閑話 朔と水売りとドラゴンと その1
すいません、今回の閑話2話とも少し長めになってます。
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これは後から聞いた話である。
時は俺達が、あのギーレンを出る直後に遡る。
隙間からふうぅーっと吹いた風が、あたりに落ちている蔦の葉を揺らして顔をくすぐった。
ドラゴンは前足の爪で、口の近くをカリカリ掻くと、ゴロンと寝返りをうった。散々踏みしだかれた、下に敷かれた枝がミシミシ鳴る。
うっすらとドラゴンは目を開けた。
顔を向けた洞窟の出入り口の隙間からは、いつもの月の明りは入って来ない。辺りは真っ暗に包まれている。
首を軽くもたげてその真っ暗な空間を伺った。
空が見えなくても感じる、いつもとは違う波動を。
外では2つの月が連結して新月になっているはずだ。それは様々な変化を世界中で起こさせる。
ここカッサンドラ大陸 ――― 暗黒大陸でも数々の異変が見られるようになる。
ヤブルー(マンドレイク)が、引き抜かれてもいないのに、土中で悲鳴を上げ続け、深海からディゴンが海面に浮かび上がり、夜の波間に漂いながら、星を掴むように幾本もの触手を空に伸ばす。
荒野をワーウルフどもが、見えない月を探すように走り回る。
現にいまドラゴンのいる洞窟の上を、ワイバーンがいつもの ‟ギャアァー”という鳴き声の代わりに、‟ギャッギャッギャッ”と短く詰まったような声を上げて飛んでいる。
みんないつもと違う波長を感じて、不安や危機感で迷走しているのだ。
ふっ とドラゴンは鼻で一息吐いた。
全く獣どもはこれだから。
本能だけで生きてると、こういう自然現象にいちいち振り回される。この世界の森羅万象に沿って生きているのだから仕方ないとはいえ、もう少し落ち着けよなと思う。
毎回毎回、朔が起こるたびに大騒ぎしやがって、
朔が起こすいつもと違う波長よりも、奴らが上げる雄たけびの方が、ずっと
振った尾の先に当たって、空の樽がゴトンと音を立てて転がった。それはコロコロと転がってドラゴンの顔先まで来て止まった。
またゆっくりと目を開く。
暗闇で見えないその瞳は左右で色が違う。仲間内から『イージス谷の黒のオッドアイ 』と呼ばれている由来だ。
この洞窟内はいま、人間なら鼻面に剣を振られてもわからないような闇夜だが、ドラゴンには可視できる。
酒…………。
スンスンと匂いを嗅ぐ。微かに残る果実の発酵した匂いとアルコール臭。
また尾で樽を突っついてみた。
ガランゴロンと空っぽな音を立てて転がっていく。
ふうぅぅぅーっと今度は長い息を吐いた。
―――――― 飲み切ってしまったんだった。
無いとなるとまた飲みたくなる。
あの侵入者が突然やってきて、酒を置いていってから、どのくらい月がまわったのだろう。胃袋の感じからすると、まだ数回程度のようだが。
ここ何十年かほとんど飲んでいなかったのに、久しぶりに大量に飲んだために、脳が酒を欲しているのだ。
どうしたものだろうか。
また首を上げて、出口に積まれ固められた土砂を見上げる。
前足で掻くと、砂の壁のように土砂が崩れて、洞窟にポッカリと大穴が開いた。
その穴から半身を乗り出すと、ドラゴンは肩のあたりから大きな黒赤の翼をバンっと広げて、夜の空に飛翔した。
上空で旋回しながら喚き叫んでいた、ワイバーンの群れの中にわざと突っ込む。
‟ギャッ、ギャアァー!”
‟ゴォギャアァーッ、ギャッ、ギャッ!!”
――――――――― ヴァオオォォォォーッ ―――――――――
【ウルセェーッ!】
ドラゴンの翼や肩にぶつかったり、その咆哮に驚いたワイバーン達が、慌てふためいて南の空に逃げていく。
いつまでも同じとこで騒ぐなっ。
よりによって俺の棲み処の上で喚きやがって。今度見つけたら全員喰ってやる。
そのまま月も見えないが雲も濃い、暗灰色の空を飛んでいく。
眼下に広がる切り立った峡谷や、欝蒼と茂った樹々を生やした岩山の上をいくつも飛び越えて、何本目かの川を渡った頃、それは見えてきた。
一段と細く尖った岩山の上に、横幅だけが巨木級のずんぐりした大樹が1本立っていた。よく見るとそれには、くり抜かれた窓やドアがついている。狭い天辺にしがみ付くように根が伸びた僅かな残りの面積には、小さいながらも畑らしきものがあった。
その少ない面積に降りたつことは出来ないので、岩山の壁に四肢の爪を引っ掛けるように張り付いた。
【
その樹の窓あたりに顔を近づけて呼んでみる。
ちょっと間があって、やや歪んだドアがゆっくり開いた。
『そろそろ来る頃だと思ってたよ』
1人の小柄な老婆がゆっくりと出てきた。
淡いグリーンイエローの長い髪を1本の三つ編みに束ね、足元まで下ろしている。顔のシワの具合から90歳ぐらいに見えるその老婆は、赤茶色の長衣の上に深緑のケープを着ていた。
【良かった。いたかい、
ドラゴンは大きな顔をそちらに動かした。
『ホッホホ、相変わらず大きな声だこと。そんな大声出さなくても聞こえとるよぉ』
【別に大声出してるつもりはないんだけどなぁ………】
声を潜めるドラゴン。
『まあ、仕方ないさね、お前さんの図体じゃねぇ。今日来なさったって事はアレじゃろ? いつもの』
【そうそう、サッサと済まして魔法をかけてくれよ】
そう言ってドラゴンは前足の指を1本、そっと魔女の前に差し出した。
いつも指の鱗の間に、ブッシュモスキートの口筒を差し込んで血液を採るのだ。
ドラゴンの血はあのエリクシル、もといエリクサー(万能薬)の材料になるし、その他色々な魔法薬の素にもなる。
魔女と呼ばれる隠れ賢者にとっても、それは貴重な素材なのだ。
だからいつも交換条件として、血液を採らせていたのだが。
『いいんだよ、ジェンマ。もう要らないんだよ』
魔女は彼をいつもジェンマと呼んでいた。
【えっ、それじゃあ………】
『大丈夫。それはちゃんとやってあげるから。ほら、もう少し顔を下げて』
ジェンマは言われて、そおっと魔女に顔を近づける。その鼻先にシワだらけの手を優しくつけると、魔女は老婆とは思えない、良く通る小鳥のような高い声を発した。
ジェンマは体が内側からムズムズするのを感じた。
いつも思うが、この感覚にはちっとも慣れない。
骨が内臓が筋肉や鱗さえも全て、グニャグニャ、ぶよぶよと、柔らかく強く揉まれていくような感じがするのだ。
そんな状態でうっかり力を抜いてしまっては大変だ。
波打つ筋肉のおかげで力が入れづらいが、岩場を掴みなおす。
先程より足と足の間隔が狭まっていく。
体が縮んでいるのだ。
そのまま上にガシガシ上がっていく。
老婆の足元に上がった時には、全長30mほどあった体は2mくらいになっていた。
長かった尻尾が、後足で立ち上がると、地面にギリギリつかないくらいに縮んで、その代わりに後足が立ち上がりやすく、関節が伸びていた。
首もだいぶ短くなって、トカゲのようになった。
『気分は悪くないかえ? どれどれよく顔を見せておくれ。さっきは大きすぎて、あたしの目には入らなかったからねえ』
本当は全体像まで把握できる能力があるのに、魔女はいつもそう言って、直接目を覗き込むのだ。
ジェンマは彼女の手がちゃんと届くように、腰を屈めた。
『いつ見ても綺麗だねえ。濁りもなくてとても澄んで。お前さんの瞳は本当に
【そんなもんかなぁ】
光ったり、透き通った鉱石とかはもちろん知っているが、それがどうしたと思う。
食べても美味くもないし 、ただ光を浴びて反射しているだけじゃないか。
『おやっ、お前さん、誰かにあったのかい?』
頭を撫でながら目を見ていた老婆が、自分の茶色の目を丸くして言った。
【ああ、以前俺の鱗を毟り取った恐ろしい奴とまた遭ったよ。突然来て、なんだか剥がれ落ちてた鱗を拾っていった。酒をくれたけど】
『ホッホッ、そうかい、そうかい』
何故か婆さまは少し嬉しそうだった。
『良かった。お前さん、そのシトと縁がありそうだね。あたしも安心したよ』
【何言ってんだい、婆さま。あんなおっかない奴、もう遭いたくないよ】
『ホッホ、ホホホ。大丈夫だよ。あたしの勘がそう言ってるから』
彼女は自分の事を以前、天から抜けた者だと言っていた。
天の者というのがよくわからないが、とんでもない力を持っているというのだけはわかる。この老婆も見かけからは、考えられないようなエネルギーと能力を潜めている。
本当に見かけで判断するのは禁物である。
その魔女の婆さまは、空中から自分と同じ、赤茶色でフード付きの長衣を取り出すと彼に渡した。
【婆さま、本当に血は要らないのかい? じゃあ今度、婆さまの好きなマゼンダベリーの実を
『ホントに優しい子だね。力に囚われてただの破壊者になる者も多いのに、お前さんは真っ直ぐ育ったよ。
こんな老婆を最後まで相手してくれたのはジェンマ、お前さんだけだよ』
いつになくしんみりして魔女は言った。
【辛気臭いこと言うなよ。婆さまだって俺の怪我を治してくれたりしたじゃないか。
いないと困るのは俺のほうだよ】
『もう大丈夫さ。………それにあたしはしばらくこの地を離れるよ』
【えっ、また旅に出るのか? いつ戻って来るんだい?】
『…………いつになるかあたしにもわからないんだよ…………』
【じゃあ、また会えるかい?】
魔女は顔を上げると、優しい眼差しでジェンマを見つめた。
『お前さんが望んでくれれば、きっと会えるよ』
しばらくドラゴンの喉のあたりをさすっていたが
『じゃあもうお行き。あたしのこの魔法は3刻(約6時間)しか持たないからね』
【ソレダケアレバ十分だヨ。ジャあコノ布借りてクヨ。また後で』
ドラゴンの言葉が、段々と人語になっていく。
魔女の力のおかげで、人語を発声出来るようになった。
借りた長衣を前足で持って、小さくなったドラゴンは、バサッンと翼を空中にひと叩きして舞い上がった。
魔女はドラゴンが消えて行った、暗い灰色の空をずっと見上げていた。
また幾つもの森を越え、黒い沼の上を通り、谷を通過する。
すると、谷を根城にしていたモスマン(蛾人)達が、数匹飛び立ってきた。そのままジェエルを追うように羽ばたいてくる。
地域にもよるが、ここのモスマン達は好奇心旺盛な奴らが多い。
そして意地が悪い。
少しでも自分より弱いと見ると、集団で猫がネズミをいたぶるように、相手をからかい痛めつけるのだ。
こいつら、俺をドラゴンの幼体だとでも思ってるのか?
黒と紫、赤やオレンジなどの色が毒々しく混ざり合った、4枚の巨大な羽を羽ばたかせながら、後ろをピッタリとくっ付いてくる5匹のモスマンを見て、ジェンマはウンザリした。
もう少し速度を出して振り切ってやろうか。
そう思ったが、真っ赤な大きな複眼がついた、ニヤついた奴らの顔が気に障った。
ちょっとだけ速度を上げてやると、5匹は追っかけようと更に一直線に並ぶかたちになった。
そこでジェンマは素早く振り返ると、大きく口を開けた。
モスマン達は驚いて、横に逸れるのではなく、空中でブレーキを踏むように、立ち上がるような態勢になった。
もう遅いっ!
ブッヴォオオオォォォー!!
そのサイズからはとんでもない大きさの業炎が、ドラゴンの口から発せられた。
体を縮められてはいるが、能力まで小さくなっているわけではない。
それにひとたび彼の体から出てしまえば、その威力はもとより、大きさも元に戻るのだ。
ギャッヴォ………ッ!!
一瞬で羽が焼け落ち、複眼が溶け、
ふん、ザマア見ろ。いつもヘラヘラ弱い者イジメしてるからだ。
見かけだけで
ちょっとだけ
更にそのまま山を越えていくと、急に平地が開けてきた。その暗い平地に夜空の星が集まったように光が集まり、明るくなった一角があった。
ドラゴンはその明かりの一角から、少し離れた樹々の陰に降り立った。
近くに誰もいないのを確認すると、ひゅるるる……と翼を畳む。それは肩のあたりで、ただの鍵爪のように小さく目立たなくなった。そのまま持ってきた長衣をバサリと羽織る。
始めは被らなくてもいいかと思っていたが、婆さまが『その角が立派だから、隠した方がいい』と言っていたので、後ろ向きになびくように生えている、4本の角をフードで隠す。
そうしてあらためて踏み出そうとして思い出した。
おっと肝心なモノを忘れてた。
また樹の陰に隠れると、ドラゴンは喉を伸ばして『ウェッ、ェッ』と少しえづくと、口から小さな黒い豆粒のようなモノを吐き出した。
それは口から落ちると、コロゴロと転がりながら大きくなった。
先程の業炎のように、体から一旦出たモノは魔法が解けて元の大きさに戻るからだ。
ふむ、今回はこんなものか。
湿った黒い土の上に落ちた、豆粒大の大きさから、人間の幼児の拳大に大きくなった魔石を拾い上げた。
もう少し大きいのが出るかと思ったけど、前回大きいのを吐き出してしまったばかりだし、喉の手前にあるのはこれくらいか。
まあこれでも大丈夫かな。
服のポケットにその魔石を入れた。
欝蒼と茂った太い
先程、上空から見えた大地の明かりの群れ、魔族の棲み処だった。
棘の壁はおおよそ10mくらいの高さだろうか。飛べる者ならこれくらい越えられるだろうが、これはただの棘ではない。侵入者に対して即座に鞭のように蔓を伸ばす番人となっている。
もちろんドラゴンなら、それくらいわけなくすり抜けられるが、後々面倒な事になるので、門から入る事にしているのである。
『見かけない顔だなぁ』
門番のキュクロープス(単眼の巨人)が門の前で立ちはだかった。
『物覚えが悪い奴め、13年前に来たことがあるぞ。その時お前はそこの捻じれた樹を枕に、眠りこけていたろ』
と、ジェンマは壁の前にある、捻じれて横向きに生えている大樹を指さした。
『あ? あーあ、そうだったけ? まあいいや、通れや』
巨人は緩慢な動きで門の横にどいた。
こいつは少し頭ものんびりしているようで助かる。
確かに来た事はあるが、それはここではなく、もっと小さい集落だった。
人間的に言うなら村と言うべきかもしれない。
ならさしずめ、ここは町といったところだろうか。
中に入ると松明が煌々と焚かれ、あちこちの高い杭に巨大な発光虫が止まっていて、少しぼんやりした街灯のごとく町中を照らしていた。
その照らし出された建物の間を、異形の人々が往来していく。
魔人たちである。
人間たちの町ならばもうとっくに閉門し、町中は静まり返っている時刻なのだが、こちらとは習慣が違う。
魔族と呼ばれる魔人たちは、魔物と人間の中間的存在、どちらかと言うと明るい空の下よりも、暗い夜空でこそ活発になる。
いわゆる夜行性である。
だからこの深夜の時間帯が彼らにとって、昼間のような生活時間帯なのだ。
そのため、家々の奇妙にゆがんだ窓は全開に開かれ、店では奇異な姿の売り子が客を呼ばわっていた。
久しぶりに人里に来たが、前の村よりもかなり賑わっている。これなら酒屋も幾つかやっているだろう。
これも婆さまのおかげだ。魔人の町とはいえ、ドラゴンの姿のままでは入る事は出来ない。
そこら辺の魔物を恐れない魔人たちも、神獣に近いドラゴンはさすがに脅威の対象だからだ。
婆様に会ってこのように、小さい姿に
魔人たちには色々な姿をしている者がいる。
中にはドラゴンに似た、
とりあえずこの魔石で、飲めるだけ酒を飲もう。
魔石が魔人たちの間で、酒と交換出来ると教えてくれたのも婆さまだ。
それまでは吐いた後、砕いて食べていたのが。
確かに魔力の補給はできるだろうけど、こんな石に価値をつけるとは、みんな酔狂だなと思う。
まあ酒と交換出来るのは有難いが。
そうしてドラゴンは、すううぅぅーっと辺りの匂いを嗅いだ。
酒の匂いを探すのだ。
店を探すというよりも、好みの酒を置いている店があるかが重要だから。
うん、うん、結構あるな。
あちらから深いまろやかな蒸留酒の香りが漂ってくる。
こちらからもコクのありそうな香ばしい醸造酒の匂いがする。
他にも良い感じに合成が落ち着いた混成酒の匂いもある。
さてどこに行ったものか。
やはりどうせなら酒精の強い酒を試そうか。
などと更に辺りの匂いをかぎ分けていたジェンマは、急に体を強張らせた。
慌ててあたりをキョロキョロ見回す。
それは行き交う魔族の人々の流れから、少し引っ込んだ所にある、物置小屋のあたりからしているようだった。
小屋の手前には、根と枝が入れ替わったように、空にむけて太い根を伸ばした樹が1本立っており、その根にしがみついている発光虫が、小屋のまわりに置いてある樽や荷車にぼんやり淡い光をかけていた。
その樽の影に1人の男が隠れるように
かの気になる匂いは、その男から発せられているものだ。
この匂いは――――― !!
恐る恐るジェンマはその男に近づいた。
そおっと樽越しに首を伸ばして、男の匂いを確かめた。
間違いないっ! こいつからあの男の匂いがする。
あの恐ろしい奴と一緒にいた、頭の黒い奴の匂いがっ !!?
ジェンマは体がゾクゾクするのを感じると、2,3歩後ろに退いた。
そのまま近くの建物の角に隠れると、あたりの気配を慎重に探った。
あの白い頭の恐ろしい奴は、全く匂いがしなかった。
気配さえも、地面の石ころの裏に隠れるシデ虫のほうがまだあるくらいだった。
だが、時折洩れるあの威圧感と、凄まじいエネルギーのフレア。
そういった時、小虫どころか、天にそびえる神山のような存在感が現れる。
わざと気配や力を隠しているんだ。
つまりそうしないと
アレは関わってはいけない危険なものだ。そうしてそれと一緒に来たのが、あの頭の黒い奴だった。
あいつも半分なんだかわからない匂いがした。
あんな奴と一緒にいるのだから、ただの人間じゃあるまい。もうあいつらと関わるのは危険だ。
俺の本能が警鐘を鳴らしている。
見つからないうちに、さっさとここから離れないと。
だが……と、ジェンマはまた建物の陰から、物置小屋のほうを伺った。
樽と壁にもたれながら、男は手足を縮こませている。微かに震えているようだ。
あの黒い頭の奴自身ではないようだな。本体の匂いが違うから。
多分、あの男と接触したことがあるのだろう。
匂いがついているだけだ。
別に恐れる必要はない小者だ。
いや、ただの人間のようだ。なんでこんなとこに紛れ込んいるのだろう。
確かにこの大陸には人間の村もある。魔族の者と交易をする人間も少なからずはいる。
だが、あの様子だとどうも違うようだな。迷子か。
だとしたら、俺には関係ないか。
あいつらじゃないのなら気にしなくてもいいし。
あらためて酒の匂いを探そうとした。
……まてよ。
もしも、この男があの危険な奴と知り合いで、俺が気がついたのに放っておいたと分かったら…………。
いやいやいや、考え過ぎだろう、俺。
そんな、たまたま同じ場所に居合わせただけじゃないか。
それくらいでわかる訳が…………。
…………あり得なくもないか、あの底知れぬパワーの片鱗を持つ奴だ。
しかもあの倫理感――。後でナニを難癖つけてくるかわからない。
それが一番怖い……。
……念のため、確かめるか。
小屋の角から覗くと、樽に隠れるように座り込んでいる男は、両手で頭を抱え、膝をぴったりと胸に押し付けて、まるで亀にでもなるかのように小さくなっていた。
『おいっお前』
ジェンマは樽から覗き込んで声をかけた。
隠れていた男がビクンと体全体で反応する。
怖ず怖ずと顔をこちらに向けて、二度驚くと、またブツブツ言いながら更に丸くなった。
「勘弁、ご勘弁を……どうか…………」
これは確か、ここから北の方の大陸語だ。あの危険な奴らが使っていた言葉だ。
ますます怪しい。
「何が勘弁なんだ? お前、その言葉、ここの者じゃないだろ」
男の発した大陸語に変えて話しかけてみた。
長生きしているせいで、言語スキルがなくても、人間たちがよく使っている言葉ならわかる。
また男が恐る恐るゆっくりと顔を上げた。
「あ、あなた、言葉がわかるんで?」
「ああ、言葉くらいならな。
お前、北の方から来たのか? お前の知り合いに、頭の黒い人間がいるか?
一緒に白い頭のアクール人の姿をした奴がいるか?」
「北…………。ここは何処なんで?」
男が質問の意味が解らず、またあたりを見回す。
「だからっ、いるのか、いないのかって聞いてんだよっ」
「ヒッ!」
男がビビッてまた縮こまった。
ジェンマは少し慌てた。
万が一の事を考えて、悪い印象を与えてはいけない。
「悪かった。ちょっと焦っちまってさ。
その、さっき言った人間を知っているかい? お前からそいつの匂いがするんだが……」
声を出来る限り、婆さまのように柔らかく、ゆっくりめにして話しかけた。
「……あの、アクール人の旦那……と黒髪の異邦人のお客さんなら……あっしのお得意さんにいますけど……」
今度はジェンマが驚愕する番だった。
思わず大きな口を開けてしまって、男を怖がらせてしまった。
お得意さんだと……!?
お得意って事は、懇意にしてるって事だよな…………!
こいつ、知り合いどころか、あのヤバい奴らと親しいって事かあっ ?!!
ジェンマは滅多に遭遇しないが、相手が自分より格上だったり、緊張したりすると口調が変わる。
これは幼体の頃、母親に長老――
婆さまにも、始めはそのような言葉使いにしていたが、彼女が遠慮はいらないと言ってくれたし、何より親しくなったので、普通に話せていたのだ。
「こ、こりゃ、ちょっと、失礼しましたぁ。じ、自分は、あなたがあの方達の知り合いとは知らなくて……」
ジェンマはつい、へりくだった物言いになってしまった。
それから2人は、その小屋の脇でしゃがみ込んで話しをした。
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