第101話 教会の日常と奴隷商の男

 施術室に行く途中で、すでに子供の泣き声が聞こえてきた。

 患者は小さな男の子のようだ。

「あっ、先生、うちの子が釘踏んじゃって……」

 施術室に入ると若い母親が立ち上がった。


 簡易ベッドのような施術台には3歳くらいの男の子が、泣きじゃくりながら座らされている。

 その右足の裏につけられた葉っぱには、べったりと血がついている。

「ウチの人が工房で作業してる時に、入っちゃったんです。ちょっと目を離した隙に。

 悲鳴で気がついて……。よりによって、釘箱に足突っ込んじゃったみたいで……」

 母親は泣きそうな顔で説明した。


「ちなみにそれは新品か? それとも再利用のか?」

「……再利用のです。新品はあまり使ってないので……」

「そうか……。じゃあ特に化膿にも気をつけねぇとな」

 そう言って赤ひげ先生は子供の前の椅子に座ると、その小さな足を掴んだ。

 子供がまた泣くのを母親が宥めながら抑える。


 ゆるゆると線香の煙のように、赤茶色の煙が傷と足から立ち昇っていく。

 ブンと一振り、手でその煙を払うと先生は俺のほうを向いた。

「菌や汚れは取り除いたから、続きやってみるかい?」

「えっ、もう私やって良いんですか?」

 いきなり難易度高くないか。

「そのために来たんだろう?」


「先生、この人は……?」

 母親が初めて俺の方に目を向けた。

 ヴァリアスは少し離れた戸棚の横に寄りかかって、少し気配を消して気にさせないようにしている。


「実習生だよ、治療師の。1回だけだけど、彼にやらせてくれれば、練習料として300エル、謝礼を出すって言ってるけど、どうする?」

「……え……こちらが払うのじゃなくて……?」

 母親が目をぱちくりさせた。

「そうだよ。もちろん俺が横で補佐するから、治療は心配しなくて大丈夫だよ」

「え、ええ、治して頂けるならお願いします」

 ちょっと心配そうだったが、承知してくれた。


 軽く深呼吸すると俺は先生と交代して、子供の前に座った。

 その柔らかいかかとを左手で持ち上げながら、傷口に右手を添える。傷口は血止めの葉を付けていたせいで、血は止まりかけている。

 その傷口の奥に意識を集中する。

 幸い骨までは達していないが、確実に皮下組織までざっくり2筋の裂傷がある。

 さっきのテストでやった比ではない。

 とりあえず血管を治すか。

 さっきのより沢山切れてて、どれがどれだかわからないが……。


「太い血管とかじゃなければ、とりあえずそんなに細かく考えなくていいぞ。元通りになるように、回復のスピードを高めるんだ」

 横で見ていた先生が助言してくれた。

 そうか、これぐらいなら治療魔法じゃなくて、回復魔法でいいんだな。

 それから先生に言われた通りに忠実に操作するよう心掛けた。今回は違和感が消えるまで1分半くらいかかった。


「うん、やっぱり時間がかかるが、組織は綺麗に元通りになってる。及第点だよ」

 赤ひげ先生が、子供の足裏を見ながら頷いた。

「良かった……」

 今度はテストじゃないし、対象が子供だし、何よりギャラリーが多くて緊張した。

 子供も泣き止んで、自分の小さな足を見ている。母親もホッとしたようで、子供の頬を撫でた。


「じゃあ、約束ですので、これをどうぞ」

 俺はポケットから大銅貨3枚を取り出して、母親に差し出した。

「え……本当にいいんですか?」

 母親はまだ信じられないようだ。

「いいから貰っとけよ。この兄ちゃん新人だから、こうして練習させてもらう代わりにお礼をしてるんだからさ」


「わー、大きなおかねっ」

 子供が目の前のコインをサッと手に取った。

「こらっ、すいません。治してもらったうえにこんなに――。

 ありがとうございます。どうも有難うございます」

 若い母親は何度もペコペコ頭を下げながら部屋を出て行った。


 それからぼちぼちと患者がやってきた。

 転んで腰を強打したというお爺さんや、昨日から腹の調子が良くないという親父、熱が出て下がらないという中年女性など。

 途中まで先生が治療して後の続きをやったり、ほんの途中だけやらせてもらったりした。


 先生自身が行う場合も、治療系魔法が発現している俺は、ずっと疾患部分を直接感じとりながら横で視ていた。

 先生もやりながら

「ここは先に炎症を抑えてから――」

 とか説明しながらやってくれたので、とてもわかりやすかった。

 なんか本当に医学生のようだ。


 皆、俺がお金を出すと聞いて驚いていたが、喜んで受け取ってくれた。

 良かった。

 安すぎて逆に怒られるんじゃないかと内心、心配してたのだ。

 ただ1人、お礼金目当てでやってきた人物がいたが。


「先生っ、手ぇ切っちまったよ。治療してくれよ。その若い先生でいいよっ」

 大きな声で施術室に入って来たのは、先生と同じくらいの低身長だが、とてもガッシリとした体のドワーフだ。

「エゴン、てめぇ、誰からか聞きやがったなぁっ、金欲しさにワザとやりやがったろっ!」

 拳を握って今にも殴りかかりそうな剣幕に、ドワーフは慌てて弁解した。


「やっ、ちがっ、違うんだよ、先生。こりゃホントにうっかりやっちまったんだ。

 そりゃあ、いつもなら唾つけてほっとくとこなんだけどよぉ……」

 血を滲ませた分厚い掌を上にしながら、ドワーフは少しモジモジした。


「井戸で傷を洗ってたら、オブルの爺さんが、腰治してもらった上に金も貰えたから、あんたも行った方が良いって言ってきたんだよ……」

「ぬぬぅ、あの爺さん、そういや結構お喋りだったな。こりゃ午後は忙しくなっちまうかなぁ……」

 軽く溜息をついて先生は俺の方を見た。

「じゃあやってみるかい」


 傷を治して謝礼を渡すと、ホクホク顔でドワーフは帰っていった。

 確かにアレくらいの怪我は日常茶飯事なのか、掌や腕には沢山の傷跡があった。

 もちろん俺が治療したその傷は、跡が残らないように元通りにしておいた。


 しかし午後から患者が多くなるのか。

 これは大銅貨(礼金)が足りるだろうか。

 さっきの買い物で多少くずしてきたけど、後で銀行とかで両替してきたほうが良いかもしれないな。

 その時、昼を告げる鐘の音が響き渡った。


「よし、ちょうど患者も切れたし、食堂行こうか」

 先生が立ち上がった。


 集会室の前を通って食堂に入ると、2つある長テーブルの1つに、すでに子供達が座っていた。

 その前には大小の木皿と、木製のカップがそれぞれ置いてある。

 俺達がもう1つのテーブルに着くとサウロが隣の厨房から、業務用の大きな寸胴鍋を片手で持ってやってきた。

 そうして客である俺達の皿から先に、シチューを注ごうとした。


「すいません、私は頂きますけど、こいつはお構いなく。自前で用意してますので」

 奴の方を指して伝えた。

「あ……そうですか。けれどせめて少しでもどうですか?」

「あの、気分悪くしないでほしいんですが、こちらの食事がどうのというのではなくて、あまり柔らかいモノは食べないんです、こいつ」

 俺が弁明してやってるのに、奴は隣で他人事のような顔をしている。

 だが先生は、すかさず理解したようだ。


「あ、そうだったな。サウロ、その旦那のはいいよ。アクール人は獣人と同じでな、俺達みたいな食事をとり続けると、歯が弱っちまうんだ。おい、カスペル」

「はい、何でしょ?」

 厨房のドアからカスペルが顔だけ出してきた。

「確かドードーの骨付き肉があったよな? アレなんとか調理出来ないか?」

「今すぐというと簡単に香草塩焼きぐらいですけど」

「それでいいかい?」

 先生が奴に尋ねる。

「構わん。生でもいいぞ」

 いや、せめて火ぐらい通せよ。


 俺が奴の皿に、日本でキリコに作らせた酒のつまみ料理を出している横で、サウロとコニーが慣れた手つきで、さっさと料理を各皿に盛っていった。

 カスペルもドードーの骨付き肉の香草焼きを持ってきた。

 全員が席に着くと、静かに頭を下げた。

 俺も手を合わせて

「いただきま……」

「慈悲深き我らの偉大なる神々に感謝致します……」

 見るとみんな手を胸の前で交差して目を閉じ、祈っていた。

 奴も同じだ。俺も慌ててみんなと同じように祈るポーズをした。


『(あんた、いつもやらないのに、こんな時だけしれっとやりやがって)』

 俺は伝心テレパシーで文句を言った。

『(ここはアネシアス様の御前なんだぞ。するのが当たり前だろ)』

『(何を今さら借りてきた猫みたいな事言ってるんだよ)』

『(オレはいつだってこうだっ)』

『(なっ――)』

「ではいただこう」

 祈りが終わった。


「えっ、これお肉? 切れ端じゃなくて?」

「パンもふかふかだぁ~」

「美味しいっ! 今日のが一番美味しいよっ」

 子供達が次々に声を上げる。


「ハイハイ、いつも美味しいでしょー? 今日はお肉たっぷりだからね。一段と美味しくなるのは当たり前さ。

 今日のがじゃなくて、って言ってねー」

 料理人のカスペルが子供達に同意を求める。


「モリ―、ちゃんとパンも食べなさい。あなた達はちゃんと食べて育たないといけないんだから」

 ポケットにパンを突っ込んだ子供を、同じテーブルに座っているナタリーが注意した。

「そんな事しなくてもお母さんの分はあるから、後であげるわよ」

「ほんと?」

 モリ―と言われた小学校1年生くらいの男の子は、おそるおそるパンをテーブルに戻した。


 すると先生が

「そうだよ、このお兄ちゃんがいっぱい寄付してくれたから、今日はパンも沢山あるし、シチューも肉入りなんだよ」

 と、思い切り俺の背中を叩いた。

 ノームのくせに意外と力強く、体の芯に響く一発に、俺はスプーンを落としそうになった。


「「「「「お兄ちゃんアリガトウっ」」」」」

 子供達が一斉に俺に向いて頭を下げる。

 俺もつられて子供たちに頭を下げた。

「良く出来ました。じゃあ頂きましょうね」

 ナタリーがちゃんと子供達を躾けているようだ。


 食事が終わるとそれぞれが、自分の食器類を、厨房の床に置かれた盥に入れていく。

 それをサウロが一抱えすると、井戸に洗いに行った。

 まだ寸胴に残っているシチューを、カスペルが温め直しているなあ、と何気に見ていたら

「そろそろ施しの時間なんだ」

 先生が窓の外を指さした。


 食堂の外は畑のある裏庭になってる。

 庭の柵の横に、10人ほどの痩せた初老の男女が座り込んでいた。

 その手にはそれぞれ木の深皿を持っている。


「コニ―、今日のは重いから手伝ってくれよー」

 カスペルがかまどの上から重そうに、寸胴の取っ手を持って下ろそうとしているので、俺が手伝いに行った。

「あ、いいっすか? ちょっと熱いから気ぃつけて」

 俺は身体強化して1人で、シチューがまだ半分近く残っている寸胴を持って、言われた裏口まで持って行った。

 後ろからパンを入れた籠を持って、コニ―も続いてやって来る。


 裏口の戸を開けると、座っていた人達が立ち上がった。

「お待たせー、さあ並んでねー。今日は特別だよぉ。フワフワのパンに、肉入りシチューだからねー」

 差し出された皿1人1人に、レードルでシチューをカスペルが注いでいき、横でコニ―がパンを配っている。


「ふん、ここではまともなのを配給するんだな」

 ヴァリアスが先生に言った。

「ああ、なるべく1日1回はするようにしてるんだ。ただ量が限られるから、受けられる者は限定してるけどな」

 大体ここら辺の住民は知ってるからと、先生は言った。

「まともな物を配ろうとすればそうなるだろうな。他所の教会や救貧院でも、家畜の肥料にするような残飯を配るとこなんかザラだから」と奴。

「え……そんな残飯を人にあげるのか……?」


 俺は昔見たショーン・コネリー主演の映画『薔薇の名前』の一場面を思い出した。

 それは巨大な修道院が貧民たちに施しの名目で、残飯を急な坂にまさしくゴミのように流し捨てる光景で、それを乞食のような姿の人々が、僅かに食べられる物を奪い合う光景だった。

 あれは映画上だけの話じゃないのか。


「蒼也、お前にはまだわからないと思うが、裕福になればなるほど、下への施しは減らしていくものなんだよ」

「ガハハハッ、確かにウチは裕福の反対だからなぁ」

 先生が大口を開けて笑った。


 午後は確かに患者がいつもより多くなったようだ。

 施術室の外の廊下に常に3人ぐらいの患者が待っていて、半分くらいが俺を指名してきた。

 そのうち終わって出て行く人が、まだこれから待っている患者に俺の事を教えていくので、ご指名が全員になってしまった。


 率先して練習台になってくれるのは有難いのだが、俺はまだ今日から始めたばかりの初心者。

 1から1000までのうち、出来るのはせいぜい2,3の作業である。

 やれるのはまだ簡単な細胞再生と消炎くらい。

 解毒などはまだまだ上手くいかないので、ほとんどを先生にやってもらって、合間に俺が手を出すぐらいだ。

 それに先生は俺がやっているのも、横でしっかり診ているので、魔力と神経を使いっぱなしだ。

 しかもいつもより人数が多いとあって、段々疲れ始めてきたようだ。


「ちょっと、ちょっと、小休止したいんだが……急患ぽいのはいないか?」

 廊下を覗いて声をかけてから戻って来ると、ずしんと施術台に自ら横になった。

「ちょっくら四半刻(約30分)休ませてくれ……」

 そう言って顔に、布巾のような薄いタオルを被せた。

 確かに俺も慣れない事をやってるので、魔力が補給されるとはいえ、頭がだいぶ疲れてきていた。


 ペットボトルの水を出して飲んでいると

「たまになら、精神・神経回復薬ヒールポーション飲んでもいいぞ」

 壁に気配を半分消しながら、寄りかかっている奴が言ってきた。

 あっそうか、あれがあったか。地豚狩りの時にピジョンから貰ったのが。

 早速飲んでみると、頭がスッキリ軽くなった。

 助かる。これ、他で売ってるのかなぁ。


 ふと見ると、いびきを掻き始めている先生のところに、奴が屈んで頭に手を当てていた。

 淡いオーロラのような光が頭を包んだかと思うと、頭に吸い込まれるように消えていく。

 寝息が静かになった。

 30分と言っていたが、ものの10分くらいで先生はパッチリ目を覚ました。


「おおし、待たせな。なんだかぐっすり寝れたみたいだ。疲れが吹っ飛んだぜ」

 と、先生は腕を上げてウンと伸びをした。

「じゃあ始めようか」

 先生が廊下に顔を出して患者を呼ぼうとした時に、後ろの調合室からナタリーが出てきた。

 どうやら調合室は廊下からも出入りできるらしい。


「先生、疲れて休んでたって聞きましたけど」

「ん、ああ、ちょっとな。だけど少し休んだらスッキリしたから、もう大丈夫だ」

「ダメですよ。あんまり無茶しちゃ。先生みたいなのが『医者の不養生』って言うんですよ」

 チラッと俺のほうにもキツイ視線を向けた。


「ここは私が代わりますから、少し横で休んでてください」

「そりゃ有難いが、もうすっかり元気にな――」

「いいですからっ 休んでてっ !!」

 先生はしおしおと、俺の横の椅子に座った。


 それから続けてナタリーが先生の代わりに診察・治療をおこなっていった。

 ある程度やると先生が声をかけて、俺にやらせてくれたので練習は続行してやる事ができた。

 1人難しい患者が来たらしく、ナタリーに任せながら先生が横で指導していた。

 その時のナタリーは真剣に指導を受けながら、少し嬉しそうだった。

 そうやってツンツンしてないで、少しでも笑みを浮かべると、あらためて綺麗なだなと、その横顔を見て俺は思った。


「ホント、残念なんだよなぁー、ナタリーは」

 ボソッと言う声が小さく聞こえて振り返ると、調合室からイーファとコニ―がこちらを見ていた。

 なに、やっぱりあの痣が無ければって、思われてるのか。

 どんなに見慣れてても、どうしてもある程度なのかぁ……。

 俺は申し訳ないが、やっぱり彼女に対して同情を禁じえなかったのだが……。


 夜はヴァリアスが夕食後、先生と執務室で酒盛りを始めてしまったので、俺はそうそうに用意された部屋に戻って寝る事にした。

 ヒールポーションを飲んでいたとはいえ、その後も練習したし、人の治療をするというのは思ったより疲れが底に溜まるようだ。

 まだ10時前だったが、ベッドに横になると、ものの1分もしないうちに眠りに落ちた。

 次の日、6時の開門の鐘で目が覚めるまで、そのまま夢も見ずに眠り込んでいたようだ。


 朝食をとってから、場所を聞いて俺達は銀行に行く事にした。

 昨日はすぐに大銅貨が無くなってしまって、途中でコニ―に銀貨6枚(6,000エル)を渡して、両替しに行ってもらったぐらいだった。

 本当はもっとお願いしたかったのだが、いくら聖職者とはいえ、大金を持っている事がわかったら、危ないという事でこれぐらいにしたのだ。

 それでもこの近辺では大金らしいのだが。

 

 銀行で大銀貨3枚(30,000エル)を全て大銅貨に替えると、結構な量になった。

 300枚の大銅貨が入った巾着袋は、宝の山とかに積まれている、あの金貨入りの袋のようだ。

 これはショルダーバッグに入れながら、空間収納にしまった。こんな鉄アレイみたいな重さの物を、本当にバッグに入れて持っていたら肩が凝ってしまう。

 

 帰り道、大通りを歩いていると、ヴァリアスが何か匂いを嗅ぎつけたらしい仕草をした。

 風は前方からこちらに向かって吹いている。

 奴が斜め前を見た。


 前方から2頭だての辻馬車が、こちらに走って来る。

 古着屋の前で若い娘が2人、吊り下げられた夏物のチュニックを体にあてがって考えている。

 背負子しょいこの荷物を重そうに背負った男が、角を曲がっていった。

 食堂の店員が、テラス席のテーブルに残された食器を片付けている。


 奴の目が、俺達の目の前で左側の通りに曲がっていった、辻馬車を追っていた。

 その方向にはあの教会がある。

 もう聞かなくても俺にもわかった。

 俺は速度を速めて教会に急いだ。


 教会に戻ると馬車は教会前ではなく、施療院横の畑の前に止まっていた。

 開け放したドアから、男の大きな声が聞こえてくる。


「こりゃあ裁判所から発行された執行証書だっ。今すぐにあの男は連れて行く」

「待ちなさいよっ! お金を返せば済むんでしょっ。先生が来るまで待てないの?」

 相手をするナタリーの声がする。

「お嬢さん、いくらか知ってるのかい? 言っちゃなんだが、こんな小さな教会で用意なんか出来る額じゃ――」

「待たせたなぁ」

 赤ひげ先生の声が入ってきた。


「おう、司祭様。今日はもう待てないぜ。これ、ここに正式な執行証書も発行してもらってる。

 いくら教会でも拒否でき―――」

「ちゃんと釣りも用意してあるんだろうな?」

 俺が施術室を覗いた時、ちょうど先生が奴隷商の鼻面に、金貨を突き付けているところだった。


「あっ、えっ? ああっ??!」

 立派な鷲鼻の下にカイゼル髭をした、銀髪のフック船長似の男が目を向いていた。

 思いもよらなかった展開に、思考が停まってしまったようだ。


「なに……本物か、本当に用意出来たのか……?!」

 フック船長は信じられないという顔をしたまま、目の前の金貨を取ろうとした。

「おっと」

 先生がサッと金貨を引っ込めた。

「その前に、そっちの証文出してもらうか。まさか持ってきてないとか言わないよな?」

「あ、当たり前だっ! ほらここにっ」

 フックが横にいたアゴの尖った男に手を振ると、アゴ男が慌てて丸めた紙を出してきた。

 見せてもらおうと先生が手を出すと、奴隷商フックもパッと証文を横に振る。

「そっちの金と一緒だ。渡して破られちゃあ、元も子もないからな」


 2人はそろりと金貨と証文を同時に交換した。

「ムムム、確かに本物の金貨だな……。一体どうやって用意しやがったんだ……」

 金貨を弾いたり、ひっくり返したり、何度も眺めながら奴隷商が唸った。

「うん、確かにこっちも本物だな。よしよし。これで借りは無くなった」

 そう言うと証文を、心配顔で調合室から覗いていたイーファ達3人の方に向けた。


「カスペル、この汚い物を、かまどでチリも残らないように燃やしてくれるか?」

「了解ですぅ!」

 カスペルとコニ―が証文をパッと先生の手から抜くと、すたすたと厨房に走っていった。


「ザマア見なさいっ! ウチの先生はあんた達なんかに負けたりしないのよ。

 もう二度と来ないで頂戴ねっ。

 今度来たら呪ってやるんだからっ!」

 ナタリーが危ない事を言っている。


「このアマぁ、こっちが下手に出てりゃあ付け上がりやがって」

 奴隷商の用心棒らしい2mくらいのいかつい大男が、ナタリーを睨んだ。

 だがナタリーも一歩も引かない。

 この大男は昨日、俺達を尾行してた3人のうちの1人だ。

 慌てて横にいたサウロが、ナタリーを庇うように前に出た。


「まあいい」

 奴隷商が大男を手で制した。

「今回はちょっとゴタついたが、金をちゃんと返してもらえば文句は言いませんよ、司祭様。また良い取引したいですな」

 嫌味ぽっく奴隷商の男は、手下3人を連れてきびすを変えそうとした。 


「な、なんだお前?」

 施術室の出入り口に、ヴァリアスが腕を組んで寄りかかり、片足を反対側にかけて通せんぼしていた。

 この態度、アネシアス様の御前だったんじゃなかったっけ?


「釣りがまだだろ、お前らにやるチップはねぇよ」

「ア、アクール人 ?! 絶滅危惧種のっ??」

「いちいちウルセェんだよっ! 古代種だの、絶滅危惧だの、オレは珍種じゃねぇぞっ」

 絶滅がじゃなくて、ただの危険種だけどな。

 もうあんた、牙隠してユエリアン月の目人になった方がいいんじゃないのか?


 身を引き気味の奴隷商フックの代わりに、大男が顔を突き出してメンチを切ってきた。

「面白い、オレの相手しようってのか?」

 ガバッとジョーズのようにヴァリアスが、口を大きく開いた。

 凄まじい多重歯の牙が丸見えになる。

 大男共々、奴隷商の男達が同時に体を2歩後ろに引く。

 おかげで狭い施術室の壁と棚にぶつかって音を立てた。

 新しい威嚇のやり方だ。

 さすがに女神さまの御許で、瘴気を出すわけにいかないか。


 釣りの大銀貨を机に叩きつけるように置くと、4人の男達はそそくさと出て行った。

 フック船長が俺の横を通り過ぎる時、プンと変わった、香草と灰と微かな甘さを混ぜたような匂いがした。

 これが例の葉巻の匂いなのか。


「イーファ、もったいないけど、聖水撒いて清めといてくれ」

 先生が調合室に叫ぶ。

 塩じゃなくて聖水なんだ。

「先生、用意してあります」

 ナタリーが水瓶を持ったサウロを連れて戻ってきた。


 施術室や廊下、入口まで、まんべんなく聖水を振り撒いている2人を見て、とりあえず今回の件が一件落着して良かったと思った。

 

 だが、ああいう輩はそう簡単に諦めはしないし、また、獲物ターゲットを変えることがあると、俺は学ぶことになる。

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