第207話☆ 待つ女 エイダの恋


 ああ、エイダの話だけで長くなってしまいました。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




 遠くどこまでも響くように、閉門前3の鐘が鳴った。

 晩夏のこの頃、閉門時間は6時30分頃になっている。だから今時間は5時ぐらいだ。

 

 ここ王都でも、通常ならこの時間、人々の声や荷馬車などが行き交う車の音などが絶えずするものなのだが、今や外は深夜のように静まり返っている。

 窓から街路を眺めても、人っ子一人歩いていない。

 たまに姿を見せる警吏を除いては。


 バレンティアに近いダンジョン『アジーレ』で、未曽有の災害が起きた。

 聞いたところによると、なんとホールに大きな穴が開いて沢山の人々を飲みこんだというのだ。


「何それ? ダンスホールの床じゃあるまいし」

 エイダは、興奮気味に話す客の話をすぐに信じられなかった。

 しかもあろうことか、外にガーゴイルまで現れたというのだ。

 

 ダンジョンなどに縁の無い一般人のエイダでも、『アジーレ』が初級ダンジョンだという事は知っている。

 そんな危険な魔物がいるわけがない。

 隣に座る馴染みの情婦も、ついこれには大きな声をたてて笑ってしまった。

 客の思い切りのジョークだと思ったのだ。


「嘘じゃねえよっ! おいら本当に見たんだって!」

 今日は王都近くの町バレンティアの『建立記念祭』最後の日として、そのダンジョンでも1日限りのイベントが行われていた。

 この日だけイルミネーションに飾られた魔の洞窟を興味本位で見てみたいと、普段ダンジョンなんかとは無縁の人々が大勢押しかけていた。


 エイダも本当は行きたかった。

 しかしヨエルが、どうねだっても行きたがらなかったし、結局当日は仕事になりデートは昨日となった。

 今日も休みは取っているが、1人で祭りの中を歩くのもつまらないので、こうしてまた店の食堂で客の話を聞いていたのだ。


 この常連客も物見遊山でダンジョンアジーレを見に行ったらしい。

 そこで惨事を目撃した。

 パニックの渦に巻き込まれる前に、慌てて逃げて来たのだそうだ。

 本当はバレンティアに家があるのに、ダンジョンに近い町に帰るのが怖くて、ここ王都の馴染みの店に逃げ込んで来たらしい。


 疑われて憤慨する客の言葉を商売上 頭から否定する事も出来ずに皆が苦笑いしていたところ、聞きなれぬ音が響き渡った。

 時の鐘と違い『カァーンカンカンカン……グォーングォンゴォンゴン……』と早いテンポで打ち鳴らされる。

 警鐘の音だ。


 何事かと騒めく人々の声に混じって、やがて警吏や兵達の怒鳴るような大声があちこちでし始めた。

 やがて店にも警吏が現れ、店から出ないようにと告げていった。理由を尋ねると「アジーレで事故が起こった。安全が確認出来るまで外に出るな」とだけ言った。


 大体王都近くのダンジョンとはいえ、ある程度距離がある。

 客も馬車でここまでやって来た。何かが起こったにしても、そんないきなり外出禁止令までは流石におかしい。


 だが、それが本当に客の言う通り、空飛ぶ魔物が出現したのだとしたら話は別だ。

 それなら短時間で近隣の町や村をもおびやかしかねない。

 そのおかげでここ王都でも、外出禁止令が敷かれてしまった。


 行かなくて良かった。

 エイダは内心胸を撫でおろしていた。

 彼が断固として断らなければ、エイダ達は今日その災害に巻き込まれていた可能性は高かったのだ。

 からくも難を免れた感がある。


 その彼は今、仕事で別のダンジョンに潜っているはずだ。

 素人にはよくわからないが、こんな状況なら地上より安全かもしれないと思う。

 ヨエルは、やはりハンターとして危険な予感でも嗅ぎ分けるのだろうか。

 

 あのアクール人ヴァリアスが今日までの3日間を買い取ってくれたように、ヨエルが追加で明日と明後日の2日分の前払いを入れてくれた。

 おかげでエイダは明日も自由な身だ。

 

 別に来れない日まで買わなくてもいいのに。

 彼女はそう言ったが彼は笑って、早ければ明後日の夜には来れるかもしれないと言った。


 狭い個室に戻り、ベッドの上に転がりながら考える。

 

 13年前彼女の両親と姉は、国中を襲った黒死病という死神の鎌に引っかけられていった。

 あっという間に家族がいなくなって、エイダは11歳で独りぼっちになった。

 親が最後の頼みの綱に伝えてきた親戚の家に行く途中、道を尋ねた親切そうな商人が連れて行ってくれると彼女の手を取った。

 男は奴隷商だった。


 僅かな持ち金を盗られた上、ありもしない借用書を作られて、エイダはこの『青い夜鳴き鳥亭』に売られた。

 奴隷制が廃止のこの国でも、借金返済のために労役を科せられるのは合法だ。

 それがたとえ騙されたものだとしても、善意の第三者には何の罪もないのだから。


 僅かな救いはこの娼館『青い夜鳴き鳥亭』が、比較的良心的な店だったこと。

 何しろ客をとらせるのを、彼女が成人――15歳になるまで待ってくれた。

 

 ただ他の店同様、生活費として普段かかる衣食住の費用も借金に上乗せされた。もちろん利息も発生する。

 厨房や掃除・雑務など、小間使いとして働いても負債は増える一方だった。

 だから彼女が本格的に客をとるようになっても、借金はなかなか減らなかった。


 だがしばらくして彼女は、それでもいいかと思えるようになっていった。

 始めは嫌でしょうがなかったこの商売も、慣れてくると悪くもないと思えてきたのだ。

 諦めて運命を受け入れると、案外と店主やまわりの女たちは気さくで人柄は悪くなかったし、新参者のエイダに優しく世話してくれた。

 ある古参の娼婦は、『あたし達の仕事はお客さんに癒しを与えるんだ。別に後ろめたいことなんかありゃしないよ』と開き直るように豪語していた。


 確かに気に入らない客はいた。妙に怒りっぽかったり、変態的な事を強要しようとする輩も稀にいる。

 しかしそういう客はこの店のカラーに合わない。すぐに護衛のボーイが外に放り出してくれる。


 そういう事がやりたいのなら、その筋の店に行くか、もっと路地裏か場末の店に行って多めに金を払えばいいのだ。

 ここ王都の公娼街の店々は一応高級娼婦館なのだから。 


 それにすでに中堅どころになっていたエイダには、何人か常連がすでについていたし、ある程度客を選べるようになっていた。

 そうしてこのまま順調にいけば、あと2,3年以内には借金は返せそうな見通しがついてきた。


 となると、次に彼女の頭を悩ませたのは、ここを辞めた後の身の振り方だ。


 食堂の給仕くらいなら出来そうだが、娼婦をやっていた身で今さら普通の店が雇ってくれるかどうか。

 王都の市民はそういう点ではプライドが高く、娼婦は一線引かれていた。

 田舎の方なら、女給をしながら体も売る娼婦は珍しくないが、知らない土地に独り行くのは勇気がいる。


 そう、彼女はここを出て他所でやっていく自信がなかった。

 それはあっという間に家族や友人を失い、独りぼっちで世間に放り出された時の心細さと淋しさの余韻が、心の奥に微かにまだ残っているからなのだ。


 もう絶対に独りにはなりたくない。

 普段は気の強い彼女も、実は淋しがり屋な面があったのだ。


 あたし器用じゃないから、まずお針子は無理ね。花売りや魚売りも、まず朝早く起きて仕入れに行かなきゃいけないのがまず問題だし。

 早起きは子供の頃から苦手だったけど、なんとか起きられるようになるかしら。それよりもまず商売なんか出来るのかな。


 考えれば考える程、良い方向に進む未来が思いつかない。

 エイダは枕に顔をうずめた。


 年季が明けたら『正妻に迎えても良い』という、年配の常連客がいる。

 以前、その話をヨエルにしたら『良かったじゃないか』と素っ気ない反応だった。

 しかも使う道のない小金ならあるから、なんなら残りの借金分を祝い金として出してやってもいいとまで言った。


 自分の愛人にするわけでもなく、他の男の妻に早くなれるように、ただしてくれるという。

 

 他者を救済する行為は、人生の終末の際、天国に行くための梯子をかけるとも言われている。

 だから金持ちの中には、天国への梯子の段を少しでも増やすために、貧しい者に施しをするのを習慣づけている者も少なくない。

 また不遇な運命で止む得ず堕ちてきた娼婦を、その沼から救いあげてやるのも同じく美徳とされていた。


 彼もその慈善の一環としてしか自分を見ていなかったのか。

 高ランクのハンター様は、やはり娼婦じゃ専属の女にする気はないのか。


 ガッカリと同時に哀しくなってスネた彼女は、この身請け話を即座に断った。

 ヨエルは慌てて『ただお前を自由にしてやりたいだけだ』とか色々弁解してきたが、そんな言葉は彼女の耳には入らなかった。


 ただの同情で身請けされて放り出されるくらいなら、ここにずっといる方がいい。

 結局そのまま身請け話は断ち消えた。


 ある晩、食堂から部屋に上がって横になるわけでもなく、ベッドに座ると唐突にヨエルが言った。

「『親殺し』ってのは魔物にならないのかな」


 一瞬、何のことかと思ったが、すぐに思いついた。

 先ほど階下で飲んでいる時に、隣のテーブルで話している客の話が耳に入ったのだ。


 隣では、常連の武具師の親方が連れてきた新米の青年を、3人の娼婦がからかっていた。

 そこでこういう場所が初めてな若者は、場違いなネタ話を始めた。


「おれはガキの頃、村の近くの沼で夜、『洗濯女』を見た事があるんだ」

 彼はある村からこの王都に修行にやって来た新参者だった。

 彼の言う『夜の洗濯女』というのは魔物のことである。


 池や泉、澱んだ沼などで真夜中、荒々しく濯ぐ水音や、洗濯棒で叩く音が聞こえたら、それはほぼ洗濯女と思って間違いないだろう。

 彼女らがさかんに洗っている白いモノは洗濯物ではない。それは殺された赤子である。

 『夜の洗濯女』というのは、嬰児殺しで呪われた母親がなる魔物なのだ。


「それって子供の頃? そんな遅くに外に出たの、1人で?」

 からかい気味にアッシュブロンドの女が彼の頬を軽くつねりながら訊いた。

「ちょうど閉門近くで帰るところだったんだ。真冬だったから、ずい分暗くて……」

「アハ、それじゃ夜じゃないわね。それは本当に遅い洗濯をするお婆さんだったんじゃないの」

「だけど本当に異様な感じだったんだ、なんかこう憑りつかれたみたいに洗濯棒をバンバンと……」


「ちっ、くだらねえ。そんな陰気くせえ話はもうしまいだ」

 親方が見習いを軽く叱るように手を振って、その話は終わりになった。

 本来、嬰児殺しに関わる話は、娼館では暗黙の了解でご法度なのだ。

 若い見習いはそういった決まりタブー事を知らなかったようだ。

 気を使って話を止めさせた親方に、女たちが軽く笑みを送った。


 それでもヨエルの耳にも入っていたわけだ。

 エイダは少し考えて答えた。

「そうねぇ、それだったらやっぱりオークとかになるんじゃないの?」

「オークかぁ……、まあそんなとこだよなあ」

 自分から訊ねたくせにヨエルはどこかぼんやりとした返事をした。


「だけどなるかならないかは、理由次第じゃないの?」

「え?」

 エイダは彼の前に回り込み靴を脱ぐと、そのまま彼の横に右膝を突き出すように足を置いた。

「ねえ、靴下脱がしてよ」

 

「ん、あぁ……」

 季節は秋も過ぎ冬にさしかかる頃だった。

 靴下は膝上まである長い物で、太腿にリボンで止めている。。

 足に触れるヨエルの手が冷たくて、ついエイダはキャッと声を上げた。


 だがいつもならもっとワザと触れてくるだろう彼は、そのままレースの靴下を横に置きながら言った。

「理由次第って、どういう意味だい?」


「んん、そのまんまよ。

 だって人生ってままならないものじゃない。

 人殺しだって、悪意があったのかそれとも物の弾みだったのか、神様ならそれくらいわかるでしょうよ」

 言いながら左足も同じように出した。


「なるほど……そうかもな」

 少し感慨深げにヨエルが呟きながら、やはり心ここにあらずと言った感じで無感動に靴下を足から滑らせた。


「ここにも色んなお客さんが来るからね。言わないけど、多分司祭様より懺悔話は聞いてるわ。

 でもどんな恐ろしい行為でも、みんな何かしら理由があるのよ。嘘かもしれないけど、やりたくてやったわけじゃない、そういう流れみたいなものがあるのね」


 シュルシュルと彼女はコルセットの紐を解き、ベッドサイドの籠に放り込む。いつもならこれも彼にやってもらうのだが、今日はノリが悪い。

 仕方ないのでさっさと自分でペチコートを脱ぐと、シュミーズ1枚の姿になりながら彼の膝の上に乗った。


 ベストに手をかけると、シャツの上からひんやりと冷たい感触が伝わって来る。

 これは部屋が寒いせいではなく、体外に発する気――オーラが冷えているのだ。

 

 その精神状態が身体に影響を及ぼすことは通常の人間にもありがちな事だが、高魔力の持ち主はそれが顕著にあらわれる。

 怒りや憤りを激しく感じている時は体が熱くなったり、その逆に気持ちが落ち込んだり打ちひしがれると、まわりの空気が寒くなったりする。

 これは漏れ出る魔力がオーラに作用しているからだ。


 通常はまわりにわからせないように自然と抑え隠すものなのだが、気を許す相手の前だとつい出てしまうことがある。

 エイダは彼が何か心配事があるのだと察した。


「我が親愛なる信徒の君、良かったら私にその憂いを祓わせてくれないかね?」

 少し驚いたようにヨエルが顔を上げた。

「ふふぅん、ベネディクト司教様の真似よ。どう似てた?」

 エイダは大聖堂でのミサで、演説をする司教の言い回しを真似してみた。

 ベネディクト司教は根は善人なのだが、どうも芝居がかった仕草や言動が鼻につく人物で風刺の的になっており、子供から字も読めない下層民まで、その顔を知らなくてもその癖のある言い回しがよく知られていた。


「あ……別にそんな大した事じゃないんだが……」

 そう言ってから自分のオーラに気付いたようだ。冷気のようなオーラが引っ込んだ。

「気にしないで。良ければあたしが今夜だけ司教様の代わりになるわよ。

 さっきも言ったけど、色々な人が一晩だけの寝物語を落としていくわ。

 それこそ法に反するような話もね。

 だけどあたしはただ聞き流すだけ。

 それこそ法の番人でもないし、神様の使いでもないから、裁くことは出来ないからね」


「……」

「別に好奇心で言ってるわけじゃないのよ。

 ただ心に溜め込むよりも、口に出した方が良い時もあるでしょ。

 あたしなんかしょっちゅう、裏の枯れ井戸の中に大声を上げにいってるもの」

「お前が?」

「誰だって心が晴れない時があるでしょ。あたし達はここを離れられないから、出来ることが少なくて」


「そうか、まあそうだな……」

 ヨエルは彼女の細かいウェーブのかかったブルネットの髪をそっと梳くように触った。

 それから『これはおれのの話だが――』と前置きして、ポツポツと話し始めた。


 彼の出身は他国の貧しい村で、口減らしに子供を売る事は珍しくなかった。

 それは冷夏で作物が育たなかった年、家族の中で一番上の10歳に満たない長男が売られていった。

 人身売買はこのエフティシア王国では禁止されているが、他所の国では珍しいことではない。間引きのために殺すよりマシと考えられているのだ。


 ところが辛い冬が終わりかけた早春のある日、その長男がいきなり帰って来た。十数年どころかまだ数か月しか経っておらず、年季が明けたわけではないのは歴然だった。

 売られた先の鉱山小屋が盗賊に襲われたという。その騒ぎに紛れて逃げて来たらしいのだ。


「それは、お父さんやお母さんは喜んだでしょう」

「ん……、まあな。その時、親父は出稼ぎに出ていていなかったけど」


 家族が再会を喜び合ったのもほんの束の間、今度は別の問題が浮かび上がってきた。

 もし、売った先の契約者が生きていたら、帰って来た息子は年季明けの前に勝手に逃げた逃亡奴隷となる。

 そんな者をかくまったら、家族ももちろん罰せられる。払いきれないほどの罰金が科せられてくる。


 しかし自分から申し出ればその限りではない。

 場合が場合だけに、逃げた長男も一時避難として咎められないかもしれない。

 母親は考えあぐねた挙句、始めに売った奴隷商に連絡することにした。


 本当に買主が亡くなっていれば契約は無効になるし、もし生きているなら財産を戻すという事で、家族までに累が及ぶことはないだろう。

 息子には悪いが、他の小さな兄弟たちのためにも犠牲1人出すのはやむ得ない。


 しかし長男は勘が良かった。母親の不審な行動に気がついた。

 こっそり家を出ていこうとする母親を止めた。


「……結果的にお袋は死んだ」

「それで親殺しに?」

「どう頼んでも出ていこうとするので、咄嗟に『風』を使った……らしい」

 

 やせ細った女とはいえ、子供からしたらやはり大人である。背丈も力もまだ敵わない。

 そんな子供が必死に大人を止めようとしたら、無我夢中で能力を使ってしまったとしてもおかしくない。


 まるで自分の事のようにヨエルが話す。

「ただ、行かないで欲しかった。お袋を止めるつもりで夢中で掴んだつもりだった。

 だけど……気がついたら、…………窒息してた……」

 そこで彼がちょっと黙ったので、エイダも待った。全然大したことない話ではなかった。


 結局長男はまた逃げ出して、二度と戻って来なかった。


「でもそれは不幸な事故よね。咄嗟のことで殺す気なんてなかったんでしょう?」

「……そうだと思う」


 実際に成長期の子供が、親を凌ぐ力を発現・暴走させる事故が少なからずある。

 ただほとんどの場合、じわじわと現れて来るのが普通なので、親の方も危険に供えてある程度対処のする余裕がある。

 時に癇癪持ちの子供など、本人の制御が容易ではない場合には、弱い魔封じの道具を使う場合もある。


 しかし彼の場合、働かされていた鉱山にはガスが発生していることがあった。その危機意識が、その能力を急激に高めたのではないだろうか。

 特に成長期の試練は、能力を発達をさせる力となるのだから。


「じゃあヨーさんはその、……お兄さんを恨んでるの?」

「いや、そんなことはない。あの時は……確かに仕方なかった……はずだ。

 ただ、今頃どうしてるのかなと……。どこかで野垂れ死んで、呪われた魔物にでもなってるのかもなと思って……」

 ヨエルが床に目を逸らした。


「それはないわね」

 エイダはきっぱり言った。

「だって罪のない子供を殺す方が断然罪が重いもの。でなきゃそれだけ特定した呪いなんかにはしないわよ。物みたいに売るのも同じよ。

 神様ならその子を無罪にするわね」

 

「そう思うか?」

 ヨエルが目を上げた。

「あたしが神様だったら、ついでにその子の頭を撫でてあげるわ」

 エイダは彼の肩に手をやりながら、片手で彼の頭を撫でた。

「フッ、……だからおれじゃなくて、兄貴の話だって」

 そう言いながらもヨエルが少し口元を緩ませた。


「そうよ。もしいつか会ったらそう言ってあげてよ。このエイダ神がそう審判を下したってね」

「わかった。もし会ったらそう伝えとく」

 そうヨエルがエイダの首筋にキスをしたと同時に、彼女がぶるっと身を震わした。


「ああ、なんだかすっかり冷えちゃった。火が消えかかってるんじゃないかしら」

 彼女は彼の首から手を外すと後ろを振り返った。

 

 今日の空は高く清々しく晴れ渡っていたが、空気はその青さに比例して冷たい空気が降りて来ていた。

 個室には暖炉はないが、代わりに薪ストーブを置いている。

 しかし新しいボーイが用意したストーブは、火のつけ方が甘かったのか消えかかっていた。


「ああ、悪い。気がつかなかった」

 膝から降りようとしたエイダの腰を、ヨエルが抱き寄せた。

 部屋の空気が動いたのを感じると、部屋の中の寒さが和らいだ。ストーブの炎が新たな酸素を得てパチパチと音を立てる。

 ヨエルが暖かい空気を循環させたのだ。


「我が女神に風邪をひかせちゃマズいからな」

「うふふ、ありがと。じゃあ今度はあたしが温めてあげる番ね」

 そう言ってエイダは彼に唇を重ねると、そのままベッドの上にゆっくりと倒した。



   **************

 


 エイダは枕から顔を上げた。

 やっぱりあの話って自分のことだったのね。

 

 頭を悩ます事柄は大抵自分自身に関わる事だ。なのに口にする時は自分の家族や、親しい者の名を借りる。

 エイダは今までの経験から知っていた。

 だが、それとわかっても、もちろん彼女はいちいち指摘しない。

 そういう事にしておけばいいのだから。


 だからこの間の告白を聞いても、ああやっぱりという感じだった。表面上は『そうなの?』と軽く驚いて見せたけど。

 薄々勘ぐられていたなんて思ったら、気分が良いものじゃないものね。

 

 大体罪を犯したとか、借金を作ったとか、自分のせいじゃなく奴隷になった事が、そんなに後ろ指を指されなくちゃいけないことなの?

 あたしだって娼婦になっちゃったけど、自分の魂まで穢れてるとは思わないわ。

 そりゃあ、子供の頃夢見ていた未来とは違ってしまったけど……。


 でも娼婦と逃亡奴隷って、それはそれでお似合いじゃないの?

 まあ、彼は高ランクのハンターに出世して、あたしは王都公認とはいえ、ただの娼婦だけど……。

 

 それからチラリとベッド横のチェストを見た。その足元には赤いエナメルの靴を揃えてある。

 一昨日、バレンティアでヨエルに買ってもらった物だ。

 ヒールの高さはさほど高くないが、中央サイドから踵への滑らかな曲線が足を美しく見せる。

 彼が来た時にだけ履こうと彼女は思った。彼にだけ見せればいい。


 靴の包みを胸に抱いた彼女を娼館まで送った後、彼は明日の用意があるとかで早めに帰って行った。

 だが、立ち去り際に少し戸惑いながら、意を決したように訊いてきた。


「前に聞いた話だが、それはもう契約してしまったのか?」

「何のこと?」

 ホントに彼女はすぐにピンと来なかった。


「何って……、ほら、あの役人の妻になるとかいう……」

「ああ、官庁務めの事務の人ね。役人って程じゃないわよ」

「でも堅い仕事だろ。生涯安定してる――」

 そっと彼の口にエイダは手を当てた。


「ただ訊かれただけよ。まだ年季が明けるのは先のことだし、そのうち気が変わるかもしれないでしょ。何しろ一夜限りのつむ言葉ごとなんだから」

「そうか、じゃあ――」

 そう返した彼の声はどこか嬉しそうだった。


「いや、やっぱり今度来た時に落ち着いて話そう。仕事が終わったらすぐに来るから、夜はどこへも行かないでいてくれよ」

 急ぐ彼は名残り惜しそうに去っていった。

「あたしはいつだって待ってるわよ」

 そんな彼の姿が通りに見えなくなるまで、彼女は見送った。 

 


 エイダは枕を抱えながら、ゴロンと1つしかない窓の方を見た。

 開け放った窓から向かいの娼館の黄色い壁に、まだ落ち切らない陽の光が反射する。

 屋根の上でムクドリ達の戯れる声がする。

 変らない晩秋の夕暮れだ。

 けれどいつもの賑やかさはない。人々は鳴りを潜めて家々に籠っているからだ。

 ただエイダだけが、心中穏やかならざる人々とは違う胸の鼓動を感じていた。


 何の話なの? ヨーさん。

 もしかしてあたしの事、身請けしてくれるつもり?


 告白の後、あの時 愛人にする気はないと言ったのは、万一の場合、自分の身内にすると累が及ぶ可能性があったからだと言った。

 だから妻も娶る気はなかったと。

 

 正式に自由人になった彼は、実質的には遠い存在となったが、逆に期待させる言い回しに心が悶える。

 

 あたしは別にイイ暮らしさせてくれとか、正妻にして欲しいとか思ってる訳じゃないのよ。愛人で十分よ。

 お金だって自分で働いてなんとかするわ。


 これまでたくさん体は売ってきたけど、抱かれたのはあなただけよ。 

 ただ時々は会いに来て、あたしを独りにしないでね。


 早く明日が来ればいいのに。

 そうぼんやりと窓の外を眺めた。 




  ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 御存知の方もいらっしゃるかと思いますが、『夜の洗濯女』はフランスの伝承にある妖怪です。魔物というより妖怪という感じの怪しい存在。


 夜中に外で洗濯しているだけでも異様なのですが、その洗っているものが殺した赤ん坊とはもう悲惨な限りです……(´;ω;`)

 せめて赤ん坊だけでも救って欲しいものですが、こういう妖怪が言い伝えられる背景には、やはり間引きなどの子殺しが多かったのでしょう。


 また恐ろしい魔物でもあり、ジロジロ見たり声をうっかりかけてしまうと、どんな屈強な大男でも、ボロ雑巾のようにされてしまうとか。


 他に名前の似てるものに『夜の紡ぎ女』や『夜の乞食ペイユ女』というのがいるそうな。

 いつかネタに使ってみたい妖怪です。


 赤子ではありませんが、有名なペルーの童話『親指トム(または親指小僧)』でも、子供たちを2回も狼のいる森の奥に捨てに行きます。

 もう困窮して仕方なくっていうのと、という、意識の薄れもあったのかもしれませんね。


 蛇足ですが日本でも妖怪でも何でもなく、夜中に近所の女将さんが井戸で洗濯棒を叩いているという描写があった話を読んだ事があります。夜中にあり得ることだったのですね。

 だけど、そんなことされたらまず近所迷惑なのではと、つい思ってしまいます。長屋の話ですから(^_^;)


 本当はサーシャの事も出したかったのですが、エイダの部分が長くなりすぎて分けることにしました。

 次回はサーシャ編です。

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