第199話☆ 赤き雪の哀歌(エレジー)


 今回はサーシャの暗い過去になります。

 


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 ―――― 暖かい上着を来て待っててくれ。必ず迎えに行くから ――――


 あの日もこんなふうに雪が降ってたわね。


 サーシャは目の前に雪のように舞う、エナジーの結晶を見つめながらぼんやりと思った。


 ここは5層の一角。

 アーロンと交渉した為に、サーシャは一時的に力を使い果たして突っ伏していた。

 なんとか見上げた瞳に、再び新しい顔と手を得たアーロンが人の姿に戻り、怒りの雄叫びを上げながら宙を舞っていた。


 そのまわりに吸い寄せられるように、放出されたエナジーが舞っている。

 アーロンがダンジョンを揺さぶっているせいだ。


 それは彼の怒り、哀しみ、悔恨に染まって、赤く黒く明滅する。


 あの時も、こんなふうに白いはずの雪が赤く見えていた。


あねさん、大丈夫ですか?」

 彼女に直接触れる事を自ら禁じているかのように、上からショールをかけると、メラッドが腕を持った。


「平気よ。ちょっと思ったより強かっただけ」

 支えられながらかき上げた髪は、ドレッドヘアがほどけ、淡い金髪から銀色を帯びた艶のあるボルドー色に変化していた。

 本来の彼女の髪色である。

「もう変装する必要もないわね」


 アーロンがダンジョンに伸ばした気の触手から、1層に多くの人々がいるのが視えた。

 通路の入り口に兵士が待機しているのも。

 闇の幻影を触手に伝わせて、兵士どもをおびき寄せる。


 あとはアーロンが荒れ狂うのに任せた。

 揺さぶられたダンジョンは、1層にいる者たちを4層、もしくはこの5層に飛ばしたはずだ。何しろ彼が引き寄せているのだから。

 他にも一般人がいたようだが、仕方ない。ここは運が悪かったと諦めてもらうしかない。


「さあ、早くここを離れますぞ。巻き込まれるといけない」

 ロイエも肩を貸す。

 2人の男の首に手をまわしながら

「ふふ、いつもみんながいてくれて良かったと思うわ」と笑みを浮かべた。


「滅相もねえ。姐さんみたいなひとと一緒にいるだけで、あっしは幸せでさあ」

 メラッドは心から思っている。

 以前、ただ怒りをどう表せばいいのか分からなかった自分に、正しい怒り方――貴族を懲らしめるやり方――を教えてくれた女性。

 彼にとっては女神同然だった。


 サーシャは、手は貸せないが心配顔のフューリィにも向かって微笑んだ。

「フューリィ、お前もよ。まわりをしっかり見張るのよ」

「おう、任せときっ」

 張り切って先頭に立つ小柄な男から、サーシャは視線を頭上に向けた。


 憤怒、叫び、悲憤慷慨ひふんこうがいの感情の波が何度も爆発するように、降り注いでくる。


 先程は彼のその感情の波動につい飲みこまれそうになったが、危うく離脱することが出来た。

 その荒ぶりながら、千尋せんじんの谷の下で呼ばわるがごとく、絶望と悲憤ひふんに身を焦がす彼の哀しみに、危うく共鳴してしまいそうだった。

 これほどのものに同調してしまったら、恐らく人として心が持たないだろう。


 昔ほど抵抗力が無くなっているのかもしれない。

 神子みことしての能力が、衰退し始めているのかもとサーシャは思った。


 アレクサンドラ――愛称サーシャは、ある帝国の男爵家に生まれた。

 その一族は神子――性別関係なく――として、神や精霊などから託宣を受けたまうことが出来る能力者を多く輩出していた。


 サーシャは男爵の妾腹として出生した。

 始めは使用人然とした扱いだった彼女が、その神子としての鱗片を覗かせた5歳の頃から、大人達の態度がガラリと変わった。


 急に優しく丁寧な扱いになり、床掃除や台所の手伝いをしなくて済むようになった。

 今までガミガミ叱りつけたり、折檻棒で叩いて来たメイド長も、気味悪いほどの笑みを見せて頭を撫でて来た。


 代わりに神子長と呼ばれる30代くらいの女性が、付きっきりで彼女の教育をした。

 神や精霊の声を聞き拾う能力者として。


 昔から帝王や貴族たち、時には豪商からも頼まれて、密やかな困りごとに助言を与える、一種の占い業でのし上がって来た一族だった。

 

 口寄せと呼ばれるあの世とこの世を繋ぐ巫女のように、超自然な存在たちから聞きたい教示を頂く。それにより戦争や政治の吉凶、商売に至るまであらゆる悩みに解決の糸口を示してきた。


 しかし、相手は人ならぬもの。

 いつも上手くいくとは限らない。


 いくらたてまつり、崇め敬ったとしても、毎度答えをくれるとは限らない。

 いつの間にかビジネスのように信心ではなく見返りを求めるところには、手を差し伸べる気も薄れるというものである。

 それでなくとも超自然な存在たちは、人から見れば気まぐれに映ることわりを持つだから。

 

 だが、サーシャは違っていた。

 自然にすんなりと、時には友達と話すように会話をし、答えを引き出していた。


 他の者が半日かけてやっと一言二言、言葉を返してもらった大精霊と、ほんの10分ほどで打ち解けて話もした。

 彼女の声は精霊や妖精たちに確実に届くようだった。

 相手の声を聴けると同時に、相手にも声を伝えられる完璧な神子。


 それは彼女がこの世の穢れや畏れを知らず、純粋無垢に話が出来る子供らしい波動と、自然と共鳴する力にけたエルフの血を継いでいることが強かった。

 彼女の祖母がハーフエルフの奴隷だったのである。


 成長するにつれて、その美貌も人目を惹き始めた。

 彼女をひと目見たさに、下らない質問を持ってくる者もいたが、当然のごとく弾かれた。


 来る日も来る日も、淡い布越しに貴族や、時には帝王の側近が彼女の玉座の前に跪き、神託を仰ぐ。

 彼女はそういった大人達を見て育っていった。


 ただ、外にはほとんど出してもらえなかった。

 出かけるときは必ず馬車に乗せられ、まわりは護衛の兵士と使用人で固められる。場所が変わってもいつも同じ顔と対応。 

 彼女は籠の中で美しく啼くカナリアだった。


 そんな彼女に変化が訪れたのは、成人を迎えた翌年、16歳の初夏。


 その日やって来た青年貴族は、今まで見た男達とは纏わせていた空気が違っていると感じた。

 深い海の底のような藍色の髪に新緑の瞳、心配事を抱え、やや憂いた顔。

 そして解決策が導かれると、輝くような笑顔を彼女に向け、礼を言った。


 その一言一動作が彼女の心に焼き付いた。

 そう、彼女はこの時、知らぬうちに恋に落ちていた。


 それから時折、彼は託宣を貰いに彼女の元へ現れてた。

 用向けは些細な事が多くなってきたが、彼女は彼の訪問を全て通させた。

 それくらいの権限はすでに持っていた。


 人払いをした託宣の間で2人きり、彼も彼女の見目麗しい姿に魅了されていた。

 若い男女の間に火が灯るのは、そう遅くはなかった。


 処女性を失っても彼女の能力は衰えなかった。逆にその容貌に艶めいた色をおび、ますます彼女の人気は高まっていった。

 

 ただ、助言をくれる精霊たちの声に雑音ノイズが混ざるようになってきた。

 それは本当は雑音ではなく、彼女自身に対しての啓示だったのだが、聞きたくないものには蓋をするように、サーシャはそれを雑音のように感じていた。


 恋は盲目という言葉の通り、自分にとって見たいモノしか、彼女には見聞き出来なくなっていた。


「君はここに居ちゃいけない。これじゃ監獄と同じだ」

 秋も過ぎ、いよいよ本格的な冬に入り始めたある日、彼が言った。

「僕と逃げてくれないか?」


 それは唯一知っているこの世界から、飛び出せと言っていること。

 流石に彼女はすぐに返事が出来なかった。

 男爵家を裏切る行為より、見知らぬ世界に飛び込むのが恐かったからだ。

 

 しかし彼は優しく彼女の髪を撫で、耳元で囁いた。

「大丈夫。君の面倒は僕が絶対にみるから。僕に任せてくれ」

 彼の言葉を素直に信じ、誓いの熱い口づけを交わした。


「暖かい上着を来て待っててくれ。必ず迎えに行くから」

 指定された日の真夜中、男爵家の庭の東屋に彼女は急いだ。

 屋敷の中ならある程度自由に動けた。


 もちろんこんな真夜中に、庭に下りるのは許されるべきではないが、お付きのメイドはすでに発現していた闇の力で眠らせた。

 そうして開け放った窓から、彼からコッソリ渡されたロープですんなり降りることが出来た。


 身軽に登り降りが出来る魔道具とはいえ、通常ならこの高さから窓の外に身を乗り出すのは勇気がいった。

 けれど彼に会いたい気持ちがそんなものを打ち消した。


 もうすぐ私、彼と自由になるの。きっとそれは素晴らしい世界よ。


 彼女はこの時、夢を見ていた。それは人生最高の時だったに違いない。


 そう、夢は覚める時が来る。

 東屋で彼女を出迎えたのは、愛する彼でも夢見た世界でもない、残酷な現実だった。



 闇に紛れた男達に、『封魔』の首輪をはめられ棺桶に押し込められた彼女は、一晩馬車に揺られて、隣国の皇国に連れて来られていた。


 状況を理解できない彼女に、審問官と名乗る男達が、次々と尋問を飛ばすようにかけて来た。

 

 帝国の奇跡の神子と呼ばれた彼女なら、国の貴族や高官たちの多くの秘め事、貴重な情報を知っているに違いないと。

 それは確かにそうだったが、だからこそ、他の神子たち同様、彼女には『誓約』の呪いがかけられていた。


 それは秘密を口外出来ないように、堅く重く、深海に沈む難破船のように意識の奥底に沈めているのだ。

 

 そこで審問官たちは『解呪』を、何度も彼女の華奢な体にかけた。

 それは死ぬ一歩手前までの、強く激しい電流が流れるがごとく、全身を内側から業火で焙られるような激痛が貫く。

 危うくなると、無理やりポーションで治された。


 また精神を崩壊させるぎりぎりまで揺さぶるという名目で、何人もの男が彼女をレイプした。


 なんでこんな目に遭わなければならないのか。

 苦痛と吐き気を催す激しい悪寒のような嫌悪の中、頭の片隅に彼も同じ目に遭ってないか、心配が過ぎっていた。

 

 しかし数々の拷問にも、彼女にかけられた呪いはなかなか解けなかった。

 いくらポーションで身体を治しても、体や精神はその痛みを覚えている。その疲労が回復する間を与えなければ確実に蓄積されていく。

 もうこれ以上続けると、本当に死ぬか廃人になると思われた。


 ただ彼への想いが紙一重のところで、彼女を支えていた。


 捕まってから何日過ぎたのだろう。

 ある日牢屋に番人と、ボロボロの囚人服を着て手錠をはめた男が現れた。

 彼だった。


「サーシャ、可哀想にこんな目に遭って……」

 彼は緑色の目に涙を溜めて彼女を見た。

 彼女も同じく、透明な真珠を目からこぼしていた。

 

 やっぱり彼も同じく捕まっていたのだ。きっと私と同じように責め苦を受けているに違いない。

 そう思うと涙が止まらなかった。


「サーシャ、よく聞いて欲しい。大事なことだ。

 君が知っている情報をどうか話して欲しい。そうすればここの人たちは、僕たちを解放すると言ってくれている」

「……でも、私には『誓約』がかけられていて……」


「知っている。それが解呪出来ないのは、あと最後、君の気持ち次第らしいんだよ。

 君が心のどこかで喋ってはいけないと、思い込んでいる。それが鍵をかけているんんだ。

 もう君はあの男爵家の一員じゃない。あいつらに義理立てしなくてもいいんだよ」


 元より男爵家に情などなかった。

 ただ、幼い頃から刷り込まれていた『誓いを破ると地獄に堕ちる』という教え。どうしてもその畏れが完全には頭から取れなかったのだ。


「頼むよ。君が全部話してくれれば、今度こそ一緒になれるんだ。

 自由になったら、君が見たがっていた海に行こう。

 お願いだよ。僕のためにも」

 

 話せば彼と今度こそ一緒になれる。

 鉄格子越しに伸ばしてきた手に頬ずりしながら、彼女は彼の為に解呪に協力することを誓った。


 この時、彼がボロを纏い汚れているにも関わらず、どこにも傷がないことに気がつかなかった。


 少しの休みの後、体を回復させた彼女は、今度こそ自らも解呪に挑んだ。

 愛する彼と一緒になりたい為に。


 とうとう解呪は成功し、審問官の問いに覚えていることを全て話すことが出来た。

 官吏も多いに納得したようだった。


 これで彼といよいよ一緒になれる。


 しかし用済みとなった彼女を待っていたのは、自由という名の死への追放だった。



 外はすっかり冬景色に変わっていた。樹々は綺麗に葉を落とし、代わりに白い衣を纏っていた。

 花びらのように大きな雪が深々しんしんと降っている。

 ……サク……サクと裸足の脚が、足首まですっぽりとのめり込む。

 簡素で薄い麻の囚人服一枚の彼女は、もう感覚も分からなくなるほど芯から冷え切っていた。

 どうして解放されないのか、考える力もなく、ただ刑場に引かれるだけ。


 罪状は『国家転覆罪』。

『帝国の魔女』として、皇国を混乱に導こうとした隣国の工作員とされていた。

 こちらではリッチなど、人に仇を成す悪しき怨霊などとまぐわい、取引をしたとされる者を男女問わず『魔女』と呼んだ。


 もちろん仕組まれた言い掛かりなのだが、それはほんの一部の者しか知らない事実。

 集まった民衆たちは大罪人の魔女を見ようと、広場から溢れるほど集まった。

 魔女はここでも火刑と決まっていた。

 浄化の炎で穢れを焼くために。


 柱の踏み台に引きずり上げられ、ぼんやりした頭で辺りを見回した。

 刑の直前まで魔道具で、魔力を切れるまで吸い取られ、魔力切れにもよる貧血も起きていた。


 誰も彼も、彼女を見て『殺せっ! 殺せっ 燃やせぇっ!』の怒号のコールを繰り返している。

 ここに味方は誰もいない。


 この時サーシャが知る由もなかったが、実は帝国側も何もせずに黙っていたわけではなかった。

 何しろ重要な情報を隠し秘める神子が攫われたのである。

 帝国からは何人もの刺客が指し向けられていた。彼女が喋る前に始末するために。


 しかしこの動きを当然予測していた皇国の守りは堅く、彼女の姿さえ確認することも出来ないまま、次々と暗殺計画は失敗に終わっていた。


 秘密を打ち明けた貴族たちは慄き、事をしばらく隠していた男爵家一族が、国外へ逃亡を図るも国境手前で捕縛された、そんなことは全く彼女の脳裏にはなかった。


 彼はどこ? 


 霞む視界が群衆の中、建物の柱の陰に愛しい顔を見つけた。


 彼は長いマントと目深にフードを被っていたが、その姿はいかにも貴族のお忍びといった風体だった。どこにも拷問の痕や体を壊している様子は見えなかった。


 隣の従者らしき男が彼に何かを囁くと、彼もこちらを横目で見ながら口を動かした。


『しかし惜しいですな。あんな綺麗な女を燃やしてしまうのは。

 せめて『隷属』首輪でもして、夜の奴隷にでもすればいいものを」と従者。

『ふふん、それは俗な考え方だよ」

 彼の口元に今まで見た事もなかった、下卑た笑いが広がっていた。


 言霊が彼らの言葉を聞かせて来たのだった。

『綺麗な女も3回も抱けば飽きるものさ。

 なんとか苦労して媚薬の香を託宣の場に持ち込めたけど、本当に綺麗なだけのお人形だった。後半はもう奉仕してる気分だったよ』

 と、彼が苦笑するのがわかった。


 もうまわりの音が全く聞こえなかった。

 手を振り上げ叩き合唱するようにコールする群衆、目の前で罪状を読み上げる審問官。

 彼女が最後に邪気を出さないか注視する僧侶たち。

 足元で積み上げた薪が倒れないように角度を直す執行人。

 観衆たちを近寄らせないように、槍を横に構える兵士たち。

 

 誰も彼もオークより醜悪だった。

 そうして媚薬の効果が消え、真実の目で見た彼は、どの人間よりも邪悪に見えた。


 体に油を塗られている時、雑音にしか感じなかった精霊の言葉が、脳裏に鮮明に浮かび上がった。


 ―――― 自由におなり、サーシャ。俗世のことわりなぞ捨てて ――――


 ああ、私は今まで何に囚われていたのだろう。

 

 思えば物心ついた時から、精霊や妖精たちがまわりに当たり前のようにいた。

 他の神子たちはいちいち力まなくては視えないようだったが、私にはいつも自然にそこにいる存在だった。


 いつからしきたりや人の世に縛られて、彼らと託宣以外で話さなくなったのだろう。

 彼らとのお喋りは心から楽しかったのに。


 そう、精霊たちはとても自由で心地よい波動をしていた。

 何ものにも心奪われず、純粋に自由に世界を眺めている存在。

 それは生まれたばかりの赤子のようなピュアさと、絶大な知識と思考を矛盾なく合わせ持つ、人からすれば悟りにも似た境地。 


 ふとまわりを視ると、群衆の殺気立つ頭の上に、黒や青いものが幾多も浮かんでいた。

 それはこの刑場で処刑された、罪人たちの魂の残穢ざんえ


 ここでは処刑が行われる際に、魔導士や僧侶たちが、罪人の魂を着実にこの世から追い出すために場を祓う。 

 レイスや怨霊が伝説事でないこの世界では、そういった魂が悪霊化して、この世に災害をもたらさないように配慮しなくてはいけないのだ。


 しかし罪人の中には最後まで足掻く者や、冤罪の者も少なくない。

 本体を飛ばしても、そういった強い思念を残していく場合も多々ある。


 それは自然と消え去っていく事が多いのだが、この地に留まり、地に潜み、鬱々と這いまわり、低迷した精神を持つ肉体と波長が合えばつくこともある。

 いわゆる悪い地の良くない気となるのだ。

 そしてこの地では、それを完全に取り去るほど、浄化出来る僧侶がいなかった。

 悪い気は消え去る前に、少しずつ積もっていった。


 そんな残留思念がたくさん、興奮した民衆の荒れたオーラに翻弄されるように、頭上をグルグルまわる。

 現代風に例えて言うなら、ゴッホが病んだ時に描かいた渦巻のように。


 死んで本体の魂もここにはもういないのに、思いだけがこの地に残っているなんて、なんて哀れな――


 その時、久しぶりに精霊の吐息を感じた気がした。


 ―――― そうね、私も一緒。

 ただ人の道具として生きて、最後にあんな人に執着して、自分を殺す羽目になるなんて。

 

 これじゃまるで

 ―――― 馬鹿みたい ――――


 急に今までのことが、夢から覚めたように吹っ切れていった。


 他人に振り回されて自分を縛りつけていたなんて、なんと愚かだったことか。


 もっと心を解放して、心のおもむくのままに生きればよかった。

 自分は唯一無二の自分なのに。 

  

 彼女はいつの間にか、渦のようにまわる残穢たちに語りかけていた。

 それはすでに個性はなく、ただ無念や怒りの意思の残骸、いつまでも落ちない染みのような存在。

 ただ、もう一度、生を感じたいという思いに霧散せずに残っている。


 それならそうすればいいのに――


 漠然とフラフラと浮遊していた負の気たちに、彼女ははっきりとした方向性を示していた。

 

 進むべき道を与えられた穢れ達は、そのまま生者たちに降り注ぐ。

 それは民衆のみならず、まわりの兵士達、また今まさに火をつけんとしていた執行人のオーラにも染み込んだ。


 密集した人たちの殺気や興奮が、みるみるうちに狂暴化する。それは怒号だけに留まらず、隣の者を押し合い、掴み合う揉め事に変化していった。

 あちこちで争いが勃発する。

 それを抑えようとこれまた頭に血が上った兵士が、槍や剣を振り回す。

 切られた者が悲鳴を上げる。


 松明を持っていた執行人が、恐ろしい悪寒と気迷いにおぞけ、後ろの油の入ったバケツをひっくり返す。

 そのまま躓いた執行人が、松明と共に油の流れた石畳に転ぶ。

 彼はズボンや腕についた火に、通常なら落ち着いて対処できる平常心を失っていた。


 油と共に炎が走り、民衆のほうへと流れ込む。密集した観客たちは咄嗟の事に逃げられない。

 そこへ火が燃え移った執行人が、暴れて更に人々に燃え移る。


 広場はたちまちパニックになった。


 その時、民衆を掻き分けて、剣を振るい動揺する兵士たちを叩き伏せる男がいた。

 かのローゼンマイヤー、今のロイエである。


 彼は主君を手にかけて逃亡した後、死地を探しているうちに偶然、彼女の処刑を知った。

 娘と同じ愛称の少女。それが火焙りにされると聞いて、居ても立っても居られなくなった。


 この命を投げ出す前に、せめて彼女を救いたい。もうこの腐った皇国に、最後まで一矢報いて逝きたい。


 混乱する兵士を怒れる騎士ロイエが次々となぎ倒していく。


 ああ、あの人も怒っている。そして凄く悲しんでいる。

 深い深い奈落の底で血の涙を流し続けている。


 不浄な気が更に力を得て、うねりを強くする。

 やっと事態に気がついた、僧侶たちが慌てて浄化をかけようとするが、すでに遅し、黒き気は人々のオーラと一体化していた。


 動転した兵士は取り乱した民衆に遮られ、思うように動けない。

 逆にロイエのまわりは人が避けていく。

 焦った兵士がまた邪魔な民衆を、切り除けようとする。

 攻撃され半狂乱になった剣士が、兵士に反撃する。

 そんな人の壁を盾に、ロイエが確実に兵士を仕留めていく。


 刑場はまさしく阿鼻叫喚の地獄絵図となった。

 もう逃げたのか、それとも巻き込まれ、石畳に冷たい骸となっているのか、すでに彼の姿は見えなかった。


 ただ雪が――

 白い雪に血や怒りの真っ赤なオーラが映って、赤く染めて見えた。

 そうして倒れ込む人や、怒り錯乱した者たちの顔は、頭に血が上っているはずなのに、生気を失い、死人のように青かった。


 そのオーラはみな、赤や黒に視えた。

 ただロイエだけが、赤いオーラの中に懺悔の深い青色を纏わせていた。


「サーシャ、君はサーシャというんだな」

 真っ直ぐな潤んだ瞳が覗き込んできた。

「そうよ、私はサーシャ、それ以外の何者でもないわ」


 彼女はこの時生まれ変わったのだ。

 自由に心のゆくままに生きていく、解放されたサーシャに。


 騎士は同名の少女を救えることに、胸を詰まらせながら彼女の縄を切った。

 広場はまだ混乱状態が続いている。

 2人はその騒ぎに乗じて逃げおおせた。



  **************



 4層に繋がる亀裂まで来た時、ふと彼女は振り返った。


 アーロンは遠く彼方の方で、まだ怒り猛りながら咆哮を繰り返している。

 もう彼女の声は聞こえないだろうが、言霊を残すように彼女は呟いた。


「アーロン、力を貸してくれたのだから、私も約束は果たすわよ。

 貴方の家族に必ず伝えるから」


 そうして4人は亀裂の中へ消えていった。

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