第119話 さらば 友よ その2
次の日の日曜日の昼、俺は田上さんの団地にお邪魔した。
2Kの居間にすでに手作りのケーキがテーブルに用意してあり、昨日から仕込んでいたというビーフストロガノフを出してくれた。
俺はおそらくケーキは用意されていると思っていたから、スパークリングワインと文●堂のカステラ詰め合わせセットを持っていった。
彼女がカステラが好きだと、話しているのを聞いたことがあるからだ。
この日はもちろん、何事もなかった。いやしなかったというべきか。
カステラの件は、同じフロアでたまたま聞いたのではなく、同じ会社内にいてつい彼女が気になって、意識を伸ばしたら聞いてしまっていたのだ。
もう、我ながらストーカーっぽいと思う。
彼女の喜ぶ顔を見ながら、そんな罪の意識を感じていた。
だが、意識を伸ばすだけで、離れた場所を探知してしまうこの能力は、なんとも制御しがたい。
どうにか普段スイッチを切っておくことは出来ないのだろうか。
今度、奴が来たらあらためて訊いてみよう。
1つ進展したと言えるのは、彼女の1人息子が俺に慣れたことだ。
始めは知らない大人の男に警戒してか、ジッと俺の顔を見ながらも母親のそばから離れなかった。
だが俺は、18までたくさんの血のつながらない弟妹たち(同じ施設の)の面倒を見ていたのだ。自慢じゃないが保育士に慣れるんじゃないかと、勝手に思っているところがあるくらいだ。
ものの1時間くらいで警戒を解いた子供は、俺の膝の上に座っていた。
これには彼女も驚いたようだが、俺が子供の遊び相手をするのを少し嬉しそうに見ていたと思ったのは、俺の欲目だろうか。
とにかく『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ』だ。
我ながらこすからいと思うが、彼女に子供に好かれる男をアピールできたと思う。
だが、誰もいないアパートの部屋に帰ってきて、ふと俺は一般人の彼女と暮らして行けるのだろうかと不安がよぎった。
いやいや、そんな先の事、今考えてもしょうがない。
また変な考え事をして眠れなくなってしまうと困るので、寝る前に早速癒しの水を飲む事にした。
あちらでは10時には眠くなってしまうくせがついていたので、こちらの仕事のリズムに合わせるのがまた大変だなあと、寝ながら考えていたところで意識が消えたようだ。
次の日は変わらぬ朝が来た。
火曜日、いつも通り入荷した商品をトラックから降ろして、キッチン売り場に荷を下ろしている時、ふとコーヒーミルを見つけた。
あいつは酒には及ばないが、時たまコーヒーを飲む。
作らされるのはいつも俺だが、作ってやるのはみんなインスタントだ。
俺はミルクや砂糖を入れてしまうが、あいつはいつもブラックで飲む。コーヒーの味が一番わかる飲み方だ。
喫茶店なみとまでにはいかないが、たまには豆から挽いてやってもいいかもしれないな。
豆は挽くとすぐに鮮度が落ちるから、飲む分だけその都度挽いたほうがいいと聞くが、収納に入れてしまえば時間は経たないから鮮度は変わらない。
だけど豆を挽くという行為もなんだか、いかにもコーヒーを淹れる感じがしてちょっと憧れる。
香りも良さそうだし。
早速次の日の水曜日、俺は仕事に行く前に浅草に行った。
かっぱ橋道具街通りでドリップセットを購入しにいったのだ。
平日とはいえ、クリスマスのせいで結構な人出だった。
おかげで店員に貼り付かれずに済んだが、結局よくわからないので、お店の人に聞いて、初心者推奨のもので安価なのを買ってきた。
とりあえず\3,000くらいの手挽きの丸筒コーヒーミルと、ガラス製のコーヒーサーバーと陶器のドリッパー・紙フィルターのセットで、全部で\5,000くらいになった。
肝心のコーヒー豆は、以前上野からの帰り道に寄った、純喫茶のブレンド豆にした。
こういうのは好みがあるけど、奴が気に入って飲んでたんだから大丈夫だろう。
会社に行くまでに時間があったので、早速一杯分だけ豆を挽いてみる。
これだけでも良い香りがしてくる。
あ~なんかリラックスする。薬缶でお湯をゆっくり注ぎながら、早くも今度は、細口ケトル買っちゃおうかななどと思ってしまった。
うんうん、我ながら美味いな。
俺は自画自賛しながら、ゆっくり淹れたてのコーヒーを味わった。
奴が戻って来るまでに、挽き方も色々研究してみるか。
しかし、今回長くなりそうだと言っていた通り、奴は全く姿を現さなかった。
さすがに金曜の夜、明日の予定を簡単にでも話し合いたくて、テレパシーを闇雲に発信してみたが、全く手応えはなかった。
ほとんど使った事はなかったが、奴のスマホにかけてみた。
『――― 電波の届かない場所にいるか電源が……』のアナウンスしか流れない。
しょうがない。明日決めるか。
俺は炬燵を壁際にどかして布団を敷いた。
電気を消して布団に横になろうとした時、急に悪臭がしてきた。
それは汚物が発している臭いとか、何かが腐ってる発酵しているとか、一言で言うにはなんとも説明しづらい、嗅いだことのないような不快な臭いだった。
電気をつけようとして立ち上がった時、後ろに誰かいるのに気が付いた。
俺が反対側に飛び退くと同時に、その人物は聞いたことのある声で言った。
「ああ、悪い、悪い。臭いがまだ残ってた」
そう言ってその人は手で、体を一振りした。
臭いがサァッと引くように消えた。
「リブリース様 ?!」
電気をつけた部屋の中に、黒い姿のリブリース様が立っていた。
「もう臭いが中々取れなくて。こんなんじゃ女の子に嫌われちゃう」
クンクンと自分の服の臭いを嗅いでいる。
「どうしたんですか? 地球にいつ?」
俺は布団をめくって座布団を出そうとした。
「あー、かまわないで。おれ、自前のあるから」
そう言うと足元を包んでいた黒い霧が、雲のように濃くなってきて、畳から40cmくらいのところに浮かんだ。
その上に黒い男は胡坐をかいて座った。
「いやー、ゴメンね。こんな遅くに来ちゃって。ちょっと帰る前に伝言を頼まれたから」
いつも通りニコニコ顔で言う。
「伝言って、もしかしてヴァリアスからですか?」
俺も布団の上に座り直した。
「そうそう。ヴァリーがね、『自分がいなくても、しっかり生きろよ』って」
なんだよ、それ? わっかんねぇな。
「あいつ今 何してんですか? なんか別件とか、用事だと言ってましたけど」
「まあ仕事だよね。おれ等使徒も遊んでる訳じゃないからさ。
今回、
また自分のサーコートを摘まんで、匂いを確かめる。
「そうなんですか。あいつ、何も詳しい事は言わなかったから……」
「そうだねぇ。まあ無事に終わってから言うつもりなんじゃないのかな。
ただ今回、厄介で面倒だから長引いてるけどね」
「そのプロジェクトって、ちなみにどんなのです?」
「う~ん、それは俺からは言えないなぁ。
ただ今回、
「神……の兵? あいつの事ですか」
「うん、普通はおれ達、闇や火の者なんだけど、今回は創造神様の事業だし、あいつは『神々の傭兵』って呼ばれてるから」
やっぱり神界でも傭兵なのかよ。
「という事は、何か戦いとかなんですか?」
「そう、地球の神々の戦い」
リブリース様は足を組んだ。
何故か下ろした左足は、膝下の途中から消えていた。
「…………リブリース様、足……どうかしましたか……?」
「あ、これ?」
膝から下が消えた左足をブラブラさせながら、闇の使徒が言った。
「喰われた。君たちが悪魔って言ってる、こちらの悪神に」
「ええっ !?」
俺は左足をあらためて凝視した。
膝下から布が裂けて破れたようになっている。断面は見えないが、動かす度に微かに、黒い霧が漏れるように出ては消えていく。
「大丈夫ですか。痛くはないんですか?」
「アリガト。もう大丈夫。すぐ生えてくるから。それに応急処置としてこうして――」
漏れ出る霧が急に増えたと思ったら、欠損した足の形になった。
黒い義足が形成された。
「それにしても油断したなぁー。ちょっとナメてたわ、うん。まさかあんなに数がいるとは思わなかった。
こっちの奴らも放置し過ぎだよなぁ」
黒い使徒はグレー混じりの黒髪を軽く掻いた。
「あの……それって悪魔って、悪神というと……神様なんですか? 堕天使じゃなくて」
「うん、人間にはそういう解釈になってるみたいだけど、天使じゃなくて神族だよね。
新興勢力の。下位の奴らは天使クラスだけどさ。
だって地獄を管理させてるんだよ? 本当の敵はそんな事しないでしょ?」
グリグリと、黒い義足の足首をまわしながら続ける。
「つまり対立勢力とは言っても、ちゃんと繋がってるんだよ。うちの首位勢力と次位勢力のような関係よりは、過激にやり合ってるみたいだけどね。
あ……君はまだこっちの人間だったんだった。あんまり教えちゃ不味いか」
黒い男はそう言いながら悪びれた様子もなく、どこか軽い態度で話した。
なんだか、だんだん落ち着かない気分になってきた。
「その……それって神様たちの戦いに参加したって事なんですか?」
「そっ、ざっくり簡単に言っちゃうとそうだね。で、進出を許してやる代わりに、手駒(戦力)を貸せって言ってきた訳。
大体おれ等使徒なんて、いつもそんな扱いだよ」
リブリース様は肩をすくめてみせた。
「でも、流石に使徒なら、死ぬなんてことはないんでしょ?」
俺はどことなく不安を消したくて、わざと明るく聞いてみた。
「あるよ」
黒い男から笑みが引っ込んだ。
「おれの足を見たでしょ? これは動物園でイタズラして、わざとライオンの檻に足を突っ込んだのとは違うんだよ」
「…………」
俺は言葉が出なかった。神様たちは死なないと勝手に思い込んでいたから。
ネーモーは神様から切れて部外者になってしまったから、他の生物と変わらなくなってしまったようだが、奴のように現役の使徒は関係ないと、どこか思っていたのに。
「その……あいつは無事なんですか……?」
「うん、元気だよ、呆れるくらい。おれも戦闘系だけど、あいつのテンションには負けるね」
思い出したのか、クスリと軽く笑った。
「――だけどあれじゃ、体がボロボロになっても気がつかないだろうなあ」
俺ではなく、何か遠いところを見るような目で言った。
「この足はやられたばかりだからそのままだったけど、実は修復中なとこがもっとあるんだよ」
黒い男の体からシュウシュウと、黒い霧が滲みだした。
その霧の中の姿を見て、俺は愕然とした。
まるで機関銃の乱射を受けた人形のような姿がそこにあった。
左目は潰れ、中から黒い霧が立ち昇り、体のまわりを舞っていた。腕や足は元より、胴体も穴や深くえぐれがあった。
そして頭も少し欠けていた。
「じゃあそろそろ帰るね。おれもちょっと体治さなくちゃ。
だけどホントにもう、臭わない? おれの鼻、この臭いに慣れちゃって感じなくなってるかもしれないから――」
そう言って、また腕や脚の臭いを嗅ぎながら、包まれた霧と共に霧散して消えていった。
次の日の土曜日、あまり熟睡できずにぼんやりした頭で9時過ぎに起きた。
寝る前にあんな事言われたせいか、癒しの水を少し飲んで眠ったのに、何か夢を見たようだ。
目が覚めると同時にほとんど内容を忘れたのだが、ただ酷く腐臭というか、不快な臭いのする闇の中を彷徨っていたという感じだけが残っていた。
そしてその全く見えない混迷の闇の中に、何かがたくさん蠢いていた。
なんか疲れが取れない感じだ。もう少し癒し水飲もうかな。
だけど奴の言う通り、あんまりこればかりに頼って、依存症になったら怖い気もする。
今日は仕事は休みなのだから、もう少し寝るかと寝返りを打ったら、すぐそばにいつの間にかキリコが座っていた。
「お早うございます。ソーヤ」
「ああ、お早う、キリコ。あいつは? また後から来るの?」
俺は部屋の中を見回した。
「それが……副長は来れません……」
ニコニコしていたキリコの顔が曇って、伏目がちになった。
昨日のリブリース様から聞いた話が、にわかに真実味を帯びてきた。
「…………来れないってまだ、その、別の仕事してるの?」
「そうです。まあ終わったらすぐ来るそうですが」
「じゃあ今日はどうするんだ? もしかして中止?」
「いえ、それは私が連れて行きます。ちゃんと副長から指示されてますので」
と、空中からスルスルと、長い帯のような紙状の物を取り出した。
「ええと、始めはラーケルに行って換金で良かったんですよね」
キリコが帯紙を見ながら言う。
「なにそれ、まさか俺にやらすこと、そんなにあんの ?!」
畳に流れている紙の先はまだ空中に消えている。
どんだけやらせる気なんだ。
「あっ、これ今回の分だけじゃないですよ。今後の事もまとめて書いてあるんです」
俺は横から覗いてみたが、神語らしく全くわからなかった。
「今後って何、ずい分先まで決めてるって事か?」
「ええ、ただ状況によって変更ありですが」
「もちろん大いに変更ありだっ! 俺の事なんだから、そんな勝手に決められてたまるか」
くそ~、あいつ本当に人の運命に係わってるんだな。
一番係わっちゃいけないような顔してるくせに。
「わかってます。ソーヤの意見を一番に尊重するようにと言われてますから。
これはあくまで、これから習得するためにやる事の予定です」
その俺の意見を優先するって言いながら、いつもあいつの思ったコースに乗せられてるんだよな。
もう、出来る限り
キリコの作った朝メシを食べながら、簡単に今後の予定を確認した。
それによると奴はそろそろ、俺をダンジョンに連れて行こうと考えているらしい。
そういやギーレンで地図を買った時も、チラッとそんな事言ってたな。
初心者~中級者用のダンジョン候補を、何件か候補に挙げていた。それぞれに特色や効果が皆違うのだという。
まさかそれ、全部まわる気じゃないだろうな。
神社仏閣巡りと訳が違うんだぞ。
とにかくラーケルに行って、何か仕事を引き受けてみようということになった。
なんとなく新しい町に行く気がしなかったのだ。
「じゃあまず日本橋に行きますね」
昼近くになり、そろそろ行こうと腰を上げた時、キリコが言った。
「何か用があるの?」
「用というか普通、星間の行き来は、星間ポートを使うんですよ。あの換金所にそれがあるので」
「へぇー、確かにあそこ
だけどあいつはそんな事一言も言わなかったし、勝手にいつもゲートを開けて通ってたぞ」
「面倒な事は嫌いなんですよ、あの方は……」
ああ、納得。もうビザを取ってあるから、航空機で行くのも自家用ジェットで行くのも自由ってな発想だな。
「それにこんな遠い星間の亜空間の門を開くのって、凄いエネルギーがいるんです。
私なんかすぐ神力切れになっちゃいますよ。あれは副長だから出来るんです」
そうなんだ。
なんだかんだ言って、あいつは使徒の中でも、やっぱ強いんだろうな。
じゃあ今度の事も心配ないか。
俺はこの時、安易にそう考えていた。
日本橋に転移して、例の消費者金融のドアを開けると、この間と同じ青いドアの先、赤いドアを開ける。
「いらっしゃいませ。本日は渡航でございましたね」
相変わらず瞬き1つしない無表情の日本人形が、綺麗な声で挨拶した。
すでにキリコが予約を入れていたのかな。
「どうぞ、そちらになります」
白い長い指を揃えて斜め右を示した。
そこにいつの間にか、2mくらいの高さの濃霧の塊が出現していた。
いつも通り霧の中を2,3歩歩くと急に視界が開けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます