第150話☆ サクリファイス・チルドレン

 すいません。また長めで、またちょっと重い話になりました。


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『予知』という能力がある。

 言わずと知れた未来を予測できる力だ。

 占い師と呼ばれる者なら持っていそうだが、実は意外とこの能力者はいない。希少な能力らしい。


 実際に占い師を職業にしている者たちの多くは、『過去見』という過去を視る能力だそうだ。

 この過去見は占う人物や物を触って、そこからの記憶を視ることが出来るという。だから人や物探しに多く活躍する。

 以前のドラゴンの鱗を探す件で、ギルドが使ったのもこうしたやり方らしい。これは地図上にダウジングや水晶など、道具を使うのが一般的だ。

 もちろん、こうした占い師たちも未来の予言は出来る。


 過去見能力といえども、過去と現在までに繋がる流れを視れるので、そこからその先未来のニュアンス的なものを感じとることは出来るのだ。

 ただそれはあくまで高い可能性であって、確実ではない。

 よくなんとなく悪い予感がするとか、あんな感じだ。

 

 だが、それと違って予知能力者と言われる者は、その場面、鱗片をハッキリと感じる事が出来る。

 それがいつという事まで分かる者もいる。

 彼らは記憶を視るのではなく、運命の糸を読むことが出来るからだ。


「読めると言っても、ほんの僅かだ。それも自分の未来しか分からない。

 しかも危険が非常に高い時だけだな。だからある意味、基準以下というのは当たっている」

「それじゃ他の人には何の得にもならないじゃないか。なんでそれが悪用されるんだ?」

「お前は平和な国に生まれたのを、有難く思わなければならんな」

 奴はこちらに首を向けながら、器用に人を避けて歩いていた。


「そうだなあ」と、少しの間、やや上に視線を向けていたが

「お前の脳みそは平和ボケしてるようだから、少しは自分で考えろ。ヒントは、『勘が良いガキの使い方』だ」

「なんだよ、ケチだな」


 そんな話をしながら歩いていたら、ちょうど新聞社の前に来た。

「オレはちょっと神界で打合せしてくる。お前は先に行ってろ」

 そう言って階段のところで消えた。

 なんだかモヤモヤした気分が残された。


 そのまま階段を上がって、7階の『フォックス・カンパニー』のパネルが付いた部屋まで来ると、中から複数の人の声や立ち動く音が聞こえてきた。

 一応ノックをしたが、聞こえないのか返事がないので「すいませーん」と声をかけながらドアを開けた。


 中には5人の男達がいた。

 1人はもちろんチコで、彼はこちらに背中をむけて何やら、大机の上で書類に次々と何か書き入れていた。

 他に1人が紙や木板を壁の棚に振り分けていて、もう2人が、今朝俺たちが使っていた応接間セットのある、衝立ての向こう側で何やら話し合っている。

 そうして1人の恰幅のいい男が、窓際の離れた机で新聞を読んでいた。

 俺がドアのところに突っ立っていると、その男が顔を上げた。


「ん、お客さんかな?」

 その声にチコが振り向いた。

「あ、ソーヤさん、どうもお帰りで」

 それを聞いて恰幅のいい中年男が、眉をひそめた。


「ええと、あの旦那は?」

「奴はちょっと用があるとかで、出かけました。そのうち戻ってきますよ」

「さいですか。すいやせん、今ちょうど応接間を使ってるので、こちらにひとまず座ってくだせえ」

 チコが立ち上がって、自分の隣の椅子を勧めてきた。

 取り散らかった机の上の書類や木板を、慌てて乱雑に奥に積み上げる。

「今、お茶でも入れやすね」

「いえ、そんなお構いなく」

 なんだか仕事場に邪魔者で落ち着かない。


「おい、チコちょっと」

 窓側にいる男が呼んだ。雰囲気的に偉い人だろう。

「へぇ」

 チコが行くと2人で小声で話し始めた。


「お前、あいつがその自称英雄だっていうのか?」

「いや、あの人はその人の連れですよ。なんでも用があるとかで、後で戻ってくるようでやすけど」

「本当かぁ?」

 ジロッとチコの細い肩越しに俺の方をチラ見した。

 俺は反射的に軽く頭を下げたが、男はまたチコの方に向き直った。


「それに本物だっていうが、『エオニオニィタ テレス永遠の終わり島の戦い』は100年以上前だぞ。そいつは長命種なのか? もし獣人だったらとんだ食わせ者だぞ。

 これはあまり一般に知られていない情報だがな、あの戦いが停戦する時、和解のために生き残った亜人たちのほとんどを、魔族側に生贄として引き渡したらしいからな。中でも獣人は1人残らずだ」 

「いえ、アクール人ですよ。店長」

 チコが前屈みになって更に小声になった。

 そう声を落としても同じ部屋内だし、俺には聞こえちゃうんだけど、ここは聞こえない振りをしておこう。


「アクール人って、そりゃ珍しいかもしれんが、それだけじゃ決定打にならんぞ。

 第一、昨夜ここに泊めたって? 

 ウチは確かにチンケな弱小情報発信社かもしれんが、一応色んな情報を扱ってるんだ。まだ発表してない情報やら、それこそ表においそれと出しちゃいけないようなネタもな。

 そんなとこにお前は、どこの国の者かも分からない奴を一晩泊まらせたのか」

 店長と呼ばれた男は、白髪交じりの暗緑色の縮れ髪をわしゃわしゃ掻いた。


「店長、大丈夫ですよ。あの人達はそんなケチな真似しませんって。それに色々ネタを貰ってますし」

「ふん、出まかせだったら、何とでも作れるだろうよ。ウチもそれをさも真実っぽく、味付けして提供してるところもあるからな。 

 だが、英雄史に基づく虚言だけは駄目だぞ。ヘタすりゃ異端審問モノだ」

「わかってやすよ。だけど絶対、あの人に会えばわかりやすよ」

 チコが一生懸命、店長を説得してるようだが、店長はますます胡散臭そうな目で俺の方を見た。

 ううむ、なんか居づらいな。大体、挨拶する機会も与えられてないし

 あいつなんでこんな時にいなくなるんだろ。

 

 それから二言三言話すとチコは、奥の今は使っていない暖炉がある壁の方に歩いていった。その暖炉の隣には壁が凹状に引っ込んだスペースがあって、そこに水亀や竈が置いてある。

 彼がお湯を沸かしている間、なんだか手持ち無沙汰なので、机の上に置かれた書類等に目を向けた。


 さっき彼が色々書き加えていたのは、どうやら新聞にする前の原稿のようだ。あちこちに×や訂正の跡がある。

 積み上げられているタブロイド紙は、もちろんここの『ジ・スライ・フォックス』だが、その他にも小冊子や他所の新聞らしいものが重なっていた。

 なんとなくパラパラ見ていると、間に精密に描かれた数枚の肖像画が出てきた。

 みんな胸から上の絵で、モノクロだが、髪の色や目の色などが横に書き込まれている。そして下に名前と犯罪歴が書いてあった。

 賞金首のポスターだ。


 以前会った『捻じれのハンス』もタブロイドで見ただけだったが、本来はこうしたサイズにしてギルド辺りに貼りだされているのだろう。

 タブロイドに掲載するときは、これを素に縮小するのか。何気にめくって手が止まった。

 中に1人の女の手配書があった。


 年のころは20代中から後半か。

 白黒なのでパッと見た目は分からないが、女は金髪のように淡い色の髪をしているようだ。

 額の真ん中で分けたストレートの髪は、肩にたっぷりかかっているので、結構長いのかもしれない。

 切れ長の長いまつ毛の奥の目は、遠くを見るような潤んだような、それでいて奥光するような描き方をされている。

 スッとした鼻筋の下にある唇は、何かを言いかけたように少し開いていた。

 なんだか違う目的の店のポスターのように、官能的に描かれてるんだが、本当にこんな感じなのだろうか。

 絵師の趣味で描いてないか?  


 罪状はなんだろ。美人局とかだったら納得なんだが。

『連続放火・強盗殺人……』

 

「お待たせしやした」

 横からチコがカップを2つ持ってきた。

「あ、すいません」

 俺はすぐ手配書を戻した。


「ああ、別にそれは見てても構いやせんよ。ギルドにも貼ってあるポスターですから」

「じゃあこれもタブロイドに掲載するんですか?」

「ええ、広告やそういう掲載料が、主な収入源でやすからね」

 と、俺が見ていた手配書をトンと指で叩いて

「キレイな女でやしょう?」

「ええ。でも悪人なんですよね?」


「そう、最近稀に見る悪女、『無情のサーシャ』でさあ。ここに書いてあるのはホンの少しの罪状で、書き切れないほどの悪事をやったっつう女です。髪の色から『紫のイバラ』とも呼ばれてやすよ」

 女の髪は銀髪と淡い赤紫のメッシュらしい注釈があった。

 綺麗な花には棘があるとは言うが、本当にそんな大悪党なのだろうか。

 

「そう言えば今日聞いたあの『R国の大使』の件、書いたのチコさんでしたよね?」

「さいですよ。面白かったですか?」

 お茶を一口飲むとチコも隣に座った。

「じゃあチコさん、そのR国の奴隷の話とかは知ってます?」

「奴隷?」

 チコがちょっと眉を寄せた。


「ええと、なんていうか、私の国にもいないので、ちょっと興味があって……」

 あまり良い興味とは言えないな。

「その、子供とかも奴隷になるんですか?」

「ああ、この間の記事の、そりゃあなりやすよ。ただ最近は諸外国でも、ある程度の年齢以下は廃止にしたようでやすけどね」

 それがあの『未成年者の奴隷撤廃』か。それでも中学生くらいなら奴隷にしてもいいのかよ。


「その、奴隷になった子供って、どんな仕事が多いんですか? 例えばほとんど物運びにも使えないような、幼い子供とか……」

「うーん、そんな小さな子供だと、煙突掃除もする腕力がないっつう事ですよね。だとすると『泥つぐみマッド・スラッシュ』みたいな物拾いですかね。あとは赤ん坊の面倒見るとか、そんな雑用でしょうか」


 この『泥つぐみ』というのは、川や泥沼などの中に落ちている物を拾う、老人や小さな子供のような力の無い者がやる仕事である。

 水面の虫を突っつくツグミに似ているので、そう呼ばれている。

 地球でも『泥ひばりマッド・ラーク』と呼ばれ、19世紀ロンドンなどの橋下で見られた光景だ。


「なるほど……。じゃあそんな小さな子供で、例えば勘が鋭いような子供は別に仕事があるんですか?」

 お茶を口にしていたチコが、手を止めて俺を見た。

 眉と口がなんとも言えない感じに歪んだ。

「ソーヤさん……何かそんな子を見たんですかい?」

「え、いや、見てはいないですけど、ただ、そういう子はまた別格みたいな事を聞いたことがあって……」


 チコはカップを机に置くと、ちょっと何か見るように窓の方に目をやりながら、その長い顎をポリポリ掻いた。

 そうして少し声をひそめて

「こいつはねぇ、情報ネタとして知ってるんですが、あまり面白い話じゃないというか、胸糞悪いもんで、お蔵入りしたネタなんでやすがね。

 R国じゃそういう子供を『サクリファイス・チルドレン』にしていたらしいんでやすよ」


「サクリファイス・チルドレン?」

 なんだか穏やかな名前じゃないな。


「ええ、勘が強いってのは、直感力があるって事でやしょう? だからヤバい場所なんかに連れていくんでやすよ。

 強い魔物が出そうな気配があるところとか、炭鉱とか火山の盆地とか、悪い空気とか気とかが漂っているような所に連れていくんす。

 普通、真っ先に異常が出るのは体力のない子供でやしょう。だけどそれではすぐに死んじまって、1回こっきりですからね。

 だけど、勘の鋭い子は、事が起こる前に尋常じゃない泣き方をしたりするんですよ。

 これから自分の身に起こる事がわかるように」


「なんだそれっ!? それじゃまるで『炭鉱のカナリヤ』じゃないかっ!」

 つい俺は声を荒げてしまった。

「へぇ、兄さんのとこではそんな高級な鳥を使いなさるんで? そりゃあ安い子供の相場の5倍はしやすよ」

 同情気味に話していた男が、すこしビックリしたように言った。

 なんだそれ、何か間違ってないか……。


「まあ、気分のいい話じゃありやせんからね。だからR国もまわりの諸外国の目を気にして、子供を除外したってことのようですけど、まだまだ裏ではねぇ~」

 と、肩をすくめてみせた。


 彼もそういう目にあったのだろうか。だから大人になっても辛い過去を思い出したくなくて、話したくないのか。

「それにそういう勘の持ち主は、大人になってもいけやせんから」

 また書類を手に取りながらチコが言った。

「えっ どうしてですか? だって大人なら言葉で示せばいいですよね?」


「いや、そういう訳にもいかないんでやすよ。ああ、兄さんは別大陸のお人だから、こういう話を知らないんでやすね」

 そう言って、この大陸に伝わるある昔話をしてくれた。


 昔、某国にとても勘の鋭い男がいた。男は農夫だったが、ある日いつもの仲間に山菜取りに誘われたが、腹が痛いと行くのをやめた。そのまま仲間は山で魔物に襲われて死んだ。

 またある時、作物の刈り入れ時でどこの農家も忙しい時に、男は自分の畑をほっぽって、急ぎでもない用で離れた町に出かけていった。

 その間に彼の村は盗賊の一団に襲われて、壊滅した。

 1人生き残った村人として、審問官の前に突き出された男は、盗賊の手引きをしたのではないかと疑いをかけられた。

 それで男はとうとう自分の秘密を話した。


 自分には未来の危険が見える。それは突然頭の中に、自分の死ぬ姿が浮かび上がり、まさしく体験するのだという。

 だからその姿が見える場所に行ったり、行動をしないようにするのだと。


 確かに男の見の周りで過去起こった事件を調べると、いつも男が行動していたことをやめた日に限って、事件が起きていた。


 そんなにピンポイントで分かるなら、敵が来るタイミングがわかるのではないのか。

 当時、隣国と戦争をしていた某国の参謀たちはそう考えた。

 そうすれば敵の動きを先回りして、防ぐことも返り討ちにする事も出来る。

 だが、男の能力は自分の事だけ。自分に降りかかる災いのみ分かるのだった。

 つまり男自身が危険に晒されなければ発動しない。


 そこで参謀たちは考えた。

 コイツを最前線に連れて行こうと。


 哀れ男は檻に入れられ、戦場の最前線に連れていかれた。

 そこで男は数々の死を体験した。

 ある時は矢を射られ、ある時は爆破で四散し、またある時は拷問の憂き目に遭う。

 それは全てそこに男が居続けた場合に起こる、未来の出来事だった。つまりそこに敵が攻め入って来るか、斥候がやって来るということ。


 これは相手がどんなに強力な護符や隠蔽をしていても、見抜かれてしまう、まさに防ぎようのないレーダーだった。

 何しろ視ているものが違うのだから。


 おかげで某国は、敵が闇夜に川を渡ってこようが、地下道を掘ってこようが、全て裏をかいて返り討ちすることができた。3カ月も経たずに戦争は終結し、某国が勝利を収めた。

 もちろん男の貢献が大きかったのは言うまでもない。

 さぞ男には沢山の報酬が渡されたことだろう。


 しかし現実には彼は1硬貨も貰えなかった。

 戦争が終結する前に、男は病死してしまったのだ。

 過度な恐怖の連続が、男の心臓や自律神経を疲弊させたのだ。おそらく武人でも、一生を通して味わわないぐらいの数の死を体験したのだ。

 その恐怖と苦痛たるや、いかほどだったのだろう。

 何より恐ろしいのは、この話がただの噂話ゴシップではないということだ。

 

「まあ、そこまで行くと勘というだけじゃないと思いやすけどね、何かの特殊能力かと。何しろ、ヘタな占いより精度が高いですから」

 そう言ってまた顎を擦った。


 俺の手にしていたお茶は冷めてしまった。

 なんだか答えを考える前に、見つけてしまった気がした。

 でも、もしそうなら彼が言いたがらないのも納得がいく。

 俺が地球ではこの超回復力を隠すように、利点が負の財産になっているからだ。

 この答えは合っているのだろうか。


 ★★★★★★★★★

 

 蒼也たちが店を出ていった後も、ヨエルはすぐに席を立たなかった。

 娼館内は昼間だというのに、半分近くの席が埋まって、客に女たちが寄り添っている。


 彼は1人、奥の席で煙草の煙をくゆらせながら、先程の紙を眺めていた。

 こんな紙っぺらが、彼の人生を20年以上縛ってきたのだ。

 そう考えるとなんだか酷く惨めなような、また馬鹿馬鹿しくも思えた。

 それが今や、その呪縛はこうして自分の手の内にある。


 ただ、どうやって彼らがこれを入手したのか、なぜこんな酒を奢るような気楽さでこれをくれたのか、本当に分からない事だらけだが。

 それにおれのガキの頃を知っていたという事は、あの能力にも気付いていた可能性が高い。

 そのために近づいてきたのか? 


 ――分からない。

 あの一番の危険ポイント『アジーレ・ダンジョン』を避けられそうな流れになって、今、頭の中の危険信号は消えている。

 まだ明々後日しあさってに対する不安感は消え去らないが、これはどこに行っても同じ気がする。

 それにあのSSの男が、もし本気でおれを利用しようとしたら、まず逃げられないだろう。

 このまま大人しく依頼を受けた方が、一番被害が少ないかもしれない。


 それに1つ言えるのは、これで彼はひとまず自由人になれたという事だ。

 あの男達が今日言った依頼以外に、本当に何も要求してこなければ、彼はすでに自由の身なのだ。

 にわかに信じ難いが、どうやら現実らしい実感が、少しづつ時間が経つごとに染みてきた。


 ふうぅぅぅーーー 深く煙を吐いた。

 白い煙は自然に前に流れて霧散していく。

 今日はこれを肴に飲み明かしてやるか。

 そう思うと体の奥からゾクッとする身震いが起きた。


 もうこれは他人の手に渡らないとは思うが、一秒でも早くこの世から消し去ってしまった方がいいブツだ。

 しかし逆に何故か、すぐに燃やしてしまうのは勿体ない気もした。

 少し考えてから、右手に煙草を持ちなおすと、紙に煙草の先を押し付けた。

 ジジッと紙の一部が焼けていく。

 ――よし、これでいい。

 これでこの契約書は無効になった。

 もし万が一、他人の手に渡ったとしても、なんの効力も持たない、ただの紙屑になった。


 契約書のあの小さな手形があったところに、ぽっかり穴が開いていた。

 しばしの間、彼は目の辺りに手を当てていた。

 まるで煙が目に染みたように。


 それからふと、天井を見上げた。

 エイダは待ちくたびれて、ぐっすり眠っているようだ。

 だけどおれがこのまま帰ったら、きっと怒るだろうな。

 しょうがない。起きるまで添い寝して待つか。


 そうして階段を上がりながら、またふと考える。

 段々と自由になった解放感がこみ上げてきて、つい叫んでしまいたい衝動に駆られてきた。

 腹の底から何とも言えない笑いがこみ上げてくる。

 これを誰かに打ち明けてしまいたい。喋って楽になりたい。


 だが、一時の激情に流されて行動した後はどうなる?

 奴隷は穢らわしいとされた身分だ。それは奴隷制度のないこの国でも変わらない。

 娼婦も褒められた職業じゃないが、それでも奴隷よりはマシだ。

 まだ人間扱いされる。

 だけど奴隷は物と一緒だ。

 あいつはおれが元奴隷だったと聞いたら、やはり軽蔑するだろうか?


 廊下に出て、奥より1つ手前のドアの前で立ち止まる。

 エイダの狭い個人部屋だ。

 別に売れっ子ではないが、まったく人気がないわけではない、いわゆる中くらいには稼げるぐらいの魅惑度はある女。

 何人かいるお得意の中で、なぜかおれに特になついてくる。

 常連客の中で、おれが一番金払いが良い独身というだけなのかもしれないが、『仕事抜きで会いたい』と言われれば、リップサービスと分かっていても悪い気はしない。


 エイダを気に入っているところの1つは、客の秘密を他所にべらべらと喋るような女じゃないという事もある。

 もしおれが秘密を話しても、少なくとも外には出さないだろう。

 ただ、おれを見る目が変わるかもしれないが。


 ヨエルは1つため息をついた。

 まあいいか。それならそれで仕方ない。

 そうなったら、それだけの関係だったというだけだ。

 娼館はここだけじゃないのだし、彼女は顧客を1人無くして、おれはちょっと心に傷をつくるかもしれないが、そんなもの、自由の喜びに比べればなんてことない。


 だけど、もし……彼女の反応しだいでは、明日、祭りに連れてってやるのもいいかもしれないな。

 そんなことを考えながら、彼はドアノブに手をかけた。

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