第200話☆ 白い悪意の世界


 1階のホールでは警吏たちが揉めていた。


「おれ達がさぼってるとか報告しやがったのかっ!?」

 通達をくしゃくしゃにしながら、ユーリがキムに怒鳴った。急ぎ、状況報告を送ったのはキムだったからだ。

「そんなケチくせえことするわけないだろっ」

 キムも送信原稿を突き出して反論してきた。


 しかし署長が怒った理由はすぐにわかった。

 状況の報告には一言も、2人が管理室から締め出されていた件が書かれていなかったからだ。

 これではただ持ち場を離れていたと思われても仕方ない。


「この馬鹿オーガッ!」

 自分の事は全て棚上げにしたユエリアユーリンが怒鳴る。

「なんだとぉっ! 誰がオーガだっ」


「取り込み中済まないが、相談がある」

 また2人が掴み合いになりそうだったところ、横から近衛兵が手を上げた。


「伯爵家もとい、あの兵達は謀反を起こした可能性が高い。

 だが、まだ証拠不十分だ。

 もし奴らを見つけたら捕まえて来て欲しい。

 もちろん援軍が到着次第、我々も降りるつもりだが悪人を捕まえるのは警吏の仕事だろう?」と近衛兵は手のひらを返して見せた。

 先程のユーリの言動への仕返しだ。


「そりゃそうだが、ここは街中じゃないし、ましてや今ダンジョン内もおかしい。

 連れて来るのは一苦労だ」

 ギュンターが顔をしかめた。

 大体見つかるかも分からない。


「これを使うといい」

 近衛兵が出してきたのは、丸めた1メートル角くらいの布だった。

 広げると縁一杯に、式と図形を描き込んだ魔法陣が描かれている。

「簡易『転移魔法陣』だ。もちろん緊急脱出用にも使える」


 それは二枚一組の転移魔道具だった。

 転移式は座標を定めなくてはならないが、これはこのAとA’として対になっており、お互いに行き来出来るように式が構成されている。


 各層に設置されている『非常転移スポット』と、繋がりを固定されている管理室の『転移ポート』の関係に似ているが、これはいわゆる携帯式の転送道具だった。


 だからどこの場所からでも、片方の魔法陣に跳ぶことが出来る。

 通常設置されている転移ポートが使えない時などに、とても便利な代物だった。

 ただし移動距離が長ければ、それだけエネルギーを使うことは変わらないが。


「なるほど、これなら奴らを捕まえたら、即これでこっちにぶっ跳ばせば良いってわけだな」

「早い話がそうだ。

 もちろん君たちが戻るまで、はそのままにしておく」

 そう言って、対になっているもう一枚を見せた。

 

「だけどかなりの魔石を食いそうだなあ」

 道具だけ貰っても動力がないと、とユーリが布を丸めながら横目で近衛兵を見た。

「わかってる。だからこれも必要物資として渡しておく」

 そう言って(ニワトリの)卵大のエメラルドのような魔石を3つ出してきた。

 素人目にもなかなか純度の高い、森の天然魔石とわかる。


「ひょお~、さすがお貴族様。いいブツ持ってるねぇ」

 ユーリが天井の明かりに魔石を透かしながら感嘆の声を出した。

「これならよほどの深層じゃなければ4,5人はいけるな」


「だけどなあ……、果たして生きてる奴がいるかわからんし……」

 ギュンターがまた渋い顔をして腕を組む。


「最悪、死体でも構わない。新しい死体なら魂を呼び出しやすい。

 『縛魂の檻』に入れて審問の場に引きずり出してやる」


『縛魂の檻』もしくは『幽縛の刑』。

 文字通り、霊魂を捕らえて鳥籠ほどの小さな檻に閉じ込めるもの。これには強力な結界が張ってあり、入れられた霊魂はただの無力な意識体同然となる。

 寺院の奥深くの暗室に幽閉するか、そのまま沼や汚物の池に沈めることもある。

 昇天もさせず未来永劫、罪に服させる恐ろしい刑罰である。

 

 兵士は目の奥に暗い光を帯びながら言った。

「もしかすると――、アジーレの災厄もあいつらの謀反のせいかもしれないしな」

 最後の言葉にユーリは少しだけ片眉を動かした。

 ギュンターとビレルもチラリと目を合わせる。キムはただポリポリと顎を掻いた。


 真実がどうであれ、あわよくば責任を伯爵に押し付ける気だ。

 それに図らずも加担する事になるのは面白くないし、自分たちにも火の粉が降りかかってこないとも限らない。


「言っとくがおれ達、アーロンの二の舞になるのは御免だぞ」

 相手が警戒したことを察した近衛兵は、すぐに言葉を付け加えた。

「君らを貶めるような真似はしない。その事は協力を仰いだ際、君らの上司とも約束をしている」

 さすがに署長は部下を協力させても、贄に捧げる気は毛頭ないようだった。


「こちらも約束をたがえて、これ以上怨霊を作り出すのは避けたい」

 面頬バイザーのせいで表情が分かりづらいが、嘘ではなさそうなトーンだった。


 そうして更にエサも出してきた。

「それに子爵様は、謀反人を生きて捕まえて来ることが出来たら、報酬を与えると伝えられてきた。これは署にではなく、個人に――」

「喜んで確保に向かいますっ!」

 ユーリが踵を鳴らして敬礼する。隣でギュンターが思わず口を開けそうになった。


「なんだよ、それなら署長の命令がなくても、おれも行こうかなあ」

 キムが羨ましそうに言った。


 近衛兵も一瞬目を丸くしたが、

「まあ、とにかく依頼する」


「おいらは良いよ。ダンジョンでアレ(ガーゴイル)に遭いたくないし……。

 ここで待機してる」

 やや神経質そうにビレルが尾を振る。

 ギュンターも眉を寄せた。

「だからまず、あいつらを見つけなくちゃならんのだが……」

 

 パンッとユーリが手を打つ。

「よっしゃあ、野郎ども、反逆者を狩りに行くぜっ!」

「おおっ!」

 キムとユーリは調査から一変、すっかり気分は捕り物モードになった。その様子に兵士も愁眉を開く。

 ギュンターだけが逆に、眉間と鼻にシワを寄せていたが。


 だが続いて2通目の分署からの伝書で、キムとビレルに帰還命令が来てしまった。

 巨人族で『土』系の能力者のキムには再びアジーレの警備に、またビレルは分署に一度戻るようにとの通達だった。

 連絡を絶っていた2人の無事がわかったのだ。それなら他の2人も遊ばせているわけにはいかない。


「なんだよ、せっかくこのキム様の出番だったのに……」

 ブーブーひと通り文句を言うキムに

「まっ、賞金次第でお前らにも奢ってやるよ」

 すでに報酬をゲットする気でいるユーリが調子よく言った。


「とにかく準備だ」

 しかし売店は閉まっているどころか、ポーション類は全て、下に降りたハンターや商人が買い込んでいった後だった。 


 ユーリは次に治療室を覗いた。

「しゃーない。先生、回復ポーション譲ってくんない? 役人割引きしてくれると有難いんだけど」

 基本、こういった消耗品は個人の出費だった。

 ただ、彼らの給料はまだ生活に足るものだったから、地球の昔に比べれば全然マシのようだ。



 余談だが、中世ヨーロッパの警吏たちは市議会に任されて役人になったにも拘わらず、下級職人にも劣るほどの薄給で副業を持たざる得なかった。

 そのため治安維持への意識も薄く、反対にその地位を利用して強請ゆすりたかりをする者も結構いたらしい。

 

 その逆に商工ギルドのもと、夜回りや城壁を持ち回りで警護する市民兵の方が活躍していた。

 彼らは元々一般市民ではあるが、兵役の他に騎士や傭兵から訓練を受け、中にはそこら辺の騎士よりも戦闘力を誇る者も少なくなかったという。

 自分の地域に意識も高く、治安維持に多いに貢献した。

 やはり頼りになるのは地元民のようだ。


「残念だが回復どころか、魔力ポーションもなくなった」

 少しむすっとした感じで治療師が答えた。

「なにっ、1本も?」

 すると治療師の後ろから、助手が申し訳なさそうに顔を出した。


「実はあの伯爵の兵士の人に、ポーション系を全て出すように言われて、渡しちゃったんです」

 助手はガバッと頭を下げた。


「なっ!? あいつら全部持ってちまったのかっ!」

 ギュンターも横から声を上げた。

 そう言えば治療室の隅でメシを食ってる時に、兵士が助手を連れて一度入って来た。

 確かに薬を受け取っていたようだったが――


「売店があるから元からそんなに置いてなかったんだが、まさか全部持ってくとは思わなんだ。

 せめて私に報告してから返事すれば、何本か隠せたのだが……」

 そう治療師が少しねめつけるように助手を見る。

「すいませんっ! でも怖くて……」

 また助手が縮こまるように頭を深くする。


「く~っ! あいつら、どこまで嫌がらせする気だ」

 ユーリの頭上でまたバチバチとスパークが弾けた。

「おれは1本ずつ持ってるが……、まあ使わないことを祈ろう」

 ギュンターがため息をついた。


「これ、持ってけよ。おいらはこのまま分署に戻るから」

 警吏ら4人が地下へ降りる途中、ビレルがサイドポーチから、ハイポーションを1本出してユーリに渡してきた。

「おお、スマンな。戻ったらきっと色付けて返すから」

 瓶を拝むように受け取る。


 それに続いてキムも魔力ポーションをもそもそと取り出した。

「ほら、おれもだ」

 と、喧嘩仲間の鼻面に下げる。

「え、お前は直で現場に行くんだろ? 大丈夫なのか」

 ユーリが訊き返した。


「あっちには兵が大勢いるし、まだ地上だ。下には売店なんかないだろ」

「そうか、じゃあ有難く貰っとくぜ」

「やるとは言ってないだろ。貸すだけだ。

 必ず戻って来て返えせよ」

 フンッと、大きな鼻で息を吐いた。


「なんだよ、くれるわけじゃないのかよ」

 そう言いながらユーリも口角を上げて、キムの脚を軽く叩いた。


 そうしてビレルとキムは、2人の仲間が中間部屋に入っていくのを見届けてから、再び階段を戻っていった。


だから彼らが通路を入った途端、黒い闇に飲まれた事に気付きはしなかった。



  **************



 落ちていく闇の中で、肘が何か土壁らしきものに当たった。

 その衝撃でヨエルを掴んでいた腕が外れてしまった。

 慌てて掴み直そうとしたが、手は虚しく宙を掻く。


 探知しようとした瞬間、辺りがパッと白く明るくなった。

 思わず目を細めた視界に入って来たのは、白っぽい石灰石で出来たような壁だった。

 回転する目の隅に、短く突き出た石の突起が見えた。

 咄嗟に意識を向けると転移出来た。


 ヨエルは?!

 探知しようとしたが、周囲の恐ろしい圧迫感をにその場に身を屈めた。


 俺は平らな石板の上にいた。

 まわりを見回すと、どこもかしこも白い石で出来た柱と壁で覆われている。

 その表面は平らではなく、四角いの巨石を無造作にクロスさせて積み上げた、さながらやりかけのジェンガのような凹凸をしている。


 俺がいま乗っている足場もその飛び出た一辺だ。1つ1つがまるで、ピラミッドを構成する巨大な石に匹敵するほどの大きさをしている。

 

 また何本も規則性なく立っている柱の間には、所々繋ぐように階段が橋のように渡っている。

 こちらは大きさこそ通常の階段板くらいだが、それらも全てブロックをずらして作ったような、裏表に段のある造りになっていた。


 そういった造りの階段は壁にもあり、柱と繋がっているかと思えば、途中で切れているモノもある。柱に巻き付くように螺旋状を描いているモノもあれば、壁の途中に一部を切り取って貼り付けたような、中途半端な階段状の出っ張りもある。


 壁は大きなブロックで構成されながらも大きくうねっているので、まるで荒いドットで描かれた山間のようだ。

 その間を柱も邪魔をしているので、奥まで見渡すことが出来ない。

 下は遥か、暗い深淵の闇が埋め尽くし底が見えない。

 上空には例の白っぽい霧が漂い、ぼんやりとした光を照らしていた。


 だが、そんな霧よりも怖ろしいのは、あたりを包んでいる気だ。

 

 どろんどろんと絶えず渦を巻いているかと思うと、急に固い岩盤が一気に破壊したような、怒号に似た波動が波打ってくる。

 そこに時折、地の底から唸るようなノイズが混ざりあってくるのだ。 


 見かけは白一色だが、には暗く濁った色が混ざり合いながら敵意のハレーションを起こしてくる。

 静かなようで、実は激しい嵐の轟音が鳴り響いている。

 その混濁した気が漂う空気は、吸うたびに胸が苦しくなるばかりだ。


 これは瘴気なのではないか。

 ただのガスならば風魔法で空気を分離するが、悪い気などはどうしていいのか分からない。

 

 以前のオークの穢れたオーラを弾いた護符がこれを避けないのは、ギリギリ耐えられるレベルという事なのだろうか。

 何にしても探知の触手を伸ばすと、この気が纏わりついてきて首筋を撫でられるみたいに悪寒が走る。


 そういや、ヨエルどころか奴の姿も見えない。

『(ヴァリアス、どこにいる?)』

 テレパシーで呼んでみたが、返事どころか手応えもなかった。

 また雲隠れか。


 元より奴の事は心配していない。

 こんな事くらいでどうにかなる奴じゃないし、何かあったとしたらもう俺の力ではどうにもならないだろう。

 それより今はヨエルだ。


 いや、まずは新しい場所に行ったら危険がないか、確かめるのが先だったな。

 索敵をかけると、別の恐怖が通り抜けた。


 それは雷の光が一瞬闇を照らした際、近くに誰かがいた時のような戦慄。

 実際に感じたのは、悪意の塊りのエナジーがこびり付いたモノ。

 奇妙なブロックの構成と澱むオーラに注意を奪われていたが、辺りはトラップ殺意だらけだった。


 首から背骨にかけて、ダイレクトに伝ってくる悪寒を意識しないように務めながら、あらためてそれらのポイントに探知の触手を伸ばす。


 一番手前の右手にある柱には、レイピアのような細いが鋭い刃が、何百あるいは何千と内側に隠し込まれていた。

 穴も見当たらないのにどう出て来るのか分からないが、恐らく触れた瞬間に飛び出してくるのだろう。

 全ての刃がみな、放射状に外側を向いていた。


 また目の前を横切る階段には、その内部にグラグラと煮え立つ油が湧いている。

 あそこに足を置いた途端に、下から溶岩のごとく噴出するのかもしれない。

 

 そうして俺がいるすぐ左側にある、ここよりも長めな足場には巨大なトラバサミが、獲物を待つ食虫植物のように口を開けて潜んでいた。


 さっきは考えもせず、この出っ張りを選んだのは運が良かった。

 一歩間違えていたら、俺はハエ取り草に捕まった虫になるところだった。

 そんな罠があちこちにあるのだ。

 

 間違いない。

 ここが例の5層、『拷問部屋』だ。


 たった1人でこんな所にいる事につい心が萎えそうだったが、頬を叩いて気を奮い起こした

 こんなとこにあの状態で落ちて、ヨエルは大丈夫なのか?

 ポーのことも気掛かりだが、とにかく彼の無事を確かめなくては。

  

 もう気味悪さや悪寒を気にしている場合じゃない。

 そう気を引き締めると、幾分かまわりの毒々しさが和らいだ。

 これはヨエルが亡霊を追い払った時のように、気合いで自分にオーラという防御膜が作れたせいだった。


 俺はまた索敵もとい検索を試みた。


 だが、それ以上にまわりの濃密な気の歪みは、触手の広がりを阻み、なおかつ鋭い痛みにも似た刺激を与えて来る。

 まるで荊の藪の中を裸で進むようだ。跳ね返す圧力も4層の倍以上だ。

 おかげで30メートルも先に行かれない。


 くそ、力技と忍耐だけでは上手くいかない。

 ここは場所を変えた方がいいか。


 ふと、視野に動くモノが映った。

 ソレは俺のいる足場より何十メートルか左下、階段の上をもそもそと動いていた。

 

 項垂れて四つん這いになった人の姿。

 ヨエル?!


 だが、よく見ると身につけているのは鎧ではなく、布服のようだ。おまけに全体的に灰色に見える。

 死人だ。

 4層の通路と同じく、ここにも動きまわる死アンデッド者がいるのだ。

 

 更に右奥の壁にもその凸凹を這う姿が見てとれた。

 そうしてソレには頭と手から先がなかった。

 下の奴もそうだ。

 頭を下に入れているのではなく、元から無いのだ。


 4層は首と手で、こちらは本体か。

 もうこちらの頭もイカれそうだが、とにかく罠のない足場に移動することに専念する。


 その時、何かが俺の背中に触れた。

 一瞬、飛び上がりそうになったが、すぐにそれがよく知っている気の触手である事がわかった。


「ヨ――」

 軽くだがしっかりと、空気の膜が俺の口を塞いだ。

 声を出すなという合図だ。

 俺はわかったという意味で、自分の口に指を立てた。


 スッと口と背中から気配が消える。

 そのまま視線を動かしていると、右側の奥の柱の隙間を動く影が横切った。

 

 今度こそヨエルだ。

 彼はスカイバットで宙を飛んで来ていた。

 俺は思わず両手を大きく振った。


 しかしそんな俺に向かって彼は直進せずに、柱を大きく迂回したり、不規則に蛇行している。

 やっぱり無事じゃなかったのか。


 実は俺には遠くて視えなかったが、空中にも罠や見えないセンサーがあったのだ。

 彼はそれを避けていたのである。

 やがて俺の目の前まで来ると、一度ホバリングしてからゆっくりと足場に着地してきた。


「すまん、来るのが遅くなった。怪我はないか?」

「とんでもない。こっちこそ手を離してしまって……。

 ヨエルさんこそ気分はもう大丈夫なんですか?」

 顔色はまだ冴えなかったが、目の色や全体のカラーが元に戻っている。


「ああ……、なんとかな。元々アレは数秒のことだから……」

 それから「旦那は?」と訊いてきた。

「わかりません。気付いたらいなくて」

 もしかすると近くにいる可能性が高いんですけど。

 

「うーん……」

 額を触りながら微かに呻くように声を漏らした。

「まあ、おれも跳ばされたからなぁ」

 あらためてまた辺りを探るように探知の触手を広げた。

 申し訳ないけど、奴はヨエルさんのでも引っかかりません。魔力の無駄です。


 それより気になるのは、奴が姿を消した理由だ。

 今までの経験上、これは特訓モードだ。

 つまり何か試練が待ち構えているに違いない。

 俺の特訓に彼も巻き込む気か。 


 そんな俺の表情を見て勘違いしたのか、

「あの旦那のことだ。どこかで無事にいるだろ。そのうちまた合流してくるだろう」

 俺を元気づけるように言ってきた。 


「ええ、そうですね。きっとどこかに余裕でいますよ。

 もしかすると一杯ひっかけてるかもしれません」

 本当にやってそうで、口にしたらなんか腹が立ってきた。

 人の苦境を絶対に陰で眺めてやがるに違いない。


 そんな俺の言い方に、ジョークが言えるなら兄ちゃんも余裕があると薄く笑った。

 本当のことなんだが。


「すぐにここから離れたいとこだが、おれもちょっとだけ一服していいか?」

 と、サイドポーチからシガレットケースを取り出した。


 実はこの時、激しい頭痛のごとくヨエルの頭の中を、予知の余韻たる警報の鐘が打ち鳴らしていたのだ。

 だが、それを無理やり抑えこんだ。


 仮令たとえ予知で死の確率が高いと感じても、確実100%ではない。

 僅かながらでも、最悪の結果を避けられる道はどこかにある。

 そうして慌てて行動することが、一番マズイ結果を生むことを経験上知っていた。


 恐怖に怯えるよりも、まず状況を見極め回避方法を探る。

 そうやって今まで被害を最小限にして乗り切ってきたのだ。

 今回もそうして生き延びることに、頭を切り替えた。


「ここは気がついてると思うが――」

「5層ですね」

「そう、最下層だ。案外と落ち着いてくれていて有難いぜ」

 少しだけ吸うと「じゃあいくか」と煙草を下に放った。

 カンナビスの白い煙ごと、奈落に消えていく。


 それから肩に引っかけていたロープを外すと、スカイバットの左右の骨組みに付いているリングに両端を通した。

「これで体を支える。空中遊泳はもう平気だろ」


「え、ヨエルさんが運んでくれるんですか? 

 あの、俺、さっき見せたように、短い距離ならなんとか転移出来るんですけど」

 なんとか連続ワザならいけそうだが。


「兄ちゃんがどれほど跳べるのかは知らないが、移動出来る範囲に安全な足場があるとは限らないだろ?

 ここじゃ空中にも視えない罠が張ってるんだ。素人には危ない」

 確かにここでは探知と同じく、跳べる距離はかなり短い。

 

 ロープを足や脇の下にくぐらせ、またリングに通すと固く結んだ。

 それをもう一度、脇の下に通す。


「一応支えてはいるが、しっかりロープを掴んでてくれよ。ひっくり返っても戻せる余裕があるか分からないからな


「はい、だけど本当に大丈夫ですか? 俺はそんな重い方じゃないけど、大人1人運んで飛ぶのは。

 俺も少しなら風で体を支えますから」


「いや、下手に手を貸されると、風の操作が狂うからいい。

 それに以前救出した馬鹿息子は、16stストーン(約101キロ)越えの上に騒いで大変だった。

 それに比べれば兄ちゃんくらい軽いもんだ」

 と、顔色が戻って来た彼は、頼もしいプロの笑みを浮かべてみせた。

 

 こうして俺たちは、5層を飛んで脱出することになった。

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