の蝶のような刺青は、実の父親との繋がり――痣を消す為だった。
そこまで実の親を拒絶する怒りを持つとは……。
そんな世の全てを憎んでいた彼も、サーシャによって救われていた。
現実には勧善懲悪とすっぱり切り分けられるものじゃないんだなあ。
だが彼はあの番人に連れていかれてしまった。この情報は彼らが亡くなったせいで、番人からもたらされたモノだった。
やはり地獄に堕とされてしまったのだろうか。
「いや、あの2人は今、
というか、ダンジョンの主として力を貸したようだ。
生きている奴の運命には手出し出来ないが、死んだ奴なら関与できるから」
俺の呟きにあっけらかんと奴が答えた。
「え、力を貸したって、どういう事だ? まさかまた厄介な者になって出て来るんじゃんないだろうな」
「さあな。まあアイツならそう悪いようにはしないと思うぞ」
本当かよ。いくら美人でもアンデッドは嫌だぞ。
とにかく今は亡くなった者達の事ではなく、生きている者たちの心配だ。
チェストに引っ掛けてあったチュニックを羽織ると、ポケットにオレンジ色をした編んだ太い紐のような物が入っているのに気がついた。
パネラの髪の毛だ。
髪には古来から力が宿るというが、それには哀しさと優しさの入り混じった、なんとも言い表せない『
パネラ、こっちこそごめんよ、置いて来ちまって。
絶対に助けるから、なんとか頑張っててくれよ。
ヨエルとエッボも、本当に頼む、無事でいてくれ。
俺は彼女の髪を握りながら、つい祈った。
ダガーを下げるベルトをつけるのももどかしく、階段を上がった。
さすがに一言の礼もしないで出ていく訳にはいかない。
『フォックス・カンパニー』ではチコ以外に、店長と他3人の男達が忙しく仕事をしていた。
俺が真夜中なので小さくノックしてから入ると、こちらに向かって机で作業していたチコが顔を上げた。
「おんや、ソーヤさん、起きられたんですかい」
その声に店長と他の男たちも顔を向けてきた。
「ええ、部屋をお借りしてすみませんでした。すぐに出ていきますので」
「えっ? 出ていくって、そりゃあ無理ですぜ。旦那は知ってなさるはずだけど」
チコが目を白黒させて、俺とヴァリアスを交互に見た。
「オレはそう言ったんだが、蒼也がマターファに戻ると言って聞かなくてな。
だからしょうがねえだろ」
奴が大袈裟に肩をすくめてみせる。
「うっへぇっ! あそこへお戻りなさる気でっ!?」
奥で話を聞いていた店長が、咥えていた巻き煙草をうっかり落して、慌てて机の上の原稿を
何故、こんな真夜中に彼らが仕事をしているのか、ヴァリアスの情報で俺は知っていた。
実はヴァリアスの奴がチコに部屋を借りる際、暇潰しにマターファでの出来事を話していたのだ。
まったくこいつは、変なとこお喋りなんだよな。もしかして面白がってるんじゃなかろうか。
奴は礼の代わりだと
アジーレで大惨事が起こっている同時期に、お尋ね者サーシャ一味がマターファに逃げ込み、それを追ってきた伯爵の兵達を巻き込んだ大異変が起こった。。
しかもまだ他にこの情報は漏れていない。
これは大スクープだ。
急遽チコが奴の話を元に原稿を書き、店長兼編集長が校閲し、字の綺麗な者が経木のような薄い木の板に清書して、それを『火』使いの者が文字の部分だけを繊細に燃やして穴を空ける。
孔版印刷(ガリ版など)の版の出来上がりである。
本来は他にもう2人、絵が描ける社員がいるそうだが、この戒厳令のおかげで出社できない状態らしい。
おかげで第一版目は挿絵無しだとチコが残念がっていた。
けれど事が事だけに、公開できるかも分からないネタである。
下手すれば伯爵への不敬罪にもなりかねない危ない内容なのだ。
だが、そこは情報屋のサガ。
もし大丈夫そうならすぐに刷れるよう、没になるかもしれないネタの原版をこうして徹夜で作っているのである。
「大体の経緯は聞いてやすが、いくらなんでも無茶じゃござんせんか?」
チコが立ち上がってこちらにやって来た。
「こちらの旦那がご一緒でも……その、やられやしたんでやしょ?」
心配してくれてるのか、おずおずとこちらを見る。
「コイツは貧血でぶっ倒れただけだ」
「やめろっ。貧血って言うな」
それじゃただの病弱にしか聞こえねえ。
「うへぇ」
チコがまた目をしばしばさせた。
そこで俺は厚かましいとは思ったが、更にチコに頼みこむことにした。
「チコさん、もしかしてこちらに傷薬とか、キュアポーションがありませんか?
本当は店で購入したいけど、真夜中だからやってないでしょう。
お金なら払いますから」
「へえ、ポーションですかい」
そう言いながらチコが肩越しに振り向くと、店長が頷いた。
「へ、へぇ、少々お待ちを」
すぐさま壁際のキャビネットに小走りにいった。
良かった。譲って貰えそうだ。
しかし戻って来たチコは申し訳なさそうに、小さな小瓶を1つだけ差し出した。
「すいやせん……。ウチも今これしかないようで」
そうローポーションを渡してきた。
これでは簡単な打ち身くらいしか効かなさそうだ。
しかし無いよりはマシか。
俺は礼を言って、お金を出そうとした。
「待ってくれ。もしかすると、もう少し調達できるかもしれない」
窓際の席から店長が立ち上がりながら言ってきた。
「チコ、アンバーんとこに訊いてみろ。あそこなら多少なりともあるんじゃないのか」
「あ、へぇっ、そうでやすね。その手がありやしたか」
チコが軽く手を叩いた。
「その、アンバーさんって薬剤師か何かなんですか?」
そうだったら期待出来そうだ。
「いいえ、奴さんはここ1階の居酒屋の店主でやすよ」
居酒屋? 何故そこのマスターが? しょっちゅう怪我でもするのか。
酒場には喧嘩と悪酔いは付きものだ。
だからそういう店には客のためにポーションを常備しているところが少なからずあるようだった。
そういえば俺も以前、ダリアに
というわけで、3人でそのアンバー氏に頼みに行く事にした。
彼の住まいは居酒屋のちょうど真上、2階の角部屋だった。妻と2人暮らしだという。
「アンバーの旦那、チコだよ。夜中に済まないが急用なんだ。開けてくれよ。アンバー」
始めはまわりに気を使って、軽くドアをノックしていたチコだったが、なかなか反応がないので、ドアの隙間に顔を近づけながら声もかけ始めた。
中を探知すると、居間を挟んで隣の寝室に、太った初老の男と負けずに太った中年女が大きなベッドでグウグウと深い寝息を立てていた。
うう……寝てるところ申し訳ないが、とにかく急ぐのだよ。
俺は心の中で謝りながら、男の分厚い肉付きの肩に、圧縮した空気の塊りを当てて大きく揺すった。
ヨエルがよく使っていた風の使い方だ。
「ん、が、ふがぁ……あ……?」
やっと目が覚めたアンバーが、ノック音に気がついたようだ。枕から顔を上げた。
そこで効率よくチコの声が聞こえるように、空気の振動を男の方角一方に伝わるように向ける。
音魔法ならば、直接耳元に音を送れる事もできるのだが、俺にはまだ『音』は発現していなかった。
そんなふうに手持ちの魔法を考えながら応用する俺を見て、奴が隣で少し嬉しそうに頷いた。
まったくいつでも教育モードだな。
「……チコか? どうしたあ、こんな夜中に……」
寝ぼけた声を出しながら男が、小さな光玉を手前に出すと、寝室から居間の方にやって来た。
「遅くにすまねえ、実は――」
「ヒッ!」
ドアを開けた途端アンバーが固まった。
それはそうだろう。
知り合いのチコだけかと思ったら、後ろに見知らぬ男が一緒に立っていたのだ。
しかもバックの廊下は暗く、彼の持っていた光玉の明かりで凶顔が陰影を作りながら照らし出されたのだ。アンド、目も光っている。
もう彼にしてみたら、チコが強盗に脅かされて手引きしたとしか思えないだろう。
「うへぇっ、アンバーの旦那、ビックリさせちまってすまねえ。
だけど、のっぴきならねえ急ぎの用があるんだよ」
ドアの前で腰を抜かしている太った男にチコが手を貸そうとした。
「夜分に本当にすみません。でもこちらにポーションがあると聞きまして。
あればぜひキュアポーションを分けて頂きたいのですが」
俺も屈みながらお願いした。
「ポ、ポーション??」
まだ尻もちをつきながら、男がヴァリアスに向かって、祈るように首から下げた光の
無理もない。真夜中にこいつがいきなり来たら、誰でも世界の終焉が頭をよぎる。
そのヴァリアスは男を見下ろしたまま、おもむろに指を弾いた。
ぽふぽふっと、アンバーの突き出た腹の上に金貨が数枚落ちた。
「お前んとこに赤ビールがあるだろ。アレもついでにひと樽貰おうか」
店長の機転とチコとアンバー氏のおかげで、ハイポーション3本とローポーション5本が手に入った。
取り敢えずこれで何とかなるだろうか。
こんな真夜中に突然ポーションを分けてもらいに来た理由を、チコが咄嗟にでっち上げた。
曰く、帰れない客たちが暴れて怪我人が出たが、警吏の厄介になりたくない、穏便に済ませたいウンネン……。
もう絶対に暴れた奴はこいつだと思われているだろう視線をまったく気にせずに、奴はさっさと1階倉庫から出したビール樽を収納した。
「チコさん、どうも有難うございます。
私たちこのまま行きますので、店長さんにもよろしく言っておいてください」
2階でアンバー氏と別れた後、急く気持ちを抑えつつ俺は言った。
「へえ、だけど、どう行きなさるんで? 外は警吏がまだウロウロしてるはずですし、門だって開けちゃくんねえと思いやすが」
「来た時と同じだ。そんなことどうって事ない」と奴。
「うへぇっ」
チコが首をすくめるようにした。
また戻って来たらぜひ寄ってくれと、手を握るチコと階段の踊り場で別れると、俺はヴァリアスに向き直った。
「さあ、早くダンジョンに連れてってくれ」
すると奴は右手でピストルを打つように、こちらに人差し指を向けて
「一応言っておくが、この先お前は更に地獄を見ることになるからな。
もし途中で逃げ出したくなったら、遠慮なく言え。
お前だけならいつでも出してやるから」
「ギブアップなんかするか。地獄ならもう見てる」
この時俺は本気でそう思っていた。
だが本当の地獄はこれからだった。
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