第102話 購(あがな)われる聖女 その1


 2日目は確かに患者がとにかく多かった。

 俺のイメージだとこういう無料の病院は、とかく忙しいと思っていたので、これぐらいが普通なのだろうと思っていたのだが、先生に言わせるといつもの3倍、患者が来たという。


「大体、あのエゴンも言ってたが、いつもならわざわざ来ねぇような軽症で来る奴がほとんどだったぞ」

 夕食後、執務室の椅子にどっかり腰を下ろした先生は、木の背もたれに寄りかかった。

 そう言われると後半は俺1人でなんとか出来る、簡単な擦り傷やら、打ち身・肩こりとかが多かったな。

「まぁ兄ちゃんの練習には良かったが、視てる俺もちいと疲れたなぁ。もう寝る前に少しひっかけなくちゃ、明日の力が出ねぇかもしれねえ」

 と、先生はヴァリアスに目配せした。


「言われなくてもわかってるよ。まずはどれにする?」

 バッと手品師が布を一振りした途端、何もなかった台の上に美女が現れるように、奴が机の上に右手を一振りすると多種多様の酒瓶や日本から持ってきた缶ビールが出現した。

「おほっ、やっぱスゲぇな。昨日も見たけどやっぱり空間収納って便利だよな。酒をわざわざ隠す場所を悩まなくて済むし」

 司祭様、そういう使い方ですか。


「じゃあ、今しか飲めないこの缶ビールとやらを頂こうかな? つくづく思うがこの入れ物良く出来てるよなぁ。携帯にピッタリだ。もしかして南方の国ダレンの物かい?」

「違うぞ、これは蒼也の国のだ。ダレン同様、ここより色々と文明は高いけどな」

「ダレンって?」

「ほら、以前、成り上がり貴族が言ってたとこだ、タオルの織り方の」 

「ああ、あのテリー織の」

 確か転生者とその子孫たちが多くいるとこだっけ。こういうのも作れそうなのか。


「ふーん、あんた達、国からして変わってるんだなあ」

 もうすでに慣れた手つきで缶のプルタブを起こしながら、先生が勝手に納得した。

 俺も疲れたけど、今日は良くやったから少し飲もう。

「ときにここでは司祭未満の者は、通常酒は飲んじゃいけない戒律か?」

 地元の火酒をカップに注ぎながら奴が訊いた。

「いや、別にそんな決まりはねぇよ。飲みたけりゃ自分の範疇で飲みゃあいいんだ」

「だとよ。そんなとこで覗いてないで入って来い」

 奴がドアに向かって言った。

 するとドアがカタンと軽く音を立てた後、ゆっくり開いた。

 外にはイーファとコニー、カスペルの3人が立っていた。


「すいません、先生。こいつらが先に覗いていたんですよ。僕は注意しようとしたんですけどね」

 イーファがやや苦笑いしながら弁解する。

「ズルッ! 自分だって率先して鍵穴覗いていたじゃん」とカスペル。

 隣で頷くコニー。

「しょうがねぇなあ。いいかい旦那?」

「構わん。酒盛りは多い方がいいだろ」


「やあ、どうもすみません」

 嬉しそうに頭を掻きながら入って来るイーファ。

「あざーすっ!」

 相変わらず軽いノリのカスペル。

 テヘヘと嬉しそうな笑顔でペコペコ頭を下げるコニー。

 執務室で宴会が始まってしまった。


「あの、サウロとナタリーは呼ばなくていいんですか?」

「ダメダメ、彼女に見つかったら落雷モノだよ。そうでなくてもお努めがおろそかだって、小言喰らってるのに」

 イーファがとんでもないというように、顔の前で手を振る。

「サウロの奴はとっくに寝てるっすよ。あいつは堅物だし、ちゃんと規則正しい生活してるっから」

 コニ―が壁に寄せてあった、背もたれの無い椅子を持ってきて机の前に並べた。

 なんだろここは、上の者ほど堕落しているのか?

 それに急に執務室が狭くなった。

 四畳半の下宿部屋に学生仲間が一気に遊びに来たみたいな感じだ。


「しかし俺達が飲んでるのよくわかったな」

 ビールをグビリと一口飲みながら、悪びれずに先生が3人に聞いた。

「そりゃ、わかりますよ。先生の声デカいから」

「昨夜はしっかり、先生の笑い声が筒抜けっしたからね」とカスペル。

 無言でワインをカップに注ぎながら頷くコニー。

「あちゃ~、そっか。つい気持ちよくなって――。確かに壁薄いしなぁ。ナタリーの部屋が離れててよかったよ」

 先生は天井を仰ぎながらペチンと艶のある額を叩いた。


「蒼也、念のため遮音しとけ」

 言われて俺は執務室の壁と床に沿って、空気の振動を防ぐよう遮音魔法をかけた。さっきまで聞こえていた、微かに窓枠をふき抜ける風の音がしなくなった。

「さすが魔法使いだね。ハンター出来るぐらいだから、君も見かけによらず強いんだろうね」

 30半ばくらいのイーファが俺のほうを、あらためて感心したように言った。俺、実はあんたより年上なんだけど……もうしょうがないか。

「まだ駆け出しだから強いとは言えないけど、オークの2,3頭なら倒せますよ」

 ちょっぴり自慢をしたい気もするが、大カマキリを倒したなんて、ギリギリだったから言えないし。

 通常可能なオークにとどめておこう。


 おおっと3人が感心したようにあらためて俺を見る。

 そんなに俺弱そうに見えてたのか?

「流石だね。ウチのサウロだってハイオークを追っ払った事はあるけど、殺った事はないもんなあ」

 えっ、ハイオーク追っ払えたの?

 俺なんかオークでさえ追い払えなかったどころか、殺らなきゃ殺されるとこだったんだけど。

 隣で俺の顔付きで察したらしい奴が、クックッと笑った。


「ぷはぁっ、これエールと違ってマイルドでさわやかで旨いっ。これがラガービールかあ」

 缶ビールを飲んだカスペルが声を上げた。

 それは比較的口当たりがいいヤツだからね。ラガーも色々あるよ。

 意外とイケる口なのか、ワインをクイっと一気に飲んだコニ―が、すでに2杯目をカップに注いでいる。


「だけどやっぱりハンターって儲かるんすね」

 カスペルが早くも2本目の缶を開けながら聞いてきた。ひととおり飲んでみんな口が滑らかになってきている。

 確かにあれからまた追加で寄付をした。金貨じゃ使いづらいというので、銀貨にまた崩して渡したりしたが、それでカスペルがサウロを連れて、気持ちよく食材を沢山仕入れてきたらしい。

 それに俺がウチから持ってきた調味料を渡したのも喜んでいた。

 小瓶の胡椒などを貴重品だとなんだとか騒いでいたわりに、思いっきり使ってくれた。おかげで今日の夕食は、塩や香草だけでなくスパイシーな料理になったが。


「まあハンターとか傭兵って一括りに言っても、ピンからキリまでだが、兄ちゃん達は高ランクの方だよな」

 良い感じに酔い始めてる先生が、俺の顔を覗き込むように見ながら言ってきた。

「いやあ、私はまだEランクですけどね……」

 そうなのだ。俺はDにもなっていないのだ。少し語尾が小さくなる。

「そりゃあギルドの登録ランクだろ? あれはギルドを通したモノのみのポイント制だから、必ずしも能力を的確に表してるとは言えないぞ。俺の見立てじゃ、たぶんD……いやCはいってるだろ」

 先生、俺のこと高く見てくれてるの?


「アイザックが、兄ちゃん1人でレッドアイマンティスやハイオーク倒したって、書いて来てあったぞ。最近ギルドに行ってないんだろ? そろそろランク変更されてるんじゃないのか」

 前の3人がヒューッ! と口笛をふく。

 村長、どこまで俺達の事漏らしてるんだろ。

「そうだな。今度あらためてギルドに確認に行くか。ランクが上がれば受諾出来る依頼も増えるし」

 奴が軽く缶を平たく潰しながら言った。

 それはもっと難易度の高いのをやらせようってことだな。



「ところで、魔法使い君は彼女いるの?」

 だいぶ目が虚ろになってきているイーファが、急に振ってきた。残りの2人もヒタと俺を見据える。

 先生はちょっと前から、休憩と称して椅子の背もたれに寄りかかっていたが、たぶん寝ている。


「え、と……一応、らしき人ならいるよ」

 俺は見栄を張った。

 まだライン交換しただけだが、ここは絵里子さんに彼女のなってもらおう。


「ああやっぱりいるかぁ。そうだよねぇ、これだけの甲斐性があれば女選び放題だもんねぇ」

 そんな事はないが、やっぱりこちらじゃ男は稼ぎ重視なのか?

「あの、聖職者の人たちってやっぱり結婚出来ない決まりなの?」

 ここは女はナタリーだけだし、みんな独身ぽいしなあ。

「ううん、そんな事ないよ。うちは修道院じゃないから、全然大丈夫。だけどねぇ、こういう貧しいとこに来てくれる女はなかなかいないのよ」

 グイっとビールをあおるイーファ。ウンウン頷く2人。


「おいらもさ、パン屋のミリルは来てもいいって、言っちゃあくれてんだけどさ、親父っさんが許してくんねぇんっさ」

 酒が入って口が滑らかになったコニ―が、少し訛り入りで話す。

「ナタリーなんか、残念な事に好みがアレだから、おれ達3人とも惨敗だよ」

 エッ? なんだって?! 


「――そのぉ、3人ともって、皆、彼女に告ったの?」

 そこんとこはちゃんと聞いておかねば。

「そうっすよぉ~っ、ここら辺の男は皆、あのに言い寄って玉砕してるんすよぉ~」

 カスペルがワザとらしい八の字眉を作った。

 えっ、この3人だけじゃなくて?!

 確かに綺麗な娘だけど、そんなにモテるのか?


「今、魔法使い君の考えてること当ててみようかあ? なんであの痣のある顔にって思ってんじゃないの?」

「いや、そんな失礼な事は……。ただそんなに皆あのに言い寄ってるの?」

 半分図星だった。

 俺の感覚だとああいう痣や傷は、どうしても元の美を損ねてしまうだけのイメージがあって、まともに顔を見るのも失礼かと思っているのだが。


「あの痣があるから、おれ達、庶民でも手に届きそうなとこまで降りて来てくれてんじゃないの。

 あれで染み1つなかったら、声かけづらいよ。エルフみたいで」

 イーファが大袈裟に肩をすくめてみせた。


「それにさ、ちょうど目の下あたりまであるあの痣が、ちょっと仮面マスクぽくていいんすよぉ」

 良い感じで酔っ払ってるカスペルが、ウインクする。

 ああ、そうなのか。こちらではそれも個性として見てるんだ。この疫病と共に生きる町だからこそなのかもしれないが、彼女の痣はチャームポイントでもあり、皆との近寄りがたい容姿を和らげる効果になっているんだな。

 国(星)が違えば本当に受け取り方も違うんだなあ。


「やっぱり都会でキレイな女、見慣れてると痣ぐらいも嫌なのかなぁー」

 なんだか不満そうな顔してイーファが絡んでくる。

「いやいや、そんな、見慣れてなんかいないよ。俺だって断然、庶民派だしっ。綺麗過ぎる女相手はどうしていいのかわかんないし」

 俺もいい加減酔いが回って、普通のノリになってきた。

「そうそう、綺麗すぎるのはすぐ飽きるっ! だからおれは白パンより、毎日なら黒パン派だっ。

 だけど彼女は葡萄入りパンだけどなぁー!」

 なぜか立って缶を掲げながら、演説調に話すイーファ。意味もよくわからない。


「だけど彼女、そんなに皆を振るって、やっぱり神に身を捧げてるからなのかな」

 敬虔な信者にはよくありそうだ。少なくともこの俗っぽい4人よりは。

「違うんださ。あのこぉ、別に好きな人がいるんさ、だからぁー、ねっ?」

 コニ―が他の2人に同意を求めて、イーファとカスペルが同時に頷く。

 へぇー、別に堅物じゃなかったんだ。


「このクソ親父だろ? 相手は」

 今まで黙って飲んでいたヴァリアスが、急に発言したその言葉に、皆振り返った。

「え、エエッ ??!」

「なんでわかったんすかぁ?」

 さっきまで少しおっかなそうに見ていたカスペルが、酒の力で警戒が薄れたらしく、自然に声をかける。


「匂いだよ。あの女がこの親父と話す時、匂いが変わる。

 時と場合で量が変わるが、特有のフェロモンが分泌されてた。好ましい異性と対面した時に発するヤツだ」

「スゲぇっ、さすがアクール人! そんなのまでわかるんだっ」

 イーファが興味深げに感心しているが、俺は少し混乱した。

 大体、恋バナにこいつが入ってくるのもちょっと驚いたが、それより何だって ?!


「そうなんすよ。修道院生活が長いせいなのか、元からなのか。あのこ、男の好みがねぇ~」

「あんな可愛いのにさ、中年好きなんさっ」

「しかも禿げっ!」

 ビッと勢いよく、机に突っ伏して鼾をかき始めている艶々した頭を、イーファが指さす。


「そんなのただの嗜好の違いだろ。地上にはこれだけ人間がいるんだから、別に珍しい事じゃない」

 ああ、だけどあんな綺麗なが、よりによって親父好きって――と、3人は納得いかないようだ。


「先生はその事知ってるの?」

「うん、ナタリーが以前、直に告白したからね」

「エッ、そ、それで?」

 俺もつい身を乗り出した。


「先生がやんわり断ったんだよ。年も違うし、もっといい男見つけろって。

 定番の断り方」

「ありゃあ、先生、本気にしてないんすよ。彼女のちょっとした気の迷いと思っちまってる。

 彼女の好み、ど真ん中ストレートなのに」

「だから余計燃え上がっちまってるんさぁ、恋の炎がさー」

 あー、なんか色々あるんだな。世の中、上手く回ってるようで回ってないなぁ。

 需要と供給が。


 その後しばらくして、酒宴はお開きになり、先生はヴァリアスが、抱えてベッドまで連れて行った。3人じゃ危なかっしかったからだ。

 俺もそうそうにまた眠りについた。

 2日目はこうして過ぎて行った。


 3日目は少し患者が落ち着いてきた。

 1人1回だけと先生が念押しして言ったせいもある。だから噂が広まった昨日に患者が集中したようだ。

 ただ、食事が良くなった件の噂も広まったようで、手習いに来る子供が一気に3倍くらいになった。

 どうも見るからに2,3歳児くらいのまでいて、昼メシ目当てなのは明らかだったが、ナタリーはちゃんと個別に相手をしていた。

 小さな子にも自分の名前が書けるように、根気強く教えていた。


 食材も色々揃えられて、腕の振るいどころとばかりに、カスペルは俺達用と子供達用――甘口でやや、柔らかめ――と、奴専用の硬口の料理を作り分けた。

 奴専用のは、金槌で割って食べる伊賀のかた焼きせんべいみたいな、カチコチの肉団子や、砕いた骨を味付けして肉と香草で固め直した骨肉棒など。

 隣で人間の食事では普通聞かないような音をさせながら、奴はキレイに平らげてしまったが。


 4日目は目に見えて患者が少なくなった。

 今日は*9曜(土、種、葉、空、花、実、赤、黄、白)あるうちの黄曜日で職人たちが休む日らしい。そのせいで怪我人がグッと減ったせいもあるようだ。

 普通は白曜日が休日らしいのだが、今月の花の月は白曜日がない。だから振替えで黄曜日が休みとなる。

(*9曜:27話参照)

 ここでは通常一週間は9曜だが、花の月だけ8曜となる。本格的な夏はどちらかというと来月の実の月の方のようだが、どうも実りの前の大事な月という意味合いで、陰を指すの白曜日がないらしい。


 普通 白というと、陰より陽だと思うのだが、ここではホワイトアウトのように、冬は雪に閉ざされ全てが真っ白になってしまう、消えてしまうというイメージからきている。

 また樹が葉や実を全て落とし、動物たちも冬眠していなくなってしまう、何もかもゼロになるような事からも白を連想して使われているようだ。

 ここの歴史もそのうち色々と調べないといけないな。


「ちょっとランクの確認がてら、ギルドに顔出してみるか」

 患者が来ない施術室でぼーっとしている俺に奴が言ってきた。

「ええと、少し抜けてもいいですか?」

 俺は先生に念のため聞いた。

「ああ、俺は構わないよ、もし兄ちゃんをご指名だったら待たしとくし」

 こういう日もあるんだ。


 始めこの人数でやっていけるのかって心配だったけど、地球と違って、完治療しちゃうから入院患者がいない。

 常に世話しなくちゃいけない入院患者がいないから、この人数で回せるんだな。

 つくづく地球との仕組みの違いを感じる。

 それに今日はなんだかナタリーと顔を合わしづらい事があって、少し居心地が悪いのだ。


 今朝、水を使う音で目が覚めた。

 窓から中庭を見るとサウロが井戸で洗濯をしていた。そこへナタリーが籠に新たな洗濯物を持ってやってきた。


「お早う、サウロ。沢山あるわね、少し手伝おうか?」

「お早うございます。シスター・ナタリッシア。これくらい大丈夫です。有難うございます」

 そう言うと大男はまた盥の洗濯板で服を洗い始めた。

 その横にナタリーも籠を置くと、納屋から盥と洗濯板を持ってきた。


 さすがに女のナタリーは自分の分は、下男でも男にやらせたくないのかな。

 井戸から水を汲むと、サウロの隣でざぶざぶ洗い出した。

 そんな姿をぼんやり眺めていたら、ふとナタリーが手を止めて、サウロのほうを見た。

 サウロは一心に服の汚れを手でこすったりして、こちらを見ていない。

 そっとナタリーが隣の洗濯物籠に手を伸ばす。

 スルッと生成り色のシャツを取ると、広げてしげしげと眺めた。

 そうしてパサッと顔に付ける。


 えっ……。

 少しの間、ナタリーは服に顔を押し付けていた。

 あれってもしかして、匂いを嗅いでる…… ?!

 見てはいけないモノを見てしまった場合、すぐにその場を離れるのが鉄則なのだが、俺は目が離せずについ凝視してしまった。

 そっと服から顔を外すと、何事もなかったようにまた服を隣の籠に戻して、彼女はふと顔を横に向けた。

 

 しまったっ! 目が合ってしまった!

 凄まじくきまり悪い空気が流れた。

 みるみる彼女の顔が、赤紫の痣まで真っ赤になっていくのがわかった。

 俺は慌てて窓を閉めたのだが、もう後の祭りだった。

 その後、彼女と俺はなるべく顔を合わさないように、お互いを避けるようにして過ごした。


 そういう訳で俺達は午後の昼下がり、教えてもらった町の中心地にあるギルドに向かって出かける事にした。


 俺達が出かけてから10分ぐらいたった頃、1人の老人が施術院にやってきた。

「連れが急に腹痛で動けなくなっちまってぇ、診てやってほすぃんじゃが」

 縁のほどけた麦わら帽子を手で揉みながら、そう懇願する老人はこの辺では見かけない顔だった。

 聞けば隣町から薬草や香草を卸しにきた農民だという。

 いつもどおり薬屋に荷を卸して帰る途中、宿屋の裏庭を借りて弁当を食べて一服していたら、連れが急に苦しみ出したという。 


「食中毒の可能性があるな」

 話を聞いてハルベリーが呟いた。

「いんや、あっしら薬草と毒草の区別はつくさかい、そげな事はぁ――」

「そういう過信は禁物だよ。同じ事を言って『二輪草』と『トリカブト』を間違えて採ってしまった山菜採りを知っている。あれは同じ場所に生えるから、紛れて採ってしまうことがあるんだ」

「そんな……、そういやあいつ、何か山菜の炒めもの食っとったかも……」

 老人の帽子を掴む手に力が入る。


「ここには連れて来れないのか?」

「ええ、宿のもんにも手伝ってもらおうと思ったんが、動かすと苦しそうだったんでぇ……」

「そうか、じゃあすぐ行ってやらんといかんが……」

 ハルベリーは少し眉を寄せて、戸棚横の水時計を見た。あと四半刻(30分)足らずで、御祓いを依頼している常連の刑吏が来る予定だった。

 彼らは主に仕事が無い、白か黄曜日にやって来るのが常だった。


「先生、私が行ってきましょうか? 多少の解毒なら出来ますし、最低でも痛みを和らげて連れてくる事も出来ますよ」

 ナタリーがすぐに声をかけてきた。

「そうだなぁ。ちなみに爺さん、お連れさんは今どこにいるんだい?」

「ベンタル通りのロロック亭ちゅう宿です」

「ベンタル……裏町だな。ちょっと女1人で行かすのは……。コニ―、お前一緒に行ってやってくれないか?」

 後ろの調合室を覗き込んで、薬師見習いの若者に声をかけたが、彼はちょうど細かい調合中だった。

 もう1人の薬師イーファも、何か計算しながら薬を計っている。


「大丈夫よ、先生。あそこなら何度か行った事ありますし、私1人で十分ですよ」

 そう言いながらナタリッシアは、壁のフックに引っかけてある麻製のショルダーバッグを手に取った。

「念のため毒消しと気付け薬ヒールを持って行きますね」

「うーん、サウロは買い物か。しょうがない、わかった。まあ気を付けてな」

「ハイハイ、変なとこ心配症なんですね」

 コニ―から受け取った薬をバッグに入れて、振り返ると


「でもまだ女扱いしてくれてるんですね、先生」

 少し嬉しそうに彼女は微笑んだ。

 ハルベリーはむにゃむにゃと口の中で言葉にならない事を言いながら、目を逸らした。


「じゃあ行ってきます」

 老人と一緒にナタリッシアはいつも通り出かけていった。

 通常なら行って帰って来るのに、半刻(約一時間)もかからないはずだった。



 だが一刻(約2時間)経っても、彼女が帰ってくる事はなかった。


 

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