第94話 新しい恋の予感 と 死の気配 その1(泣き女)
ひと騒ぎした奴らが帰ったあと、売り場に戻ると、すかさず中田さんがそばにやってきた。
「グローバルだね、東野さん。もしかしてみんな、ご親戚?」
興味津々顔で中田さんが聞いてきた。
「いえ、他は彼の仕事仲間ですよ。たまたま日本に来てるんです」
「あの女の子も、その、仕事の?」
あっ、ナジャ様、見かけは中学生だったな。
「えと、あれですよ。外国じゃ能力さえあれば、起業したり、仕事に携わっている未成年って多いじゃないですか。
詳しくは知らないですが、確か彼女はITだか情報処理だか、その関係ですよ」
『知識』だからまんざら間違ってもないよな。
「へぇーっ 凄いね! うん、あんな可愛いのに頭もいいんだ。大したもんだね」
ナジャ様褒められてますよ。
俺はあなたの中身を知ってるから、素直に頷けないけど。
その日、奴らはアパートに来なかった。良かった。
毎晩来られたら俺の気持ちが休まらない。
日曜に借りて半分しか見てないDVDの続きを見る事にした。
あの後、キリコや奴らが連続で来て、見れなかったからだ。
タイトルは *『仕立て屋の恋』。(*ネタバレあり)
フランスの冴えない、禿げた中年の仕立て屋の男が、若い娘に恋する話。
と言えば静かにエールの1つも送りたくなる気がするが、これはそんな綺麗な感じの話じゃない。
すでに彼氏のいる娘の弱みを偶然知って、そのせいで近づいてきた彼女と、これ幸いと付き合っていく。
なんだか
だが、ラストシーンで、男が最後に言った言葉に、つい脊髄反射のように涙が出てしまった。
もう薄々、アンハッピーになるのはわかって見ていた。
彼女に裏切られた男が、その男を罠にはめて、まわりに被害者面で演技する彼女に向かって、
『君を恨んでないよ。ただ、酷く哀しいだけだ』
そう、ただただ哀しいんだよ。
オヤジのはやっぱり恋だった。
灰色の人生の中で、束の間の夢を見ちゃったんだよな。
俺はリリエラはもとより、昔の彼女のことを思い出していた。
もしも、あの時、俺があんな事(異常体質)を暴露しなければ、
あったかもしれない、もう1つの人生と家庭。
子供だって出来てたかもしれない。
そう思うと泣けてきたのだ。
やっぱり言わなければ良かったとか、これで離れていったのだから、俺とはしょせん縁が無かったとか、自分の体質に対するいら立ちとか、そんな諸々の感情は、俺のパンドラの箱にはもうすでにない。(ないはずだ……)
そんな『たら・れば』を考えても過去は直せない。
当時は頭でわかっていても後悔の念が強かったが、時が経ってやっと冷静に考えられるようになった。
彼女自身に対する執着も消えた。(と思う……)
だが、空っぽになったと思っていた箱の底にはただ、やるせない寂しさと、置いて行かれた―――また捨てられた―――哀しみだけが残っていた。
それは古傷のように、時々胸の奥で
「お前はどうして、自分でメンタルを傷つけるようなマネをするんだ?」
頭の上で声がした。
この野暮な人外めっ。空気読めよな。
「あの2人は?」
俺はティッシュで鼻をかみながら、部屋の中を見回した。どうやらヴァリアス1人だけのようだ。
「昨日みたいに騒ぐと、お前が嫌がるから置いてきた。ナジャは来たがってたが、ビトゥが
いや、そもそも、一番の原因はあんたなんじゃないのか?
「オレのせいじゃなっかったぞ」
『クリスマス限定バージョン』と書かれた缶ビールを開けながら、奴が唐突に言ってきた。
「例のフィラー渓谷で自殺した男、お前と遭遇したのは本当にたまたまだったんだよ。
あの時期は『
ああいうのに出会う確率は高かったという事だ」
「なんだよ、その『さく』って?」
「簡単に言うと新月のことだ。
ウチの方は2つある月が重なって、太陽―大月―小月―アドアステラに並んだ時の事だけどな」
「それがどう影響するんだ?」
「お前んとこでも、月の満ち欠けで波の満ち引きがあるだろ? 体の8割が水分の人間だって、多少影響されてるじゃないか。
ただ、アドアステラのは引力だけの作用じゃない。
磁気の周波数や宇宙線(高エネルギーの放射線)とかが変わるんだ。それで地上に様々な影響が出る。
場所によっては磁場が荒れたり、地震や空間がゆがんだり、植物や動物、魔物など生物の体にも影響があったりするんだ」
「じゃあ、あの川下りの時が朔? 昼間っから?」
「月は見えなくても、空にあるだろ。太陽の光で見えないだけで」
確か、あのドラゴンの鱗を欲しがった、バイヤーが来た日は、月はやや重なっていたが2つ見えていたな。
「ちょうどお前とナジャの3人で王都に行った日からだな。
ウチのはこちらの月と違って、一旦重なるとお互いが引き合っちまって、離れるまでの期間が長いんだ。
確か朔が抜けたのは、ギトニャに着いた頃だよ」
「そんなに長かったのか。じゃあもしかして、あの黒い森で魔素が荒れだしたのって、その朔のせい?」
「その通りだ。だから朔が終わったんで、その反動で魔素が引っ込んだって訳さ」
うーん、相変わらず、
こういうとこも、あちらに永住する気をそぐ要因の1つかもしれない。
ただこの現象は、確かにあちこちで猛威を振るっていたらしく、知り合いが影響を受けていた事を後で知る事になる。
「だけどそれって、あの自殺した男と遭遇した件だけだよな? 大カマキリはあんたが意図的に会わせたんだし、オークのハンスはあんたに引っ張られてきたんだろ。
他はあんたのせいじゃないか」
「だが、あのオークの素になった地豚だって、朔が無けりゃあの森には来なかったぞ」
こいつは、あくまで自分のせいなのを認めない気だな。
「とにかく俺は少し考えたい。間を置きたいんだ。だからしばらく、そっちに行くのは止めたいんだけど……」
「………………」
しばらく沈黙が続いた。
カンッ 炬燵に高い音を立てて缶が置かれた。
「よし、わかった。お前の気が向かないならしょうがない。無理強いして、お前の人生を修正するはずが、悪化させたら本末転倒だからな」
引っ掻き回してる奴が言うなよ。
「だが、結論は急ぐな。時間はたっぷりあるんだ。気が済むまで悩め」
そう言って立ち上がると、フェードアウトしていった。
珍しく今日は1本しか飲まなかったな。
とりあえずもう寝るか。
次の日、仕事に行く前に、会社近くのスーパーで弁当を物色する。
なんだか今日は作る気がしなかったからだ。
弁当コーナーで親子丼にするか、味噌煮込みうどんにするか迷っていると、声をかけられた。
振り返ると、事務の
田上さんは、ちょっとポッチャリした、可愛い感じの小柄な
32歳らしいが童顔なので22、3にしか見えない。
俺は3回ほど、交通費や制服の配給などで話をしたことがある。
実はちょっとだけ、俺はこの人が気になっていた。
昔、孤児院で俺を可愛がってくれた保母さんに、よく似ているのだ。
おっとりした喋り方なんかも、そっくりだ。
親子ではないのかと思ったほどだ。
世界に3人は似た人がいると言うが、本当に他人の空似らしい。
あの当時はよくわからなかったが、お母さんのような憧れとは別に、淡い甘酸っぱいような想いがあった。
もしかすると、あれが俺の初恋だったのかもしれない。
「こんにちわぁ、東野さん。今日はここのお弁当?」
「ええ、今日は作るの面倒くさくて。田上さんも?」
「わたしは今晩のおかず買いに来たの。仕事終わったらすぐに帰れるようにねぇ」
彼女と女子たちの話を洩れ聞いた話によると、どうやらシングルマザーのようだ。
仕事が終わるとすぐに、保育園に子供を迎えに行くらしい。
だから残業が出来ないのが申し訳ないと、話していたのを聞いたことがある。
「東野さん、独り身だったけえ? それじゃ普段ご飯大変でしょう。良かったら今度、おかず作ってきてあげようかあ」
「えっ、ホントですか? 期待しちゃいますよ」
冗談半分、本気半分である。
「うふふぅ、冗談よぉ、期待されるほどのモノ出来ないしぃ」
そう笑いながら、じゃあねぇと彼女はレジに去っていった。
なんだ、ただのお愛想か。そりゃそうだよな。でもちょっと仕事以外で話せてよかったかも。
俺はこんな些細だけど、ちょっぴり幸せな平凡な日々が、永遠に続いてほしいと願った。
だが、そんな平凡な幸せほど
土曜日、奴は来なかった。
なんだかする事もないし、掃除もするほどでもないので、午後は炬燵で、図書館から借りてきたミステリー本を読んでいた。
どうやらそのまま眠ってしまったらしい。
奇妙で妙に生々しい夢を見た。
俺は何故か暗い森の中に1人立っていた。
辺りは黒い樹々に覆われ、枝の隙間から青い月が2つ並んで浮かんでいるのが見えた。
いつの間にこっちに来たんだろう。
俺はぼんやりそんな事を考えていた。
さっきから風が吹いていて、耳障りな音を立てている。
それは枝が風のせいで擦れる音だ。
ギーギィー、ピュービュー。
絶え間なくするその音の中に、微かに違う音が聞こえてくる。
耳を澄ますと、それは音ではなく、声のようである。
ようやく聞き取れたその声は、女の泣き声のようだった。
『うぅっうっ、ううぅ……うえぇぇぇ……んん』
その場に立ち尽くしながら、さらに集中して聞いていると、泣き声の中に言葉が混ざっていた。
『うぉぉん、うぇっうぇっ、悲しいよぉ……うぅ、悲しいねぇ……えっぇっぇっ……』
樹々が一段とギイギイ音を立てて揺れる。
それにともなって、泣き声も強くなる。
ただ、声は一方方向ではなく、俺の前後左右からする。
何人もいるのだろうか。
だが、音源を探っていくうちに、それは複数いるのではなく、どうやら俺のまわりをグルグルと大きく回っているのだと気がついた。
段々と泣き声がハッキリしてきた。
樹々の間を大きく渦巻き状に回りながら、少しづつソレは俺に近づいてきているようだ。
普段の俺ならば、とっくに恐怖で固まっているはずなのに、何故か恐れよりも強く好奇心を惹かれていた。
怖いが見てみたいような、確かめなくてはいけないような……。
勇気があったというよりも、何か頭に一枚ベールが被せられたように、恐怖が薄れていた。
とにかくコレを突き止めなければ。
すっと、黒い樹の影から何かがよぎったのが見えた。
ソレは泣きながら、両手で顔を隠して走っていた。
『うぇっうぇぇ……悲しいよぉ……えぅえっぇっ……』
「何がそんなに悲しいんだっ?」
俺はその走る影に、大声で訊いてみた。
『えっえっぇ……だってだってぇ……』
樹々の間を走りながら垣間見えるその姿は、髪を後ろになびかせ、茶色に赤い斑模様の服を着た女らしいというのが、月明りでわかった。
風が枝の間を切るように通る音が、一段と強くなる。
『うええぇん……だって……今夜、死んじゃうんだぁもぉのぉ…………』
そう言って覆っていた手をどかし、こちらを見た悲痛な顔は田上さんのだった。
『アレは
すぐそばで、奴の声がした。
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